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六月十四日 よはく

 引っ越しが決まってから、私は二週間だけ実家に戻っていた。


 転職ではない。今の部屋の更新時期と、新しく借りる部屋の入居日がうまく合わなかっただけだ。荷物の大半はトランクルームに預けて、最低限の着替えと仕事道具だけを持ち、久しぶりに子どものころの部屋で寝起きしていた。


 実家に長くいるのは年末年始くらいだった。平日の生活ごと戻るのは何年ぶりかわからない。最初の数日は、家の中の何もかもが少しずつ自分のリズムから外れていた。洗面所のタオルの位置、冷蔵庫の開き方、母が朝のニュースを見る音量。知っている家のはずなのに、泊まりに来たみたいな感じだけが抜けなかった。


 仕事から帰ってきて風呂場の場所に一瞬迷ったり、夜中に喉が渇いて台所へ行ったとき、暗い廊下の長さが昔より少しだけ伸びた気がしたりした。もちろん、実際にそんなことがあるはずはない。疲れているだけだと思っていた。


 だから、押し入れの整理を手伝ってほしいと母に言われたときも、深く考えなかった。どうせ自分の荷物も混ざっているだろうし、時間つぶしにはちょうどいいと思った。


 子ども部屋の押し入れの天袋には、卒業アルバムや図工の作品、使わなくなった文房具の缶、もう動かないゲーム機なんかが段ボールに雑多に詰め込まれていた。そのいちばん下から、薄い学習ノートを何冊か輪ゴムでまとめた束が出てきた。


「まだあったんだ、それ」


 母は襖の外から覗き込んで、少し笑った。


「夏休みの絵日記とか、そのへんじゃない? 捨ててもいいなら捨てるけど」


「いや、ちょっと見る」


 輪ゴムを外して、一冊目の表紙を見る。青い罫線の入った、どこにでもある国語のノートだった。右上に小さく学年が書かれていて、鉛筆の跡が擦れて薄くなっている。かろうじて読めたのは、「四年二組」の文字だけだった。


 押し入れの前にしゃがみ込んだまま、私はページをめくった。


 案の定、几帳面に続いているものではなかった。最初の数ページに自己紹介のようなものがあり、その次は遠足の日、その次は運動会、その次はまた何ページか空白。思い出したように一行だけ書いてある日もあれば、見開きでぎっしり埋まっている日もある。今さら読むほどのものでもないと思いながら、なんとなく手を止められなかった。


 たぶん、時間が中途半端だったのだと思う。夕飯にはまだ早く、仕事の連絡も来ない。実家の、静かすぎる午後だった。窓の外から小学生の声が聞こえるたびに、自分だけ時間の外にいるような気がした。


 ノートの中身は、ほとんど覚えていなかった。

 遠足、運動会、飼育当番。書いてある内容はどれもありふれているのに、文字だけが妙に生々しかった。自分で書いたはずなのに、自分じゃない子どものノートを読んでいるみたいで、ページをめくるたびに少しだけ落ち着かなかった。


 そうして何冊目かを開いたとき、妙に書き込みの多いページが目に入った。


 六月十四日。


 その日付だけ、鉛筆で二重丸がついていた。


 どうして丸をつけたのか、見た瞬間には思い出せなかった。何か特別な日だったのかもしれないし、ただの気まぐれだったのかもしれない。けれど、そこに書かれている文章を読む前から、胸の奥にうまく言えない引っかかりが生まれていた。


 六月十四日。

 平日だった気がする。曇っていて、少し蒸し暑かったような気もする。

 でも、それ以上は出てこない。


 私はノートを持ったまま、押し入れからいったん離れた。埃っぽい空気から逃げたくなって、廊下を抜け、リビングのテーブルにそれを置く。冷蔵庫から麦茶を出して、一口飲んだ。グラスの表面がすぐに曇った。


 そのとき、ほんの一瞬だけ、先週の防災訓練のことを思い出した。


 職場では年に何度か、避難経路の確認や点呼の訓練がある。その日は午後の業務をいったん止めて、非常階段を使って一階まで降り、駐車場の白線の内側に部署ごとに並ばされた。人数確認の声は普通に聞こえていたし、前の人との間隔も、隣の列との距離もおかしくなかった。


 それでも、自分たちの列だけ後ろに少し余っているように見えた。


 最後尾の職員のさらに後ろに、もう半歩ぶんだけ白線が続いているのが変に気になった。誰かが遅れて来るのを待っているような、もう一人ぶんだけ場所が空いているような、そんな感じだった。


