第七章 立体浮上
書庫の棚は天井まで届き、その間を縫うように蛍光灯の明かりが伸びていた。
真琴は迷いなく奥へ進み、棚番号を確認しながら一つの桐箱を取り出した。四十センチ四方、深さ二十センチほど。蓋には墨で整理番号が書かれているが、品目名の欄は空白だった。
「これです。巻子が入っていた箱」
直人は手袋を嵌め、桐箱を受け取った。蓋を開ける。中は空だ。巻子は修復室に移されている。
直人は箱の内側を観察した。桐材の表面は滑らかで、虫食いもない。保存状態は良好だ。底板を指先で押した。わずかな遊びがある。
「底板が——」
直人は箱を裏返した。底板は通常、桐材の一枚板で嵌め込まれている。だがこの箱の底板には、わずかな継ぎ目があった。
真琴が息を呑むのが聞こえた。
「開くんですか」
「試します」
直人はピンセットで継ぎ目を探った。底板が二枚の板で構成されていて、特定の方向にスライドさせると外れる仕組みだった。木工の精度が極めて高い。隙間なく嵌め合わされているため、通常の検査では一枚板と区別がつかない。
底板をずらすと、その下に薄い空間が現れた。深さは五ミリほど。
中に、一枚の和紙が入っていた。
直人と真琴は同時に手を止めた。
和紙を取り出す。巻子の二重和紙と同じ雁皮紙だ。触感で分かる。
紙面には、墨で図形が描かれていた。
直人はルーペで確認した。図形は——折り線の指示図だった。
谷折りと山折りの区別が、実線と破線で示されている。折り順を示す番号が振られ、完成後の形状を示す簡略な立面図が添えられている。折り紙の展開図に似た構成だが、対象は折り紙ではなく、和紙の文書だ。
「これが『初版折り』の指示書だ」
直人は指示図を撮影し、早川に画像を送信した。
『至急解析。折り順に従って仮想的に折った場合の立体形状を、3Dモデルで再現してくれ』
返信は三十秒後に来た。
『了解。三十分ください』
直人は真琴に向き直った。
「九条さん。この指示図に従って折るべき原本は、二重和紙の下層——雁皮紙の方です。しかし原本を折ることはできません。修復途中の文化財です」
「分かっています。デジタルで再現するのですね」
「ええ。ただ、折った結果何が現れるのかは、やってみるまで分からない」
真琴は桐箱の底板を見つめていた。
「鷺宮さん。この箱は、少なくとも百年以上前に作られたものです。桐材の変色具合と、木組みの技法から見て。つまりこの仕掛けも、百年以上前から存在していた」
「ええ」
「百年以上、誰もこの底板を開けなかった」
「あるいは、開ける必要がなかった。指示図がなくても、折り方を知っている人間がいたから」
真琴は何も言わなかった。だが、その沈黙には直人にも感じ取れる重さがあった。
祖父は知っていたのかもしれない。この箱の仕掛けを。折り方を。そしてそれを、墓場まで持っていった。
三十五分後、早川から通知が来た。直人はタブレットで確認し、息が止まった。
画面に、3Dモデルが回転しながら表示されていた。
二重和紙の下層——雁皮紙の微細線で描かれた日本列島の図。それを指示図の通りに折ると、平面の地図が立体に変わった。
山脈が隆起している。
和紙の折りによって、日本列島の主要な山脈——日本アルプス、奥羽山脈、紀伊山地——が立体的に浮き上がっていた。平面では単なる線だったものが、折りを加えることで三次元の地形図に変化したのだ。
『先輩、これやばくないっすか。平面の地図を折り紙の要領で立体化するなんて、現代のペーパークラフト技術でもかなり高度です。百五十年前にこれを設計した人間は、数学的にも相当な——』
早川のメッセージは長文に及んでいたが、直人の目は3Dモデルの一点に釘付けになっていた。
五つの点。
伊勢。京都。東京。出雲。沖縄。
平面では未完成の勾玉だった五点が、立体化すると——位置関係が変わった。折りによって紙面が重なり、点と点の距離が変化する。
早川も気づいたらしい。次のメッセージが来た。
『立体状態での五点の配置、解析中です。平面での勾玉一致率は87%でしたが、立体だと——98.4%。ほぼ完全な勾玉になります』
直人はタブレットを真琴に見せた。
真琴は画面を見つめ、唇が微かに震えた。
「完成するんですね。折ると」
「折ると完成する。つまり、この地図は最初から立体で読むことを前提に設計されていた。平面で見れば未完成。だが折りを加えれば——」
「完成する。封印が——解ける」
真琴の声は、震えを抑えようとしていた。
「ただし」
直人は画面を拡大した。
「沖縄の点だけは、折っても微妙にずれている。〇・七パーセントの誤差。これが意図的なものなのか、製作上の限界なのかは——」
「意図的だと思います」
真琴が断言した。直人は驚いて顔を上げた。
「祖父はもう一つ、奇妙なことを言っていました。『完全な国家は、国家ではない』と。当時は意味が分かりませんでした。でも今——」
真琴は3Dモデルの沖縄の点を指さした。
「この〇・七パーセントの不完全さが、設計者の思想そのものなのだと思います」
直人は真琴を見つめた。
この人は、ただの管理責任者ではない。祖父の遺志を継ぐ覚悟を、今この瞬間に固めつつある。
書庫の冷気が、二人の間を流れた。
「次のステップがあります」と直人は言った。
「3Dモデルの山脈の隆起を、実際の日本の地形データと照合する必要がある。そして五点の立体的な位置関係を、星図——天体の配置と比較する」
「なぜ星図を?」
「太政官文書に添付されていた図面のタイトルは『神器奉安之図』でした。三種の神器は、天孫降臨の神話と結びついている。天孫——天から降りた神。天とは、星のことです」
真琴は小さく頷いた。
「星図との照合は、早川さんが?」
「ああ。あいつの専門はパターン認識だ。地上の五点と天の星の配置、その一致率を出せる」
「鷺宮さん」
真琴がまっすぐに直人を見た。
「私も、この先に付き合わせてください」
それは許可の要請ではなかった。宣言だった。
直人は頷いた。
「覚悟してください。この先は、修復の仕事じゃなくなる」
「分かっています」
真琴は桐箱の蓋を閉じた。その手つきは丁寧で、正確で、やはりどこか不器用だった。




