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すみれの瞳の姫君  作者: 小夜
第六章
17/40

下町の人々 … 3


 ローレリアンは夕方の礼拝の前におこなわれる祈祷書朗読の練習に間に合うように、急いで神学校の寄宿舎へ帰りついた。


 寄宿舎の食堂には、もうだいぶ学生が集まっている。


 独特の節回しで祈祷書を読み上げる方法を教授する教師の手は、圧倒的に不足している。表向き、この集まりは神学生の自主的な勉強会ということになっているが、下級生の指導は成績の良い上級生に任されているようなところがある。


 物心ついたときから神殿で育ったローレリアンにとっては肌に染みつくほどに馴染みが深い音律も、初心者には、わけの分からない呪文にしか聞こえないらしい。


 勘が悪い新入生には、噛み砕くように一言ずつ口移しで教えていくしかないのだから、この仕事を教師達が投げ出すのも、無理はないと思うローレリアンである。


 耳から覚えられるように、何度も、何度も、同じ節をくりかえす。


 下級生達は、ローレリアンの詠唱に聞き惚れていた。


 彼の整った容姿から見る者が期待するとおりに、落ち着いた深みのある声が朗々と、聖句を読み上げていく。


 うまい詠唱には、人の心を解き放つ力があると言われている。


 心地よい暖かい声に包まれていると、頭の芯が痺れてきて、すべてが許され、満たされ、世界を体内に感じられるようになるのだと。


 夏の日は長く、食堂の窓からは低くなった日ざしが、いっぱいにさしこんでいた。


 薄手の夏用の物でも、制服の上着をきっちりと着込んでいるのは、いささか辛い。


 下級生が順番に聖句を唱えるのを気だるい気分で聴いていたローレリアンは、ふとよそ見をしたおかげで、食堂の入り口に立った舎監が自分を手招きしていることに気づいた。


「来客ですよ」


「ありがとうございます」


 にこやかに礼を言いながら、ローレリアンは心にわく冷たいものを感じていた。


 神学校の規律は厳しい。たとえ親の面会でも、面会日以外は認められないことがほとんどだ。


 そういう規律の頭越しに、ローレリアンに面会を求める人物はひとりだけだった。


 そして、その人物の存在こそが、おそらくアミテージの神学校がローレリアンに破格の自由を認めている理由なのだ。


 寄宿舎の粗末な客間へいくと、その場にはおよそ似つかわしくない雰囲気の貴婦人が、ローレリアンを待っていた。


 彼女の年令はよく分からない。つまった衿の中にわずかにかいま見える首筋のたるみだけはかくせないようだから、外見を若く見せるための秘術をつくした、相当な年令の女性なのかなと、ローレリアンは思っているのだが。


 一応、神殿を訪問するための品位を失わない黒っぽい服装をしているが、この女性が身を飾る事にかける熱意は相当なものだ。袖や衿にあしらった豪華なレースや刺繍は、庶民には縁のない高級品だし、部屋中に漂っているさまざまな花の香りも、この女性が身につけて持ちこんだ人工的なものである。


 貴婦人は懐かしげな眼で、ローレリアンを見あげた。


「おひさしぶりね、ローレリアン」


「ご無沙汰しております」


「ええ、本当に。わたくしも、もう少しまめに様子を見に来たいのだけれど、なかなか暇が作れなくて。お元気でしたか?」


「おかげさまで」


 さあ、よく顔を見せてと、女性はローレリアンの手を取って自分のとなりへ座らせた。


「あなたも、そのような社交辞令が使えるお年になられたのね。いくつになりましたか」


「19です」


 女は、遠くを見つめた。


「19……、もう、そんなになりますか。そろそろ将来の任地のことなどについて、司祭長さまと相談しなければなりませんね」


「………」


 あまりに予想どおりの展開だったもので、ローレリアンは言葉を返せなかった。


 ときどきたずねてきては、ローレリアンの後見人だと名乗るくせに、本名を明かそうとはしないこの女は、今度はローレリアンに『相応しいそれなりの地位』を与えるために、やって来たのだ。


 『それなりの地位』が金で買われるのか、あるいはこの女の背後にいる人物の権力で手に入れるものなのかは、知らないが。


「なにも心配はいりませんよ。わたくしに、すべて任せてね。くれぐれも頼むといわれて、ご両親からあなたを預かったときから、わたくしはあなたのことを、我が子同様に大切に思ってきたのですから」


 それならば何故、両親はわたしを、地方の神殿になど預けたのですか?


