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すみれの瞳の姫君  作者: 小夜
第七章
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正義と陰謀 … 2


 10日ほどして、ひさしぶりに下町へでかけていったローレリアンは、そこでまったく予想もしていなかったものを見て、腰を抜かしそうになった。


 例の掘っ立て小屋のそばの共同井戸で、モナが子供達に行水をさせていたのである。


「あら、こんにちは、ローレリアン!」


 くったくなくあいさつしてきた令嬢は、今日は小間使いに変装などしておらず、生地は上等だが動きやすそうな、飾りけのない紺色のドレスを着ていた。大きな白い前掛けをかけ、束ねた髪の上には日除けの麦藁帽子を乗せている。


「あっ、こら! まちなさいったら!」


 逃げだそうとした子供を捕まえて、泡立つ石けん水の中につっこむ。女剣士の腕っ節は、下町のガキ大将ごときに負けはしないのだ。


「季節が夏で良かったわぁ。洗った服はすぐに乾くし、水浴びしても風邪はひかないし。

 こら、ちょっと、おまちってば!

 髪に櫛を通すのよ!

 蚤もち、蝨もちには、仕事はやらないんだからね!」


「いったいこれは、どうしたことです?」


 ローレリアンは、井戸端の日陰にすわって計算尺の使い方を練習していたアレンにたずねた。


「どうしたもこうしたも、見ての通りです。

 モナさまは清潔になった子供には、交換条件で針仕事を教えるっていうんです。

 こういう所の女の子が身持ちを崩さずにすむためには、手に職がなくちゃいけないだろうって」


 アレンは自分の髪の毛をかきまわした。


 しゃべったせいで、また数がわからなくなった。


 この計算尺を自由にあやつれるようにならないと、地図による距離測定だの、行軍の速度予想だの、補給物資の供給配分計画だのといった、軍人に求められる、ありとあらゆる数字の問題に即応できない。アストゥールの要求は、やたらと高度だった。


 不器用な指だ。


 そう思ったローレリアンはあきれて、アレンから計算尺をとりあげた。


「こうですよ。こうやって、こう」


「ローレリアンさんは、計算尺まで使えるんですか」


「これが使えないと、設計図は引けません。橋の強度計算などには、関数も必要です」


「うええっ」


 関数? 嫌な響きの言葉だ。


 ローレリアンがアレンに計算を教えているあいだに、モナと石けんの匂いがするようになった女の子達は、日陰の石段に落ち着いて、針仕事をはじめていた。


 針仕事は貴族の娘の教養だ。モナも得意ではないが、シャフレ夫人に一通り仕込まれている。


 教えはじめてから10日ほどだが、飲込みの良い少女は、もう上手に継ぎあてや鉤裂きの繕いをするようになっていた。


 自分がアミテージにいられるのは、一年というのが父侯爵との約束。できることなら立ち去るまでに、年かさの少女達に簡単な刺繍の技術まで仕込んで、繕いや刺繍の仕事で食べていけるようにしてやりたい。そして、その子達が、また年下の子供達に仕事を教えてやれるように。


 それが、モナが考えに考えて、出した結論だった。


 ローレリアンがレオニシュ医師から、またしても押しつけられた食事当番で作った粗末な豆のスープを、今日のモナは美味しそうに食べたし、おしゃべりもいっぱいした。


「うふふ。頭がいいでしょ?

