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すみれの瞳の姫君  作者: 小夜
第一章
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姫君の乳母の災難 … 1

R15展開は、かなりお話が進んでからになりますのであしからず m(__)m

 広い中庭を見下ろすバルコニーへ呼び出されたシャフレ夫人は、屋敷の主であるヴィダリア侯爵とともに優雅な午後のひとときをすごしていた。


 あたりには心地よい風がふいている。

 ヴィダリア侯爵家の立派な邸宅は、貴族の館が集まる高台の中でも一等地にあるから、日当たりも風通しも最高なのだ。


「よい季節がめぐってきた。すでに、初夏のおもむきじゃな」


 絹張りの椅子にゆったりと身を預けた侯爵は、年令とともに長くなって垂れ下ってきた眉の先を、ゆるゆるといじっている。

 眉の下の目の色はおだやかだ。若かりしころには『ローザニアの鷹』と称されたほど鋭かった眼光は、いつの間にか柔和で知的な輝きへ変化したといわれてより久しい。


 だから、シャフレ夫人も、おだやかに答えた。

 この場に呼び出されたときには、かなり緊張もしていたのだが。


「王都の夏は、すごしやすうございます」


「であろうな。そなたの家の領地は、かなり南じゃ。そういえば、総領殿はお元気か」


「はい、おかげさまで」


 シャフレ夫人は品良く折り曲げた太めの指の陰で、忍び笑いを噛み殺した。


 侯爵は遠い目で話題の人物を忍ぶような素振りを見せているが、おそらくシャフレ夫人の息子の顔はおろか、名前も覚えていないに違いないのだ。名門一族の当主には、もっと他に覚えておかなければならない顔も名前も山ほどあるだろうから。


 中庭にそびえるマイカの大木の枝が風に騒めいた。


 葉陰に群れをなしてそよぐ小さな白い蕾からは、よい香りが漂いはじめている。


 なつかしい香りだ。


 遠い南の片田舎の小さな屋敷に、子供が生まれるたびに夫が植えたのも、マイカの木だった。子供たちが育って大人になったころには、屋敷のまわりに立派なマイカの林ができあがっていた。


 あのマイカの林は、どうなっただろうか。


 シャフレ夫人が夫の死後、家を継いだ長男夫婦に遠慮して王都に居を移してから、すでに十二年の歳月がたっている。


 長い十二年だった。


 いったい何度、喧嘩別れした嫁に詫びを入れて、領地へ逃げもどってしまおうと、思ったことか。


 侯爵がつぶやいた。


「そなたが我が家へきて役目を果たしてくれるようになってから、はや十二年になるのう」


 おや、侯爵さまも同じ事を考えておいでになるとは、と、夫人は微笑む。


 主従の間には、同じ時を共有した者に特有の、暖かい空気が生まれた。


「十二年は長い年月じゃ」


「さようでございますね」


「よくもまあ、長の年月を」


「はあ……」


「耐えて……。そう、耐えたのであろうな……」


 侯爵の最後の言葉は、うなり声の中に消えた。


 急に、暖かな空気が冷えていく。


 だんだん居心地が悪くなってきた。


 シャフレ夫人は落ち着こうと、さきほど勧められた極上の葡萄酒が入った杯を口に運んだ。


 けれど、味がさっぱり分からない。まるで小石が喉を下りていくようだ。


 ヴィダリア侯爵は外見こそ柔和な老人だが、政治の表舞台では、ローザニア王国の宿老と呼ばれている人物だ。その宿老の口が、重たくなる話題といえば……。


 突然、バルコニーの下の中庭で、歓声があがった。


 囃し声は、侯爵に仕える若手騎士達のものである。騒ぎの中心人物が、五人抜きを達成したと宣言する声も聞こえてくる。


 涼やかな声である。まるでマイカの白い花の、爽やかな香りのように。


 その声を聴いた老侯爵は、深いため息をついた。

 そのあともたげられた顔には、シャフレ夫人への懇願が浮かんでいた。


「十二年じゃ、十二年!」


「侯爵さま――」


「これは十二年を耐えぬいた、そなたを見込んでの頼み!」


 今すぐ暇乞いをしろと、ひらめきを運ぶ妖精がシャフレ夫人の耳元で囁いた。そうしなければ、酷い目にあうぞ、と。


 だが、田舎貴族の未亡人が、どうして政界の雄を争う大貴族に逆らえようか。シャフレ夫人はテーブルの上に置いていた手を侯爵に握られて、目を白黒させるだけであった。


 侯爵は、いっきにまくしたてる。


「あれが生を受けてより三年の間に、癇が強くて扱いあぐねると、じつに十人にもおよぶ乳母が、暇乞いをして去っていった。わしが途方に暮れておった所に、そなたが来てくれた。わしがどんなに神々に感謝したか、分かるか? そして十二年の長きにわたって、そなたがあれに注いでくれた、愛情と細やかな養育と導き。この感謝、とても言葉では言いつくせぬ」


「感謝など……」


 ……いらないから引退させてくれ、と、言いたかったのに言えなかった。侯爵がシャフレ夫人に喋らせまいと、さらに言葉をたたみかけたからである。


「何も言うてくれるな。恨み言、つらみ言、山ほどあろう。さようなことは、重々承知。だがな、適任者はそなたしかおらぬ」


「いったい、わたくしにどうせよと、おっしゃるのでございますか」


「なに、たいしたことではない。あれも、十五になった。そろそろ年頃じゃ。ゆえに、我が家の慣習にしたがって、行儀見習いを兼ねた遊学に出してやろうと思うてな。いわばこれは花嫁修業。そなたに頼みたいのは、後見役としての同行なのだが」


 侯爵は夫人の表情を、注意深く観察している。

 何とかこの場を言い逃れるすべはないかと、夫人が必死に考えていることは、とっくにお見通しなのである。


 いよいよいたたまれない気分になったシャフレ夫人は、侯爵に握られた手を自分のほうへひきもどそうとして、小さく「ひい!」と悲鳴をあげた。獲物を逃してなるものかとばかりに、侯爵の両の手に、力がこもったからである。


「旅の行き先は東の学問都市アミテージじゃ。期間は四季が一巡するくらいか。何も心配することはない。アミテージは貴族や豪商の子弟なら、成人する前に必ず一度は訪れるほどの学問都市。我が家も一族の子弟のために、かの地には別邸を構えておる。王都にいる時と変わらず、不自由なく過ごせるはずじゃ」


 心配事は、そんなに単純なことではないのですよ!

 と、悲鳴の形に開いた口をパクパクさせながら、シャフレ夫人は顔で訴える。声が出ないのだ。


 侯爵は言い募る。


「深刻に考えることはないぞ。男子の場合は何年もアミテージに腰を据えて勉学に励む必要もあろうが、婦女子の遊学の場合は、淑女の振る舞いと、社交術と、貴族の奥方として大きな身代を切り回せる教養が身につけば良いのじゃ。わしが言うのもなんであるが、あれは聡い。不足しておるのは、淑女としての――」


 侯爵の声は中庭の大歓声でかき消された。


 バルコニーの下には、騎士達の中心に立った小柄なひとりが細身の剣をかかげている姿が見えている。今まさに、勝利の宣言がなされるところだ。


 やんやの喝采が飛びかっている。


 さきほど聞こえていた涼やかな声が、弾んだ息とともに勝利宣言をなす。


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