九月二十七日 ずれる
その同級生と会ったのは、九月の終わりだった。
引っ越し先も決まり、実家に戻していた荷物もだいたい片づいたころで、私はようやく地元で少し時間を持て余すようになっていた。六月十四日の日記を読んでから、昔のことを思い出す回数が増えた。八月に団地で見たものも、数日経っても頭から離れなかった。
だからといって、誰かに相談できるような話ではなかった。
ただ、あの日の学校のことを覚えていそうな相手が一人だけ浮かんだ。
佐伯とは、小学校の四年から六年まで同じクラスだった。卒業してからはほとんど会っていなかったが、地元に残っていることはSNSでなんとなく知っていた。軽い気持ちで連絡してみると、意外なくらいあっさり返事が来て、その日の夜に駅前のファミレスで会うことになった。
平日の夜で、店内は空いていた。
入口近くの席に案内されて、私たちはドリンクバーだけ頼んだ。
「で、どうしたの急に」
佐伯は昔とあまり変わっていなかった。少し痩せて、声が低くなったくらいだった。ストローの袋を指先で折りながら、半分笑っている。
「別に、たいしたことじゃないんだけど」
「そういう言い方のとき、だいたいたいしたことあるだろ」
私は少し笑ってから、コップの氷を見た。
団地のことから話すより、もっと前のところから入ったほうがいい気がした。
「小学校のときのこと、急に思い出して」
「小学校?」
「四年くらいのとき。校舎で変な騒ぎあったの、覚えてる?」
佐伯はすぐには答えなかった。
メニュー表を端に寄せてから、少しだけ眉を寄せる。
「変な騒ぎって」
「知らない子がいたってやつ。ベランダかどっかにいて」
「ああ……」
佐伯はそこで一回視線を上に向けた。
「ベランダじゃなくて、窓じゃなかった?」
「え?」
「四階のトイレの窓。なんか、身を乗り出してたとかで騒いでたやつ」
「それ、後じゃなかった? 最初はベランダだった気がする」
「いや、最初から窓だったと思うけどな」
あまりに自然に返されたので、私は言葉に詰まった。
自分の中では、最初に騒ぎが起きたのは隣のクラスのベランダ側だった。そこから新校舎のほうへ移った、という印象が強く残っている。
でも、佐伯はその前提ごと違うらしかった。
「帽子かぶってたよな」
と、佐伯が言った。
「帽子?」
「黄色いの。ほら、一年の」
「……それ、そんなにはっきり覚えてる?」
「覚えてるっていうか、そうだった気がする」
佐伯はそこで少し笑った。
「なんか、みんなそう言ってたし」
「私は、帽子だったかどうかもあんまり……」
「でも、小さい子だったろ」
「それはそう思う。白っぽかった気もするし」
「白はあったな」
「赤っぽいのも、なかった?」
「赤?」
「服っていうか、なんか。スカートだったのか、別のものだったのかはわからないけど」
佐伯は少し黙った。
それから、曖昧な顔のまま首を傾ける。
「赤は、どうだったかな」
細部だけが妙に噛み合わなかった。
でも、まったく別の話をしている感じでもなかった。
店内のBGMが、さっきまでより少し大きく聞こえた。
「校内放送、あったよな」
私がそう言うと、佐伯は頷いた。
「あった。教室で待ってろ、みたいな」
「自主学習してください、みたいなやつ?」
「そうそう」
そこまではすぐに合った。
でも、その先がまたずれた。
「最後、変なこと言ってなかった?」
佐伯はストローの袋をいじる手を止めた。
「変なこと?」
「なんか、その子は本校の生徒じゃない、みたいな」
「いや、そこまでは言ってないと思う」
「そうだったかな」
「もっと普通だったろ。先生方が対応します、みたいな」
「でも、そんな感じのこと言ってなかった?」
「うーん……」
佐伯は少し考えてから、首を横に振った。
「いや、俺は覚えてない」
その“覚えてない”が、否定なのか、自信がないだけなのか、よくわからなかった。
「お前、あの日、見た?」
と、佐伯が言った。
「はっきりは見てない」
「見てない?」
「見ようとはした。けど、いるように見えたり、いないように見えたりした感じ」
「なにそれ」
「変だよね」
「いや……」
佐伯はコップを持ち上げて、少しだけ飲んだ。
「俺も、見たと思ってたんだけど」
「思ってた?」
「今話してたら、どこまで見たのかよくわかんなくなってきた」