 わたしがもってきたのは、針と糸だけよ。

 仕事は朝のうちに、子供達がそこらをまわって、もらってくるの。

 一生懸命考えたのよ。ローレリアンが教えてくれたこと。

 大切なのは、自立すること。生きていく力をもつこと。

 それに人の力がつながっていくためには、どうすればいいのかなと、思って」


 モナは自分の胸に手を当てて思う。


 勇気は、すでにここにある。


 それが最初に、ローレリアンが教えてくれたことだった。


 今、何をするべきなのか。


 いつもそう考える、自分でありたい。


「女の子には針仕事を教えることにしたけれど、男の子には何をしてやったらいいかしら」


「やはり、簡単な読み書きと計算を教えることでしょうかね。男の子も女の子も、それができれば、仕事の選択肢も増えるでしょうし」


「そうよね。そうだわ」


「わたしも、なるべく暇なときには、手伝うようにしましょう」


「ありがとう!」


 ローレリアンは思わず、モナから目をそらした。


 モナの笑顔はまぶしかった。


 すみれ色の瞳がなごやかな色を放つと、アミテージの草原に早春咲き乱れる、匂いすみれの香りが、あたりに漂うようで。


 すみれは強い花だ。


 どんな荒地でも力強く、群れをなして咲き誇り、春の訪れを高らかに告げる。


 馬鹿げたことだ。


 ヴィダリア侯爵家の令嬢に、一瞬でも、ときめくなど。


 自分は聖職に身を捧げるつもりだったはずだ。一生人々の中にあれば、それで満足できるはずだった。


 ずっと、憧れていた。


 与えられる地位をきっぱり拒否して、自分の生き方を宣言する瞬間。


 田舎の任地で、平凡な神官として、一生を人とともに生きるつもりだと。


 その瞬間の想像をくりかえしては、高揚感を覚えていた。


 押しつけられるものをすべて拒否し、自分の生き方を貫くことこそが、自分を人としてあつかわなかった身内への、ささやかな報復だと思っていた。


 その時こそ、自分は勝利する。


 正義は自分にある。


 そう信じていた。


 ――けれど、今まさにその時を迎えようとして、わたしは迷っている……。


 暗い衝動は押さえがたい。


 もし、本当に自分がパヌラ公爵家に縁の者だというのならば、与えられて手にできるものは、自分が迷うことなく捨てられると思っていたものより、もっと大きなものなのではないだろうか。


 さまざまな建築物を空想で作りあげながら夢見たこと。


 人々の中にいたのでは、なし得ないこと。


 人や物の流れを変え、生活を変え、世の中を動かす夢。


 夢想だと、自分で自分を嘲笑いながら、捨て切ることができなかった夢。


 もしかしたら、夢は夢でなくなるのかもしれない。


 陰気な気分で顔をあげたら、もう一度モナと目があった。


 すみれ色の瞳が優しくほころんで、美しく輝いた。


 ――そんな迷いのない美しい瞳で、わたしを見ないでくれ!


 ローレリアンは後片付けをするからと、逃げるように掘っ立て小屋から出ていった。


 汚れた鍋を手に井戸端に立つ。


 水場のむこうの日陰から、騎士階級の男が三人、所在なさげにこちらを見ていた。ごみごみと無秩序にボロ屋が建て込んだ下町では、かなり浮いた存在だ。


 おそらく彼らはモナの護衛なのだろう。


 モナを慕っている、というか、振り回されているアレン少年も、身分は従者だと言っていた。


 自分を嘲笑う失笑が漏れてしまった。


 モナとは住む世界が違うのだ。わかっていたはずなのに。


 だから深入りしたくなかったのだ。心が綺麗な少女の、懐になど。


 井戸に釣瓶を落としこんだ。


 遠い穴蔵の底で、水がはねる音がした。


 まるで自分も、穴蔵の中にいるようだ。


 アレンが皿を山積みにした、たらいを抱えてやってきた。


「すみません。うちの姫さまは、言いだしたら、とにかく聞かない方なもんで。

 でも、真剣なんです。それだけは、認めてさしあげてください」


「お仕えする方々は、気が気ではないというところですか?」


 ローレリアンが目線で指し示した先に騎士達の姿を見て、アレンは苦笑した。


「ええ、まあ。まだモナさまを狙って襲撃をしかけた連中が誰なのかも、わかっていませんからね」


「そう言えば、わたし達が知りあったのは、その事件が発端になるのですね」


「そうかあ。ローレリアンさんと知りあえて良かったって、手放しに喜ぶのは、ちょっと不謹慎かもしれませんね」


「アストゥールさまは、お元気ですか」


「元気も元気。毎日、バカだのカスだのって、俺は、怒られまくってますよぉ」


 アレンは、けらけらと笑った。


 数字や抽象概念をあつかい慣れていないアレン少年に、高度な数学を教えるのは、確かに骨が折れた。


 ローレリアンは元気になったアストゥールが、うんざりしながら少年に数学を教えているところを想像して、一緒になって笑ってしまったのだった。



計算尺:二つ以上の対数尺を相互に移動させて、乗除計算をはじめとして、比例、平方、立方、三角関数、対数その他の近似計算が簡単にできるようにくふうされた計算器具。直線型と丸型の2種類がある。1970年代に関数電卓が実用化されるまでは、一般事務から特殊な技術用途まで幅広く使われていた。

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