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八月三日 かげ

 八月に入ってから、実家のまわりは昼間ほとんど音がなくなった。


 子どものころは、夏休みといえば近所のあちこちから声がしていた気がする。ベランダ越しに名前を呼ぶ声とか、どこかの家の風鈴とか、夕方になると急に増える自転車の音とか、そういうものが一緒くたに夏だった。いまは蝉の声だけが残っていて、人の気配だけきれいに抜けていた。


 もちろん、まったく人がいないわけではない。午前中には買い物帰りらしい高齢の夫婦とすれ違うし、夕方になれば犬の散歩をしている人もいる。けれど、昔の夏にあった種類の音だけが、うまく思い出せないまま消えていた。


 その日、私は母に頼まれて、駅前のドラッグストアまで日用品を買いに出た。洗剤と詰め替え用のシャンプーだけだったから、歩いて行ってもたいした距離ではない。行きは大通りを通ったが、帰りは暑さを避けたくて、昔よく使っていた団地の横道を抜けることにした。


 その団地は、子どものころからほとんど変わっていないように見えた。白っぽい外壁はところどころ灰色にくすみ、ベランダの手すりにはあとから付けたらしい目隠しの板がばらばらに並んでいる。棟ごとに少しずつ形が違うのに、遠くから見ると全部同じようにも見えた。


 小学生のころ、同じ学年の子があの団地に住んでいた。夏祭りの夜に一度だけ遊びに行ったことがある。何号棟の何階だったかは覚えていないが、部屋に上がる前、外階段の踊り場からずらっと並んだベランダを見上げて、どこも同じなのに全部少しずつ違って見えるのが妙に怖かったのを覚えている。


 団地のベランダは、下から見上げるとどこも似ていた。

 似ているのに、ひとつずつ暮らし方だけが違って見えるのが苦手だった。洗濯物のある部屋とない部屋、植木鉢の多い部屋と空っぽの部屋。何もないところほど、かえって目が止まった。


 団地の横を歩いているときだった。


 何気なく上を見た拍子に、三階か四階あたりのベランダに、小さい影のようなものが見えた。


 最初は、洗濯物が風で寄っているだけかと思った。けれど、そうではなかった。物干し竿の下、手すりの近くに、誰かがしゃがんでいるように見えた。背が低い。体ごと見えているわけではなく、頭から肩のあたりだけが柵のあいだから出ている感じだった。


 帽子をかぶっているようにも見えたし、髪の毛が丸く膨らんでいるだけのようにも見えた。


 私は立ち止まった。

 買い物袋の持ち手が指に食い込んでいるのに、しばらく気づかなかった。見間違いならそのまま歩き出せるはずなのに、目だけがそこから離れなかった。


 団地の敷地の中に入ってまで確認するつもりはなかった。ただ、見上げたまま数秒いるうちに、相手もこちらを見ているような気がしてきた。そう思った瞬間、影はすっと沈むように見えなくなった。


 ベランダには、干しっぱなしのタオルが何枚か揺れているだけだった。


 私は少し待ったが、何も出てこなかった。


 小さい子どもがいたのだろう、とそのときは思った。親の目を盗んでベランダに出ていただけかもしれない。危ないな、とぼんやり考えながら歩き出して、それでもなんとなくもう一度振り返った。


 同じ場所には、もう何もなかった。


 団地の敷地を抜けるところに、小さな管理人室があった。引き戸は半分開いていて、中に扇風機の音がしている。壁には自治会のお知らせと、防災訓練の日程表、それから「無断駐車禁止」と書かれた色褪せた紙が並んでいた。


 ちょうど中から人が出てきたので、私は少し迷ってから声をかけた。


「すみません」


 出てきたのは、七十代くらいの女性だった。管理人というより、自治会の当番をしている住人のようにも見えた。


「この棟って、小さい子、まだ住んでますか」


 自分でも曖昧な聞き方だと思った。相手も少しだけ首をかしげた。


「小さい子?」


「さっき、上のベランダにいるのが見えて」


 そこまで言うと、女性は団地の棟を振り返った。私が見ていたあたりを見上げ、それからすぐに視線を戻した。


「このへんは、もういないわよ」


「いない、ですか」


「小学生ならいるところもあるけど、あんな小さい子は、たぶんいないんじゃないかしら」


 その言い方が少しだけ引っかかった。

 たぶんいない。

 断言ではないのに、言い切られたようにも聞こえた。


「見間違いじゃない?」


 女性はそう付け足した。


「植木とか、洗濯物とか。あの棟、空いてる部屋もあるしね」


 空いてる部屋、という言葉に、私はまた上を見た。さっきのベランダがどの部屋だったのか、急に自信がなくなった。同じような手すりが並んでいるせいで、位置が少しずつずれて見える。


