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すみれの瞳の姫君  作者: 小夜
第一章
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姫君の乳母の災難 … 2

 汗にまみれて、ヴィダリア侯爵家の末の姫、モナシェイラは大声を上げた。


「六人抜きっ! やったぁ! 新記録達成よ! アストゥール、約束通り、その髭をいただくからね!」


 自慢の細身の剣で、姫君は宙を何度も切る。


 ひゅん、ひゅんと、鮮やかな音が鳴る。


 そのたびに姫君の背中では、一つに束ねられた豊かな黒髪が風にゆれた。


 少年のなりをしたその身は軽快に動き、あっというまに相手を、人垣の前へ追い詰めてしまう。


 追い詰められた男は情けない声をあげた。


「姫さま、そんなご無体な」


「いまさら、つべこべ言わないの! 約束は神聖なものよ」


「くっそう……! そなた達、面白がって、手を抜いてモナ様のお相手をしたのではなかろうな!」


 ヴィダリア侯爵家お抱えの騎士達の中から若手ばかりを配下に集めて、剣術指南役を務めているアストゥール・ハウエル卿は、いきり立った。


 立派な体格の若者が、自分の腕にできた、うっすらと血が滲む生傷を、卿の前につきだした。


「とんでもございません! これをご覧になってください! 適当にお相手をして、切傷など作りましょうか!」


 となりに立つ、泥だらけの男も同意する。


「必死でございますぞ」


 いよいよ追いつめられた風情で、アストゥール卿はわめいた。


「腑甲斐ない連中め! 覚えておれ! あとでそのなまくらの剣の腕、叩き直してくれる!」


 いきり立つアストゥール卿と笑う若者達の間へ、姫君が割り込んだ。


「はい、はい。ちょっと座ってくれるぅ? まちがって剃刀で鼻を削いだら、大変でしょう?」


「姫さまあ……」


 アストゥール卿は若者達が持ち出してきた椅子に座らされた。


 結局、この連中、立ち合いに私情は入っていないものの、悪戯心はしっかり姫君と結託しているのだ。


 十八年来の付き合いの愛しい髭に、冷たい泡が塗りたくられた。


 情けない気分で、マイカの蕾がついた枝を見あげる。


 アストゥールは、この花が咲く季節が大好きだった。しかし、当分この白い花を見るたびに、嫌な気分になりそうだ。


 枝の向こうに、敬愛する侯爵閣下と、姫君の乳母の顔が見えた。


 ひょっとしたら侯爵が、悪ふざけをやめるように取り成してくれるのでは……と、思った瞬間、剃刀が髭に当たった。愛しい髭とのお別れは、あっけないほど簡単だった。


「ああ、駄目よ。 アストゥール、じっとしていて」


 剣術指南役に怪我をさせないように、真剣な表情で剃刀を使う姫君の息遣いが、頬に感じられる。


 濃いすみれ色の瞳に、豊かな黒い巻き毛。こんなに間近で見るのは久しぶりだ。


 姫君は背中の中程までのばした髪を、いつもおさまりの悪いくせ毛だと嘆いているが、アストゥールは美しい黒髪だと思う。遠い南の国から嫁いでこられた、今は亡き奥方さまを思い出す。


 感傷的な感情を読み取られる不名誉を避けようと、アストゥールは髭剃の儀式がおわるまで、静かに目を閉じていた。


 金属が陶器にあたる音がして、冷たい指が両頬に触れた。


 はしゃいだ声が聞こえる。


「アストゥール。あなたが、まだ若くて美男子だって噂は、本当だったのね!」


「満足なさったか」


 目を開いたら鼻先に、ヴィダリア侯爵家の末の姫、モナシェイラ様の、あどけない笑顔があった。


 どうもアストゥールの目蓋の裏に浮かんでいた美少女像は、亡くなった奥方さまへの感傷が見せた幻だったらしい。実物の鼻の頭には、思わず数を数えたくなるようなソバカスが浮かんでいる。その上ではさらに、大の男六人に参ったと言わせた結果の土埃が、汗でよじれて斑模様になっていた。