その言い方に、妙にぞくっとした。
思い出しているのに、輪郭がはっきりするんじゃなくて、逆に崩れていく感じがしたからだ。
佐伯は窓の外を見た。
ファミレスの駐車場の向こうに、コンビニの明かりが見える。
「でもさ」
と、佐伯が言った。
「あの日、変だったのは覚えてる」
「何が?」
「教室」
「教室?」
「狭かった気がする」
「……教室が?」
「うん」
「人数、多かったってこと?」
「そう、それ」
佐伯はすぐに頷いた。
「席の間、こんな詰まってたっけって思った。うちのクラス、こんなだったかなって」
その言い方を聞いた瞬間、六月十四日の日記の最後の一文が頭に浮かんだ。
きょうは、さいごまで人が多い気がしました。
私はテーブルの上に置いたスマートフォンを見た。
黒い画面に、自分たちの手元だけがぼんやり映っている。
「それ、誰かに言ったことある?」
「ない」
「なんで」
「いや、変だろ。教室が狭かった気がするって」
佐伯は少し笑った。
でも、その笑い方は軽くなかった。
「お前は?」
「私もない」
そのあと、私は思いきって団地のことを話した。
実家の近くの古い団地で、小さい影みたいなものを見たこと。
聞いてみたら、その棟に小さい子はいないと言われたこと。
回覧板や防災訓練の人数が、ときどき一戸ぶん合わないという話が出たこと。
佐伯は途中で笑うかと思ったが、最後まで何も言わずに聞いていた。
「それ、ちょっとわかるかも」
話し終えたあとで、佐伯はそう言った。
「何が」
「数が合ってるのに、余ってる感じ」
私は黙った。
「俺、前にさ」
と言いかけて、佐伯はそこで止まった。
「……いや、なんでもない」
「何」
「いや、別に」
その言いよどみ方が、団地の管理人室の前で会った女性に少し似ていた。
何か話せることがあるのに、そこで口を閉じる感じ。
「この話、ほかのやつ覚えてるかな」
私が話題を変えるように言うと、佐伯は「ああ」と頷いてスマートフォンを取り出した。
「たぶん宮本なら覚えてる。隣のクラスだったし」
その場で短いメッセージを送り、数分して返事が来た。
佐伯は画面を見て、少しだけ眉を上げた。
「なんて?」
「見てないって」
「見てない」
「うん。直接は見てない。でも——」
佐伯は一回そこで止まって、画面を見直した。
「教室が、いつもより狭かった気がするって」
私は何も言えなかった。
佐伯がスマートフォンをテーブルに置く。
そのとき、空のグラスが軽く触れ合って小さな音がした。
どこかのテーブルで店員が注文を確認している声が聞こえる。
その何でもなさの中に、私たちの会話だけが妙に浮いていた。
「なあ」
佐伯が急に声を低くした。
「なに」
「いや、変な聞き方だけど」
「うん」
「最近さ、人数とか、気になることない?」
「人数?」
「……数えちゃうとか」
私はすぐには答えなかった。
佐伯も、それ以上言わなかった。
代わりに、テーブルの上のものをなんとなく見た。
グラスが二つ。ストローの袋の切れ端が一つ。伝票立て。メニュー。スマートフォンが二台。
それだけだった。
それだけのはずなのに、向かいの席とのあいだが少し狭い気がした。
「……ある」
と、私は言った。
佐伯は頷いた。
その頷き方が、答え合わせみたいで嫌だった。
会計を済ませて店を出たあとも、私はそのことを引きずっていた。
駐車場で佐伯と別れ、ひとりで歩きながら、さっきの会話をスマートフォンのメモに残そうとした。
ベランダではなく窓。
黄色い帽子。
教室が狭い。
人数は同じなのに多い感じ。
そこまで打って、私はレシートを財布にしまい忘れていたことに気づいた。
何気なく開いて、指が止まった。
ドリンクバー 3
注文したのは二人分のはずだった。
私はその場で立ち止まった。
打ち間違いかもしれない。伝票をまとめるときに前の客の分が混ざっただけかもしれない。そんなことはいくらでもある。
でも、その数字を見た瞬間、向かいの席とのあいだが少し狭かった感じを、急にはっきり思い出した。
私はレシートを折って財布に押し込んだ。
振り返っても、ファミレスの窓際の席は暗くてよく見えなかった。
人数は合っていた。
だから、そのまま帰った。
数が合わない場面を覚えている方はご連絡ください。