「たまにいるのよ、子どもを見たって言う人」


 女性は、思い出したようにそう言った。


「でも、だいたい違うの。昔の感覚で見てるのよ。ここ、前はもっと子どもが多かったから」


 そこで話は終わるはずだった。

 けれど、女性は引き戸に手をかけたまま、少しだけ言いよどんだ。


「まあ……数が合わないことはあるけどね」


 私は聞き返した。


「数が合わない?」


「たいしたことじゃないのよ。回覧板とか、防災訓練とか、部数を数えるときにね。あれ、この棟こんなにあったっけってなることがあるの。空いてる部屋を入れたのか外したのか、あとで見直せばだいたい合うから、そのままにしてるけど」


 女性は苦笑いをした。


「古い団地だから、名簿もたまにずれるのよ」


 その言い方を聞いたとき、先週の防災訓練の列の後ろを思い出した。もう一人ぶんだけ余って見えた白線。六月十四日の日記の最後に書かれていた、さいごまで人が多い気がしましたという一文。


 そこまで連想して、私は自分で少し嫌になった。何でもつなげすぎている気がしたからだ。けれど、つなげたくないのに頭の中で勝手につながる感じも、六月十四日の日記を読んだときとよく似ていた。


「この棟、何戸ありましたっけ」


 気づくと、そんなことを聞いていた。


「さあねえ」


 女性は笑った。


「昔と今で違うし、使ってない部屋もあるし。ちゃんとした数は名簿を見ないとわからないわ」


 それから軽く会釈して、管理人室の中へ戻っていった。扇風機の回る音だけが残った。


 私はその場を離れたが、すぐには帰る気になれず、敷地の端にある掲示板の前で足を止めた。自治会の予定、防災訓練の案内、回覧板に挟まっていたらしい印刷物の予備。どれもよくある内容だったが、紙の枚数だけが妙に気になった。


 数えるつもりはなかった。

 それでも目が勝手に追ってしまう。

 棟の番号、ポストの並び、掲示物の枚数、部屋番号の札。


 一度数え方に意識が向くと、もう見ないふりができなかった。自分でも、いつからこうなったのかわからなかった。


 集合ポストは二列に並んでいて、そのうちいくつかには名前がなく、「空室」とだけ差し込まれていた。空室の札は四つあった。たぶん四つだと思う。そう思ったあとで、いや三つだったかもしれない、とすぐにわからなくなった。名前の入っていないポストがもう一つあったような気もしたし、それは見間違いだったような気もした。


 結局、どこが多いのか、どこが足りないのかはわからなかった。


 ただ、ひとつぶんだけ余っている感じがあった。


 その感じをうまく言葉にできないまま、私は団地の敷地を出た。買い物袋の持ち手が汗で少し指に張りついていた。蝉の声がうるさいくらいに響いているのに、足元だけは妙に静かだった。


 道に出てから、なんとなく振り返った。


 さっき見たベランダではなかった。


 一階の、通路のいちばん奥。

 薄暗い日陰になっているところに、小さい影のようなものが立っていた。


 今度は、しゃがんでいるようには見えなかった。手すりもないから、体の輪郭が少しだけわかる気がした。それでも、はっきり子どもだとは言えなかった。白っぽいものが見えた気もしたし、ただ奥の壁が明るいだけだったのかもしれない。


 距離があった。


 それでも、さっきベランダにいたものと同じものを見ている気がした。


 私は立ち止まったまま、その影を見ていた。向こうがこちらを見ているのかどうかもわからなかった。数秒だったのか、もっと長かったのかもわからない。


 次に瞬きをしたときには、もう何もいなかった。


 帰宅してから、母にあの団地のことを聞いてみようかと思った。昔、同じ学年の子が住んでいたことを覚えていないかとか、今も子どものいる家があるのかとか、そのくらいなら不自然ではない。


 けれど、玄関で靴を脱いだところで、私はそのまま黙ってしまった。


 母のサンダルがある。

 父の靴はない。

 私のスニーカーを下駄箱にしまう。

 それだけのことなのに、一瞬だけ、玄関のたたきが一足ぶん広く見えた。

 そこに何かが置かれていたわけではない。

 ただ、靴を脱いだあとに残るはずの場所だけが、まだ埋まっていないように見えた。


 私はすぐに目を逸らした。


 まだ、報告するほどのことではないと思った。

数が合わない場面を覚えている方はご連絡ください。

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