 もちろん、振り向いても誰もいなかった。並んでいたのは見慣れた職員ばかりで、数だって合っていた。点呼はすぐ終わったし、あとから回ってきた記録にも問題はなかった。


 だから、その場でもあとからも、私は誰にも何も言わなかった。

 言うほどのことではなかったからだ。


 それなのに、六月十四日という日付を見たとき、最初に浮かんだのがその感覚だった。


 私はリビングの椅子に座って、ノートを開き直した。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


六月十四日 くもり


 きょう、となりのクラスがさわいでいました。


 さいしょはけんかかと思いました。

 でも先生が来て、ベランダのところに知らない子がいると言いました。

 へんな子と言ったのかもしれません。知らない子だったかもしれません。そこはよくおぼえていません。


 みんな、下の学年の子がまちがえて来たんだと言っていました。

 でも、となりのクラスの先生は、そうじゃないと言っていました。


 わたしはさいしょ見えませんでした。

 ベランダに出たらもういないと言う子と、まだいると言う子がいました。


 それで、こんどは新校舎のほうだとだれかが言いました。

 さっきあっちにいたのに、もうこっちにいるのはへんだと、みんな言っていました。


 わたしも見ようとしたけど、よく見えませんでした。

 あたまのあたりが丸い気がしました。

 ぼうしかもしれないし、かみの毛かもしれません。

 白いのが見えた気もするし、赤いのがあった気もします。

 でも、あとでみんなで言ったら、言うことがちがいました。


 先生たちがさがしに行って、校内ほうそうが入りました。


 先生がもどるまで、しずかにじしゅ学しゅうをするように言われました。

 さいごに、変なことを言っていた気がします。

 でも、なんて言ったのかわすれました。


 そのあと、また大きい声がして、みんなまどのほうを見ました。

 四かいのまどのところに、さっきの子がいると、みんなが言いました。

 おちそうであぶないと言っている子もいました。


 でも、わたしには、いる気もするし、いない気もしました。


 先生が来たときには、もういませんでした。


 帰りの会で聞いたら、先生は気にしなくていいと言いました。

 でも、きょうは、さいごまで人が多い気がしました。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 読み終えたあと、私はしばらくノートを閉じられなかった。


 子どもの書いたものだから、曖昧なのは当たり前だ。むしろ、曖昧なまま書かれているからこそ、当時どれだけ状況がわかっていなかったかがよくわかる。知らない子がいたのかもしれないし、何人かの見間違いが重なっただけかもしれない。学校という場所では、そういうこともある。


 それでも、最後の一文だけは違った。

 何を見たのかより先に、その日の感覚だけが残っている書き方だった。


 きょうは、さいごまで人が多い気がしました。


 その“多い”が何に対してなのかは書かれていない。クラスの人数かもしれないし、廊下に集まった子どもの数かもしれない。たまたまそう感じただけ、と言ってしまえばそれまでだった。

 でも、その言い方が理由もなく嫌だった。


 私はそう自分に言い聞かせて、グラスの麦茶を飲み干した。

 もうぬるくなっていた。


 ちょうどそのとき、スマートフォンが震えた。

 職場の連絡用グループに、新しいメッセージが入っていた。総務からで、防災訓練の記録の訂正版が回ってきたらしい。


 何の気なしに開いて、私は指を止めた。


 総務から回ってきたのは、ただの訂正版だった。

 日付、実施時刻、参加部署、参加人数。どれも見慣れた書式で、騒ぐようなものではない。だから余計に、人数の欄だけが妙に浮いて見えた。


 一人増えていた。


 訂正前の数字を私は覚えていなかった。そこまで気にして見ていなかったはずだった。

 それでも、その数字を見た瞬間、最後尾の職員のさらに後ろに、もう半歩ぶんだけ列が続いているように見えたことを、急にはっきり思い出した。


 私はスマートフォンを伏せて、ノートに目を落とした。


 開いたままの六月十四日のページの下、赤鉛筆で引かれた線の外側に、さっきまでなかったような薄い数字が見えた気がした。


 36


 ちょうど、出席人数を書くにはおかしな位置だった。


 うちのクラス、何人だったっけ。


 そう思って、私はリビングを見回した。

 母が台所にいる。父はいない。食卓の椅子は四脚。流しに伏せてあるグラスは二つ。玄関に見えた靴の数も、たぶん合っていた。


 それでも、廊下の先にもう一足ぶんだけ余白がある気がした。


 そこまで考えて、私はやめた。


 点呼は合っていた。

 だから、報告はしなかった。

数が合わない場面を覚えている方はご連絡ください。

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