下町の人々 … 1
今日のアレンは、郷里の母親が心づくしとして持たせてくれた一張羅の胴着を身につけている。
鹿皮をなめして黒く染めた胴着は、アレンの成長をみこして少し大きめに作られていた。だから、だらしなく見えないようにベルトの下に苦心してタックを作り、慎重に剣帯を一番かっこうよく見える角度に調節してつけてきた。
そして、モナにもらった羽根つきの帽子を、粋に斜めにかぶる。もちろん、真鍮の飾りはぴかぴかに磨きこんであるし、茶色い鷹の羽も、埃を払って丁寧に形を整えてある。
人間、外見を整えると、気合いが入るものなのである。
アレンがやたらと意気ごんでいるのは、やっとベッドに半身を起こせるようになったアストゥール卿から、病人の世話はもういいから、おまえは以前から計画していた学問所通いを始めるようにと、命じられたからだった。
懐には、アストゥールが書いてくれた歴史と地理、物理と数学、それに外国語の学問所への紹介状が入っている。国王陛下の軍隊に士官として出仕しようと思ったら、田舎の寺子屋で習った程度の知識しか持たないのでは話にならないのだ。
アストゥールは、とくに物理と数学を念入りに勉強するようにと言っていた。これからの軍人は、距離を測るための三角測定法だの、砲弾の弾道計算だのができなくてはだめなのだという。
今に剣は戦場から消えると、アストゥールは予言していた。大砲と銃の性能が年々大きく向上している。あと十年もすれば、それらが戦の方法を大きく変えてしまうだろうというのだ。
政治の中枢にいる大貴族に片腕と頼られる人は、やはり凡人とは違った。
アレンの父親などは、いまだに騎士に必要なのは剣術と乗馬の技術だと信じて疑っていないようだが、もう父親のように、土地を耕しながら戦に備える貴族の私兵の時代は終わったのだ。
そもそも騎士という称号自体が、すでに意味を持たなくなっていて、それを名乗る人が必ずしも軍人であるとは限らなくなってきている。
これから軍人は、さらに職業化していくに違いない。王都では、士官を専門的に教育する学校を作る動きもあるそうだ。
三つの学問所のうち、まずは、どこでも好きな所へでかけていけば良かったわけだが、アレンは勉強の開始を一日遅らせる決心をしていた。
モナさまは、あれから部屋に閉じこもってしまわれて、誰とも口をきこうとしなくなってしまったのである。かれこれそうなってから、三日になる。
自分のお人好しぶりには、いいかげん、うんざりだ。何かの用事のついでにモナさまの部屋の窓の下を通ると、必ず立ち止まって気配をうかがってしまう。
気のせいだと自分に言い聞かせているが、時々、泣いているんじゃないかと思うことがある。
夏が恨めしい。
人のいる部屋はどこでも窓が開いているから、内部の気配がわかるのだ。冬だったら、こんなに深く、悩まなくてもすんだだろうに。
自分は、かなりの馬鹿だと思う。
大嫌いとののしられた女のために、手紙のひとつでも書いてやってくれないかと、相手の男のところへ頼みにいってやろうと、考えているのだから。
学問知識では、とてもモナさまには太刀打ちできないが、世間の物事に関しては、アレンのほうが数倍経験豊富である。モナのように、あてもなくローレリアンを学問所の前で待ち伏せしたりはしない。
アレンは怪しげなローレリアンの『師匠』レオニシュ医師の居所を、下町に当たりをつけて探してみて、小一時間ほどで、その診療所にたどり着いた。
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レオニシュ医師の診療所は、今にも崩れそうな無秩序な増築をくりかえした建物に間借りしたものだった。
アレンが、待合室らしき人があふれかえった入り口の部屋で手伝いの女性に訪問の理由を告げると、ローレリアンは奥の研究室にいるから、勝手に入るようにと言われた。
研究室には診察室を通って入るようになっていた。
診察のじゃまにならないように、診察室へは礼儀正しく控えめに入っていったつもりだったが、泣きわめく屋根から落ちた煙突掃除夫の肩の脱臼を渾身の力をこめて引っ張りながら治療していたレオニシュ医師は、アレンのあいさつに気づきもしなかった。
風を通すために、診察室と研究室のあいだの扉は開けっ放しにしてあった。
しかし、アレンのもとへ吹き寄せてくる風は、あまり快適な風とはいえない。
風は、すえた臭いを、はらんでいたのだ。窓の外の路地に捨てられたゴミが、暑さのせいで腐っているからだろう。
下町には残飯を引き取りにくる業者などいない。ゴミは窓から道端に捨てられ、雨が降ると排水溝に流れていく。下町の人間にとっては、自分の目につかないところに消えてくれさえすれば、それがすなわちゴミを始末したということなのだ。
研究室は、とにかく、ごちゃついた部屋だった。
部屋の壁という壁は、すべて本棚や薬品棚で埋まっているし、床の面積の半分はあろうかという大きな台には、ランプや試験官、ガラスの管を組み合せて作った実験装置などが、所狭しと並べられている。きっと、この上で、アストゥールの命を救った薬などが作られているのだろう。