 わたしの素性をかくすのは何故ですか?


 あなたが名乗らないのは、どうして?


 暗い思いが渦巻く。


 あなたは、わたしにも赤い血が流れているということを忘れています。


 わたしは人間なのです。


 自分で物を考える、人間なのです。


 もういつまでも、自分の人生を人任せにしていられるほど、わたしは幼くはない。


 女が、ローレリアンの頬にふれてくる。


「あなたは、お母様に、とてもよく似ていらっしゃいます」


「そうなのですか?」


「ええ、あなたのお母様も、優しい水色の瞳をお持ちでしたよ」


「それは嬉しいです」


 暗い思いを表に出さずに、微笑むすべも覚えた。


 それを学ぶことが、大人になることだと思ったから。


 微笑みつづけたら、なぜかちくりと、胸が痛んだ。


 脳裏にヴィダリア侯爵令嬢の無邪気な笑顔が浮かんだのだ。


 わたしはローレリアンを信じていると、彼女が自分に注いでくれた信頼を、土足で踏みにじっているような気がした。


 わたしは、立派な人間などではない。


 できるものなら、わたしを苦しめている者達に、復讐したいとすら思っている、醜い人間なんだ。


 さらに好感度抜群の作り笑いが花開く。


 ローレリアンの華やかな容姿を最大限に生かす、輝く笑顔だ。


「どうか、父上、母上さまに、ローレリアンは立派にやっていると、お伝えください」


 女は満足げに微笑んだ。


 そして、何も心配はいらないと、ふたたびくりかえした。






     **   **   **






 ローレリアンが寄宿舎の玄関まで女を見送りに出ると、玄関の石段に、ラッティ少年が座っていた。


 客人といっしょに出てきたのがローレリアンだとわかると、彼は嬉しそうに笑う。


 ラッティは賢い子供だ。自分が自立して生きていくためには読み書きができたほうがいいと、時々こうしてローレリアンのもとへ、文字を習いにくる。


 女は、いつも自分の身分が知れないように用心して、辻馬車でやってくる。


 馬車が走りだすまぎわに、ローレリアンは背後の少年へ言った。


「ラッティ、あの馬車がどこへ行くか、追いかけられるかい?」


 少年の顔が輝いた。


 何かローレリアンに礼をしたいと、つねづね思っていたのだ。


「ちょろい、ちょろい。おいらは馬車が通れない裏道を、先回り、先回りで行けばいいのさ。まかせといて!」


 ローレリアンは肩をすくめてラッティを見送った。


 少年がやたらとアミテージの裏道にくわしいのは、ローレリアンと知りあう前は、スリとして生計を立てていたからなのだ。


 彼を拾って犯罪から足を洗わせてやれて、自分も少しは、神々の教えに従えたのだろうか。


 しかし、復讐の手段として、あの子を使っているようでは……。


 夏の長い一日が、いま、終わろうとしている。


 暮れゆく街の光景をながめながら、ローレリアンは、いつまでも苦い思いにとらわれていた。






     **   **   **





 夜も更けきった頃、ラッティは、やっと帰ってきた。


 彼に何かあったのではないかと心配し始めていたローレリアンは、やたらと元気な少年の顔を見て、ほっとした。


 途中で女が馬車を乗り換えたり、裕福な商人むけの旅籠へ入ってしばらく出てこなかったりしたものだから、見失いそうになって、えらくてこずったんだと、ラッティは鼻息荒い。


「あの女の人は、最後にパヌラ公爵の別邸へ入っていったよ。パヌラ公爵って、枢密院の議長だよね?」


 たったひとつの手がかりをたどっていったら、下町のスリの少年でも知っている大人物へ行き着いてしまった。


 ローレリアンはぼうぜんと、夏の星空を見あげた。



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