 その姫君がたずねてくる。


「ねえ、アストゥールは、いったい幾つなの?」


「べつに、かくし立てはしておりませんが。はて、もう自分の誕生日が嬉しい歳でもありませぬゆえ。ええと……」


 指を折って数えてみる。

 姫さまのお歳が十五なのだから……。


「おや、今年でちょうど四十ですよ。神殿に出向いて、無事に壮年を迎えられた感謝の祈りを捧げて、護符を頂戴してこなければ」


「見えないわよ~、そんな歳には」


 アストゥールは少女の手をそっと自分の頬から離して、立ち上がった。


「わたしは姫さまがお生れになる前から、侯爵にお仕えしているのでございますよ?」


「だあってぇ、あなた美男子よ。どうして結婚しなかったの?」


「なんとなくとしか、答えようがございませんな」






     **  **  **






 バルコニーから一連の騒ぎをながめおろしていたヴィダリア侯爵は、片腕と頼む騎士の髭の下から表われた、若々しい顔に驚いていた。


 アストゥールの見かけは、若い頃と、ほとんど変わっていなかった。

 むしろ若い頃には隠し切れていなかった才気走った鋭さが、年令相応の落ち着きの中に影をひそめ、ひとかどの器量人のように見えている。


 姫君が、そのアストゥールに、まとわりついている。


「どこへいくの?」


「わたしは逃げも隠れもいたしませんよ。厩の見回りへいくのです。そろそろ馬に夕方の飼い葉をやる時刻でしょう。日が長くなってまいりましたから、まだまだ明るいが」


「わたしもいく」


「姫さま、馬の相手より、その泥だらけのお顔をなんとかなさいませ。夕食の前に行水でもなさったほうが、よろしいのでは」


「平気よ。着替えなんか、十分もあればできるもの」


「またシャフレ夫人に叱られますぞ」


「ふーんだ! 恐くなんかないもん!」


 そう宣言したくせに、アストゥールが苦笑を漏らしながらバルコニーに向かって目礼するのを見て、姫君は慌てた。

 父の隣には、ハンカチを握りしめて今にも卒倒しそうなシャフレ夫人が立っているではないか。


「やっば~」


 その一言を残して、姫君は中庭からかけ去った。


 見送り組の若者達が、どっと笑う。


 シャフレ夫人は震えていた。離すきっかけを失って、いまだに彼女の片手を握っていた侯爵に、震え具合がはっきり伝わるくらいに。


「侯爵さま」


「何かな」


 これはまずい。


 侯爵の笑顔はひきつった。どんなに老獪な政治家も、女性のヒステリーには敵わないのである。


 握りあった手がふりはらわれるのと、夫人が裏返った声でわめきだしたのは、ほぼ同時だった。


「ええ、十二年ですとも! わたくしはっ、あの跳ねっ返りの姫さまのお世話を、十二年も、ジューニネンも、じゅう・に・ねん・むもぉ……、うっ、うっ、ううっ……!」


 感情爆発。


 涙も大爆発である。


 そのままよよと泣き崩れるかのように見えたシャフレ夫人だが、さすがは、かのお転婆姫の乳母を十二年も務めた人であった。手をふりあげたり足をふみ鳴らしたりして慟哭をくりかえしたあげく、夫人は涙目で、きっぱりと侯爵を見上げてくる。


「田舎貴族のわたくしなどが侯爵さまにご意見申し上げるのは僭越だとは、十分に承知しております。ですが、もう我慢の限界です! 侯爵さまは、あの姫さまが、一年やそこらの花嫁修業で、まともな貴族のご令嬢におなりあそばすと、『本気で』、思っていらっしゃるのでございますか?!」


「なにも、そんなに力一杯、『本気で』、などと言わずとも」


「いいえ。今日という今日は、はっきりと申し上げさせていただきます。侯爵さまが亡き奥方さまを偲ばれて、面差しがよく似たモナさまを愛しく思われるお気持ちは、よく解っているつもりでございます」


 歯ぎしりしそうになりながら、夫人は思う。


 本当に奥方さまは美しい方だったという。美しいだけでなく、愛情深くて、知性豊かで、素晴らしい方だったらしい。まもなく五十を迎えようかという年齢に達していたヴィダリア侯爵のもとへ後妻として迎え入れられた方なのに、お二人の仲は、それはそれは睦まじかったと伝え聞く。お子を授かって、これからと思われていたのに、姫さまをご出産されたあとまもなく亡くなられたとか。


 でも、だからといって、忘れ形見の姫さまを、ここまで猫っ可愛がりするなんて!


