第八章 星図一致
早川悠斗の研究室が、臨時の指令室と化した。
三台だったモニターが五台に増え、壁には日本地図と星図のプリントアウトが貼られ、床にはケーブルが蛇のように這っている。早川は三日間ほぼ寝ていない。目の下の隈が紫色に変わり、エナジードリンクの消費量は一日十二缶を記録していた。
「死ぬぞ」と直人が言った。
「死にませんよ。これがなきゃ死にますけど」早川はモニターを指さした。「先輩、見てください。出ました」
直人と、初めてこの研究室を訪れた真琴が、早川の背後に立った。
中央のモニターに、二つの図が並んでいた。
左は、立体化した二重和紙の3Dモデルを真上から見た図。五つの点が配置されている。
右は、天球図——地球から見た星の配置図だった。特定の日時、特定の緯度経度から観測した夜空の再現だ。
「観測地点は京都御所。日時は——」
早川が数値を読み上げた。
「慶應四年九月八日。西暦千八百六十八年十月二十三日」
「明治改元の日だ」直人が言った。
「そうっす。慶應から明治への改元が行われた日。その夜、京都御所から見上げた夜空に並ぶ五つの星の配置と、和紙の五点の配置——」
早川がマウスをクリックした。左右の図が重なった。
「一致率、九十七・一パーセント」
真琴が小さく息を吐いた。
「五つの星は何座ですか」
「既存の星座には属してません。五等星から六等星クラスの、肉眼ではほぼ見えない暗い星です。つまり、星座として認識されることを避けている」
「意図的に目立たない星を選んだ」
「ですね。天文学の知識がなければ、この五つの星が特別な配置を成していることに気づかない。しかも、明治改元の夜——つまり特定の一晩だけ、五つの星が最も美しい勾玉の形に並ぶ」
直人は腕を組んだ。
「百五十年前の設計者は、天文学にも精通していたということか」
「それだけじゃないっす」
早川が別のウィンドウを開いた。
「歳差運動——地球の自転軸のブレによって、星の見かけの位置は長い年月で少しずつ変化します。で、この五つの星の配置が次に勾玉の形に最も近づく日時を計算したところ——」
画面に数字が表示された。
「西暦二〇二五年。今年です」
研究室の空気が凍った。
「もっと言うと、二〇二五年十月二十三日。明治改元からちょうど百五十七年後の同日。京都御所から見た夜空で、五つの星が再び勾玉を描く」
直人は窓の外に目をやった。八月。あと二ヶ月。
「偶然ではありませんね」真琴が冷静な声で言った。だが、その冷静さの下に、感情の奔流が隠されていることは直人にも分かった。
「設計者は、百五十七年後を計算していた。天文学的な周期を利用して、暗号の解読タイミングを指定していた」
「ですね」早川が頷いた。「ただし、これは星の配置が条件を満たすタイミングってだけで、暗号の解読自体は星を見なくてもできます。問題は——」
「暗号が、まだ全部揃っていない」
直人が言い切った。
「二重和紙。城刻印。太政官文書。折り指示図。星図。すべてはパーツだ。これらが揃って初めて、何かの全体像が見える。だが、パーツがまだ足りない」
「何が足りないんですか」と真琴が尋ねた。
「分からない。だが、五点の座標のうち、俺たちが実地で確認したのは東京だけだ。他の四点——伊勢、京都、出雲、沖縄——にも、石垣の刻印と同じような物証があるはずだ」
「全国を回ると」
「ああ。だが——」
直人は言葉を切った。皇居東御苑で、自分を撮影していたスーツの男の顔が蘇った。
「早川。例の男について何か分かったか」
「あー、それなんすけど」
早川が顔をしかめた。
「先輩が撮った写真を画像検索にかけたんすけど、ヒットなし。どこのデータベースにも顔がない。これ、普通じゃないっすよ。今の時代、SNSやってなくても、どこかに顔写真が引っかかるのが普通なのに」
「つまり、意図的にデジタル上の存在を消している人間」
「政府関係者の可能性が高いっす。警察か、公安か、あるいは——」
「内閣情報調査室」
真琴が、ぽつりと言った。
直人と早川が同時に真琴を見た。
「なぜそう思うんですか」と直人が訊いた。
「書陵部に、年に一度、内調から定期連絡が来ます。皇室関連文書の管理状況の確認という名目ですが、実態は——監視に近い。どの文書が閲覧されたか、誰がアクセスしたか、新たに発見された文書はないか。逐一報告を求められます」
「じゃあ——」
「私が巻子を修復に出したことも、内調は把握しているはずです」
三人の間に、重い沈黙が落ちた。
早川が最初に口を開いた。
「要するに、俺たちは国の情報機関に見られてる状態で、国家レベルの暗号を解読しようとしてるわけっすね」
誰も笑わなかった。
「早川」直人が言った。
「星図のデータ、外部から遮断された端末に移せるか」
「もうやってます。あとバックアップは三箇所。うち一つは物理的に離れた場所に」
「九条さん」
「はい」
「書陵部で、この件を知っている人間は」
「私だけです」
「そのままにしてください。そして今後の連絡は、この研究室で直接行います。電話やメールは使わない」
真琴は頷いた。
「鷺宮さん。一つ聞いてもいいですか」
「何ですか」
「あなたは、なぜこの先に進むのですか。修復士として、依頼された仕事は巻子の修復です。二重構造を報告し、判断を書陵部に委ねれば、あなたの責任は果たされます」
直人は答えに詰まった。
なぜだ。なぜ自分はここにいる。
好奇心——それはある。和紙の繊維の中に隠された百五十年の暗号。それを解きたいという衝動は、否定できない。
だが、それだけではない。
「——守る技術、という言葉を使ってきました」
直人は自分の手を見つめた。
「修復士の仕事は、過去を守ること。劣化を止め、損傷を癒し、あるべき姿に戻す。でも今、この暗号を前にして思うんです。設計者は——守るためにこれを残したんじゃない。未来に届けるために残したんだ。守ると届けるは、似ているようで全然違う」
真琴はじっと直人の目を見ていた。
「届ける……」
「この暗号は、百五十年後の誰かに届けるために作られた。俺がたまたまそれを受け取った。なら——」
直人は顔を上げた。
「届いたものを、次にどうするかは、受け取った人間の責任です」
真琴は何も言わなかった。だが、その瞳の中で何かが揺れて、そして定まったことを、直人は確かに見た。