ふたたび、ざっと、風が流れ込んでくる。
その風が吹き込む窓の下の書き物机にむかって、ローレリアンは座っていた。
掃き溜めに鶴とは、彼のことだと思った。
神学生の灰色の上着は椅子の背にかけられており、白い半袖のシャツが風をはらんで、金色の髪といっしょにゆれている。真剣な表情で机を見おろしている横顔には、声をかけるのがはばかられるような気品が漂っていた。
煙突掃除夫の泣き声がやんだ。
静かになったあたりには、ローレリアンが定規を使って線をひく、小気味のいい音だけが聞こえている。
診察室からレオニシュ医師の声がかかった。
「おい、ローレリアン。手がたらん。骨がもとにもどったから、こいつに添え木をあてて包帯をしてくれ」
「はい、先生」
ローレリアンが立ちあがって、ふりむいた。
アレンに気づくと、にこやかに笑う。
「こんにちは。まさか、ここでお会いするとは思いませんでした。少し、まっていてくれますか」
研究室にアレンはひとりで取り残された。
ぶらぶらと窓に歩みよる。
窓の外は狭い路地だ。風は通るが、視界はむかいの建物の古ぼけた壁に遮断されていた。
壁と壁のあいだをのぼって、かすかに聞こえてくるのは、荷馬車が狭い曲がり角をゆっくりと曲がって行く音や、物売りの声、子供の集団が笑いながら駆けぬけていく足音などの気配だ。アレンには、どこか懐かしく聞こえる。郷里の村の気配に、似ているのだ。
手持ちぶさたでローレリアンの机の上をのぞくと、大きな紙に見事な橋のパースがひいてあった。建築学の学者の私塾に出入りしていると聞いていたが、これだけの設計ができるのなら、建築技師として身を立てることもきでるのではないかと思える。
しばらくしたら、ローレリアンがもどってきた。好意的な顔はしていたけれど、観察されているなと、アレンは感じた。
「こうしてあらためてお目にかかると、アレン殿は、立派な騎士様だったのですね」
社交辞令にしては真剣味のある感心した口調だったので、アレンは赤くなった。
それが、悔しい。
こいつの前では、堂々としていたいのに。
「俺もまだ、見習いです」
さんざん「わたしはまだ学生」と、ローレリアンに言われた返礼を返す。
もっとも、同じ身分と言うには、かなりこちらのほうの分が悪い。
待たされているあいだにローレリアンの机をながめていたが、机のまわりにうずたかく積み上げられた本は、建築学だけでなく、経済だの法律だのといった、アレンには理解不能の難しい専門書ばかりだった。
「ローレリアンさんは、かわった神学生さんですね。いったい、どれだけの勉強を、なさっておいでになるんですか?」
「興味があることは、すべてですよ」
「神々にお仕えするには、関係ないことばかりじゃないですか」
「そんなことはありませんよ? 田舎や下町の教区の神官は、はっきり言って何でも屋ですからね。法律の相談を受けることもあれば、寺子屋の教師もする。病人の世話もするし、村の橋が流れてしまえば、設計も引き受けます」
「この橋、村の橋なんかじゃないでしょう。大きな船が行き交うような川に架かっているやつだ」
アレンは橋の設計図をとりあげた。
ローレリアンは苦笑した。
「それは、わたしの夢想ですよ。
橋を架けるということはね、物や人の流れを変えて、地域の経済を変え、人々の生活を変えるということなんです。
それこそ、一神官が考えるような事ではないでしょう?」
ローレリアンは設計図をうけとると、くるくると丸めて机のわきに置かれた篭の中につっこんでしまった。篭の中には、同じように巻かれた紙の筒が、たくさん入っていた。
「夢想ですよ。わたしは神官になるんだ。人々の中にいて、やらなければならないことは沢山あります」
まるで自分に言い聞かせているような口調だった。
アレンは素直に、他人のために何かしようと考えているローレリアンは、すごいなあと思っていった。
「ご立派です」
けれど、相手は、むっとした様子だった。
「皮肉ですか」
「いや、そんなつもりは」
アレンは、負けるもんかと、見つめあう視線を懸命にそらさないようにした。
それでも、ちょっと怖いなという感情を、完全に押し殺すことはできない。
今日のローレリアンの水色の瞳は、怪我人のアストゥールや、悩みに憂いているモナに向けられていたような、優しい色をしていなかった。
ローレリアンの瞳の色が冷たかったのは、じつは、アレンに対する嫉妬心が抑えられなかったからなのだが。
将来の夢は立派な騎士になること、などといった、まだ単純な目標しか思い描けていないアレンには、複雑に育ったローレリアンの心を、そこまで察せなかったのである。
精一杯の背伸びで身形を整えてきたたアレン少年の様子は、とても初々しい。
両親に可愛がられて健やかに育った心で、未来を自分の力でつかみ取ろうと考えている少年は、ローレリアンには、ただひたすら眩しく見えたのだ。
