十一月二日 きろく
その紙を渡されたのは、十月に入ってすぐだった。
八月に団地で見たもののことが頭から離れず、私は何度かあの横道を通っていた。わざわざ遠回りしてまで見に行くことはしなかったが、近くを通ると、ついベランダの並びや管理人室の前の掲示板に目が行った。
その日も、買い物の帰りに団地の前を通った。
管理人室の引き戸は半分開いていて、中から扇風機の回る音がしていた。前に話したあの女性が、折りたたみ椅子に座って紙を揃えていた。
「あら」
私に気づくと、女性は手を止めた。
「この前の人よね」
「はい」
「ちょうどよかった。これ、見る?」
そう言って差し出されたのは、A4のコピー用紙を重ねた薄い束だった。角が少し丸まっていて、左上にはホチキスを外したような穴が二つ並んでいた。
「前の自治会の残り。片づけてたら出てきたの。大したものじゃないけど」
受け取ると、紙の端に赤ペンの跡が見えた。
私はとっさに断れず、「ありがとうございます」とだけ言った。
「古い防災訓練の記録よ。たぶん十一月だったと思う」
いちばん上の日付を見ると、十一月二日になっていた。
その場で開くのも落ち着かなかったので、私はいったん持ち帰った。
実家の自室の机に紙を並べ、クリアファイルから出す。窓の外では、日が傾きはじめたころの薄い光が、向かいの家の壁を白くしていた。
最初の一枚は、ただの回覧だった。
【回覧】
〇〇団地自治会 防災訓練実施のお知らせ
下記のとおり、防災訓練を実施します。
入居者の皆様は、できるだけご参加ください。
日時 11月2日(日) 午前9時30分 集合
場所 中央広場
対象 東棟・西棟 入居世帯
内容 避難経路確認、点呼、消火器取扱い説明
※当日は回覧板配布世帯を対象に参加確認を行います。
※空室を除く対象戸数は34戸です。
〇〇団地自治会
ここまでは何もおかしくなかった。
団地の掲示板に貼ってあっても違和感のない、ごく普通の文面だった。
だからこそ、赤ペンの訂正だけが妙に生々しく見えた。
印刷された文字は誰のものでもないのに、書き足された線だけは、そこにいた誰かの迷い方をそのまま残している気がした。
二枚目には、当日の記録らしい表があった。
コピーが少し傾いていて、右端がわずかに切れている。
【実施記録】
防災訓練参加一覧
実施日:11月2日
東棟
参加世帯 17
不参加世帯 1
空室 1
西棟
参加世帯 16
不参加世帯 1
空室 1
合計
参加世帯 33
不参加世帯 2
空室 2
出席確認人数 36名
私はそこで、もう一度最初の紙を見直した。
空室を除く対象戸数は三十四戸。
実施記録では、参加三十三、不参加二、空室二。
頭の中で足し直してみたが、一度で合わなくなって、もう一度見直した。
数字そのものが大きく違うわけではなかった。
どれも一つずつしかずれていない。
だからこそ、どれを見ても「間違い」と言い切れないまま、36名だけが表の上で少し浮いて見えた。目で追うたびに、そこだけ後から書き足された数字みたいに見えた。
三枚目は、同じ訓練に使った配布資料の部数メモらしかった。
これは手書きが多く、文字も途中からかなり崩れていた。
【配布部数メモ】
資料配布部数
訓練案内 35部
参加票 35部
当日資料 36部
※西棟3階分 含む
※空室除くなら34
※去年も1部多い
私は紙から目を離して、机の上に並べた三枚を見た。
三枚しかない。
そう思ってから、いや本当に三枚だったか、と一瞬だけ自信がなくなった。
最初の紙では三十四戸。
次の紙では、参加三十三、不参加二、空室二。
配布は三十五部、三十六部。
しかも最後の一行には、去年も1部多いとある。
数字は一つずつしかずれていない。
だから余計に、どこを基準に見ればいいのかわからなかった。
帳尻は合わせられそうなのに、最初からどこか一つだけ余っている感じが消えない。
コピーの端に、赤ペンで細く書き込まれた訂正があるのに気づいた。
線がかすれていて、元の文字に重なっている。
【欄外の赤ペン訂正】
34戸 → 35?
西3-06 空室
でも当日○あり
参加人数 36 → 35でよい?
配布数合わず
後で確認
西3-06。
それが部屋番号だと気づいたとき、二話で見上げたベランダの位置を思い出した。どの部屋だったのか、私はもう自信がない。けれど、西棟の三階か四階だった気がする、という曖昧な感じだけはまだ残っていた。
その紙には、さらに別の筆跡らしい小さなメモが残っていた。
コピーのせいで薄くなっていたが、読むことはできた。
【手書きメモ断片】
・西棟三階、子どもを見たという話あり
・誰が見たか不明
・去年も同じことを言う人がいた
・空室のはず
・訓練の列にいたという人もいる
・名簿にはなし
私はそこで手を止めた。
部屋の中は静かだった。
一階から母がテレビをつける音がかすかに聞こえてくる。
それなのに、机の上の紙だけが周囲と少し切り離されているように見えた。
訓練の列にいたという人もいる。
その一行が、思っていたよりずっと嫌だった。
六月十四日の日記。
八月の団地のベランダ。
九月に佐伯と話した、教室が狭かった感じ。
それぞれ別の話のはずなのに、こうして並べると、どれも人数の内側に混ざっていたものの話みたいに思えた。
けれど、正式な記録の中では、その部分だけがうまく浮いていた。
表には人数があり、戸数があり、空室があり、訂正もある。
その形式の中に、「子どもを見た」という言葉だけが場違いだった。
私は三枚のコピーを重ねた。
三枚の紙はどれも同じコピー用紙のはずなのに、重ねると端の揃い方が少しずつ違っていた。裁断のずれといえばそれまでだったが、そう思って見ても、四枚目を抜いたあとの束みたいに見える瞬間があった。
左上のホチキス跡がぴたりと重ならない。
もともと違う束から抜かれたものなのかもしれないと思った。
そう考えてから、もう一度数えた。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
そこで手が止まった。
紙のあいだに、もう一枚なにか挟まっているような厚みがあった。
私は三枚を机に置き直し、指先で端をそろえた。
白い紙は三枚しかない。
それでも、左の端だけが少し浮いて見える。
おかしいと思って持ち上げると、クリップの跡が一つ多いことに気づいた。
紙は三枚。
跡は四つ。
私はそれ以上見ないことにして、コピーをクリアファイルに戻した。
返すなら早いほうがいいと思った。こういうものを長く手元に置いておくのは、なんとなくよくない気がしたからだ。
紙の表面は少しざらついていて、何度もコピーされた資料特有の乾いた手触りがあった。
それが妙に嫌で、指先を離してからもしばらく感触が残った。
ファイルを閉じたあとも、机の上には何もない。
それなのに、一枚ぶんの余白だけが、まだそこに置き忘れられているように見えた。
数が合わない場面を覚えている方はご連絡ください。