 望めば馬を与え、男の形をして剣術修業に励む姿に目を細め、一日中書庫にこもっていても、おとがめすらなし……。


 普通、十五才の貴族の令嬢といえば、花を愛で、美しい物を集めたり、綺麗な刺繍の額を作ったりすることに夢中だったりするものではないだろうか。社交界に出入りすることに憧れたり、そういう華やかな世界の噂話を年上の淑女達から聞かせてもらって、はしゃいだり。


 そういったことを、気圧される一方の侯爵にむかって、シャフレ夫人はとうとうと述べた。


 言いたいことを思いっきり言い終えて、夫人の心は、やっと落ち着きを取り戻した。


 思えば姫さまも気の毒な方なのだ。


 シャフレ夫人が侯爵家にやって来るまでの三年の間に、十人もの乳母がこの家を去ったのは、彼女達がことごとく上流階級のやり方にこだわって、姫さまを深窓の令嬢として育てようと試みたからに違いない。


 人間には、向き不向きというものがある。


 田舎貴族の奥方として八人の子供を自分の手で育てたシャフレ夫人は、姫さまが癇癪持ちで手に負えないのは、あふれる好奇心を押さえつけて部屋の中に閉じこめようとするからだと、すぐに気がついた。


 散歩につれだし、いっしょに市を見に行ったり、身体を使う遊びを教えてやったりしたら、姫さまはすぐに落ち着いて、元来の悧発さを発揮されるようになった。


 そう、姫さまは、決して性質が悪い方ではないのだ。悪いのは姫さまを甘やかす、周囲の大人達である。


 この連中から引き離すのは、姫さまのためにも良いことかもしれない。


 そこまで考えたシャフレ夫人は覚悟を決め、からからになった喉を葡萄酒で潤して、高らかに宣言した。


「ようございます。わたくし、姫さまの遊学に御供させていただきます」


「引き受けてくれるか」


「わたくし以外の誰に、姫さまのお相手が務まるとおっしゃるのですか!」


「そうであろう、そうであろう」


 侯爵は、ほくそ笑んだ。


 ヒステリーの嵐に耐えた甲斐があったというもの。こういう場合、権力をかさにきて命令するのは逆効果なのだ。相手の情に訴えて、こちらの思惑通りの返事をひきだすのが最良の策である。


 さあ、それでは、詳細を詰めていこう。


 勝ちを確信した侯爵は、取りこぼした小さな問題の掃討にはいる。


「それでだな」


「はい」


「花嫁修業の遊学に出る件なのだが、そなたの口からモナに……」


「そのくらい、ご自分でなさいませ!」


「あれの逆鱗に触れると、なにかと」


「ぴしゃりとお命じになるのが、父君さまの威厳というものでごさいます!」


「その忠告にしたがって、モナにダンスの教師を押しつけたときには、十日もハンストされたではないか」


「あれは侯爵さまが意地になって、謹慎をお命じになられたからでございます」


「謹慎ごときを命じられたからといって、普通、断食までするかの?」


「意地の張り合いになったのは、売り言葉に買い言葉で、侯爵さまが喧嘩をお買いになられたからでございましょう?」


「いや、しかし――」


 どうやら姫君の意地っ張りは、父親からの遺伝らしい。その親子に負けていないシャフレ夫人も、大した大人物であるが。


 バルコニーに吹く風は、いつのまにか夕風に変わっていた。


 侯爵とシャフレ夫人は肌寒さを感じて、室内へ異動する。


 そしてそのあと、どちらが姫君に花嫁修業について切り出すかの話し合いは、延々、夕食の刻限まで続いたのであった。


お話の雰囲気を知っていただくために2本続けて投稿してみました。明日からしばらく、お話の大筋が明らかになるまで連投します。

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