瞳の色が冷たければ、口調もそっけない。
「今日のご用はなんでしょう。わたしはもう、できることならヴィダリア侯爵家のような大家とは、関わりになりたくないのですが」
「異端審問に問われそうな、例の問題を気になさっているんですか」
「あれは、まったく平気ですよ。実際問題、師匠は領主や神殿関係のお偉方の所にも、あの薬を持って出向いているんです。もう連中も同じ穴のムジナです。問題を改めて掘り起こしたりはしません。
今に既成事実が、神々のお考えを、われわれ人間にとって都合のいいように解釈する方向へと導くでしょう」
「科学の力が世界を変える……でしたね」
「そうです」
そう信じている人が、神職に身を捧げようと考えるのは不自然すぎる。どうもローレリアンは自分が考えているよりも、もっと複雑な人間のようだと、アレンは思った。
「じつは、ここへうかがったのは、モナさまのことでなんです」
「モナさまが、どうかなさいましたか」
「あなたにもう一度会いたくて、思いつめていらっしゃるようなので」
ローレリアンが、くすくす笑った。笑われたのはモナではなくて自分だと悟り、アレンは赤くなった顔を背けた。
「失礼。モナさまも幸せな方だ。主人思いの人に慕われて」
「そんなんじゃありませんよ。俺は女にメソメソされるのが、嫌なだけです」
「ほうっておきなさい。おたがいに住む世界が違うのです。会えないままでいたほうが、絶対に、よろしいのですよ」
「それで、あきらめがつく方なら、いいんですけれどね。
思うに、モナさまはあなたに、貴族階級の男性にはない、思慮深さのようなものを感じているのです。
モナさまの奔放な物の感じ方を、そのまま受けとめてさしあげられるほどの器量を持つ人は、今まで同年代のお友達の中には、いなかったようで」
「今は、あなたがいるじゃありませんか」
「俺は、ふりまわされてるだけですから」
「わたしは、彼女のように純粋な人が苦手ですよ。必死で生き方のようなものを、探しておいでになる。その回答を、わたしに求められてもね。
わたしは小ずるい男なんだ。
わたしの生き方なんて、すべてが危うい、ごまかしでできているのに」
ローレリアンの表情に、暗い影がさした。陰気な本質が不意にこぼれ出てしまったように見えて、アレンは驚いた。
いったい、この青年は……。
「うわあー!」
開け放った扉のむこうの診察室で、複数の人の歓声があがった。
ローレリアンとアレンのあいだの気まずい空気も、吹き飛ばされた。
レオニシュ医師の声が聞こえてくる。
「こりゃあ、ありがたいけどもさ。このくそ暑い陽気に、量が多すぎやしないか?」
「先生、うちのかかあを助けてくれたお礼です。俺んちには七人もガキがいるんですぜ。かかあが死んだら、途方に暮れちまいまさあ。どうぞ、お納めください」
若者二人が診察室へでていくと、治療用のベッドのうえには、牛の片足が、どっかりと乗っていた。その周りを、レオニシュ医師の診療所で働いている人達が、にぎにぎしく取り巻いている。
「おい、リアン。なにか刃物はあるか」
師匠から愛称で呼ばれたローレリアンは、さきほどの陰気さなど微塵も感じさせない笑顔で答えた。
「先生、ご近所から包丁を借りてきたほうがいいんじゃないですか?」
「めんどくせえや。手術用のやつで、一番大きなナイフを出しな」
レオニシュ医師は小さなナイフを器用にあやつって、肉を切り分けていった。
そして、「今日中に食わねえと、腹を下すぜ? 肉は腐りやすいからな」と言いながら、油紙に肉を包んで、手伝いの人達へ渡していく。たいそう気前がいい。
それでも牛の足は、ももが半分ほど削がれただけで、大部分が残ってしまった。
レオニシュ医師は頭をかいた。
「おい、リアン」
ローレリアンは、うんざりした調子で答えた。
「今日もですか? わたしだって、いいかげんに学校のほうへも帰らないと困るんですが」
「せっかくの肉だぜ? な? 頼むから」
「まあ、好きな時に出入りさせてもらって、ここの机を使わせてもらっていますから、先生の頼みは断れませんけれどね」
「んじゃあ、頼むわ」
牛の足は包みなおされて、ローレリアンの両腕のうえに乗せられた。子供ひとり分くらいの重量がある。ローレリアンはよろめいた。
「ちょっと、先生」
「早くベッドを空けねえと。まだ待ってる患者が沢山いるんだから」
早く行けと、万年過労で血走った医師の眼が、若者を追い払う。
ローレリアンはため息をつくと、アレンに言った。
「申し訳ありませんが、奥へもどって、わたしの上着をもってきてくれませんか」
アレンは上着をもって、取って返した。
すると、診察室の入り口では、牛の足を抱えたローレリアンが困りはてていた。
なんと、開いたドアの前に立っていたのは、モナだったのである。
ついに思いあまって、ひとりで屋敷をぬけだして、アレンほど手際が良くなかったために苦労してここへたどり着いたお姫さまは、想い人の顔を見るなり、泣きだしてしまっていた。