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第六章 初版折り  

宮内庁の建物は、皇居の南東に位置している。

 八月の朝九時。直人は正門の受付で来意を告げた。文化財修復の進捗報告という名目だ。嘘ではない。ただ、報告すべき内容が修復の範囲を大きく逸脱していることは伏せてある。

 書陵部の応接室に通された。壁にかけられた昭和天皇の肖像写真と、窓の外に広がる皇居の緑が、この部屋の時間を数十年前に留めているようだった。

 五分後、九条真琴が現れた。

 紺のスーツ。髪はきちんと一つにまとめてある。化粧は最小限。三十歳前後に見えるが、実際の年齢は直人と同じ三十二だ。目の下にうっすらと疲労の影があることに、直人は気づいた。

「鷺宮さん、おはようございます。進捗報告ありがとうございます」

 真琴は名刺を差し出すような形式的な礼をした。初対面ではないのに、毎回この距離感だ。コーヒーの差し入れと、この礼儀正しさの落差が、直人にはいつも奇妙に映る。

「九条さん。修復作業の中で、確認したいことが出てきました」

「はい」

「あの巻子は、書陵部の通常の所蔵品ですか」

 真琴の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。

 一瞬だ。修復士でなければ見逃す程度の変化。だが直人の目は、和紙の繊維の微細な変質すら捉える。人間の表情の変化を見落とすはずがなかった。

「通常の所蔵品、とおっしゃいますと」

「所蔵品目録に記載されているか、ということです。あるいは、未整理の文書群から出てきたものか」

 真琴は一拍置いて答えた。

「後者です。昨年の書庫再整理の際に発見されました。保存状態に懸念があったため、外部修復を依頼した次第です」

「誰が発見したんですか」

「……私です」

 直人は真琴の目を見た。嘘をついている目ではない。だが、すべてを語っている目でもない。

「九条さん。一つ、見ていただきたいものがあります」

 直人はタブレット端末を取り出し、二重和紙の断面写真を表示した。

 真琴の目が、わずかに見開かれた。

「裏打ちの下に、もう一層和紙が存在しています。下層は雁皮紙で、繊維の操作による微細な図形が刻まれています」

 真琴は画面をじっと見つめていた。呼吸が浅くなっている。

「これを、ご存知でしたか」

 沈黙が降りた。応接室の壁掛け時計が、秒針の音を刻んでいる。

「……知りませんでした」

 真琴の声は平坦だった。だが、その平坦さが不自然だった。感情を押し殺すときの声だ。

「ただ——」

 真琴は言葉を切り、窓の外の緑に視線を向けた。

「祖父が生前、一度だけ言ったことがあります。書陵部の書庫には、目録に載せられなかった文書がある。それは載せなかったのではなく、載せてはならなかったのだ、と」

「お祖父様は」

「元宮内庁次長です。退官後は一切、宮内庁のことを口にしませんでした。あの一言だけが——」

 真琴は唇を結んだ。

 直人は理解した。九条真琴は、祖父の言葉をずっと抱えてきたのだ。書陵部に入ったのも、書庫の再整理を自ら志願したのも、あの巻子を外部修復に出したのも——すべては祖父の一言から始まっている。

 だが真琴は、自分がこの物語の起点にいることを、まだ認めたくないのだ。

 認めれば、国家公務員としての立場が崩れる。宮内庁職員として皇室の文書を守る——その使命と、祖父の遺した暗号を追う衝動が、彼女の中で引き裂かれている。

「九条さん」

 直人は声を落とした。

「この二重和紙の下層に、太政官文書と一致する図形があります。そして太政官文書には、『初版折り』という書き込みがありました」

 真琴の目が鋭くなった。

「初版折り……」

「心当たりがありますか」

「いいえ。ですが——」

 真琴は鞄から一冊のノートを取り出した。古い革表紙。角が擦り切れている。

「祖父の遺品です。ほとんどが日常の記録ですが、一箇所だけ、意味の分からない書き込みがありました」

 真琴がノートを開いた。黄ばんだ紙に、几帳面な万年筆の字が並んでいる。その中の一行を、真琴が指さした。

『折ること自体が、第一の封印である。』

 直人の思考が加速した。

 折ること。太政官文書の三番目の折り目。通常の保管では生じない角度の折り。

 折ること自体が封印——つまり、折り方に情報が埋め込まれている。図面を特定の方法で折ると、新しいパターンが現れる。

「九条さん。あの巻子の原本を、もう一度見せていただけますか」

「修復室にあるのでは」

「巻子は表層です。問題は、巻子が収められていた箱のほうだ。書庫から出したとき、箱は残していますか」

 真琴の顔に緊張が走った。

「……残しています。書庫の同じ棚に」

「その箱を確認させてください。もし『初版折り』が製本工程の指示なら、箱に折り方の手順が示されている可能性がある」

 真琴は数秒間、直人の目を見つめた。

 信頼するか否かを、計っている目だった。

 それは同時に、自分の立場を捨てる覚悟があるか否かを、自分自身に問う目でもあった。

「——分かりました」

 真琴は静かに言った。

「ただし、一つ条件があります」

「何ですか」

「発見された情報はすべて、私にも共有してください。これは書陵部の所蔵品です。管理責任は私にあります」

 直人は頷いた。

「もちろんです」

 真琴はノートを鞄にしまい、立ち上がった。

「こちらへ」

 応接室を出て、長い廊下を歩く。足音が規則正しく響く。真琴の歩幅は正確で、一歩も乱れない。この人は、乱れることを自分に許していないのだ、と直人は思った。

 書庫への階段を降りるとき、真琴が小声で言った。

「鷺宮さん」

「はい」

「祖父は、あの一言を言ったあと、こう付け加えました。『だが、いつか誰かが見つけなければならない。その時が来たら、正しい人間が見つけるようになっている』と」

 直人は階段を降りながら、真琴の背中を見つめた。

「俺が正しい人間かどうかは分かりません」

「私も分かりません。でも、あの巻子があなたのところに行ったのは、私が決めたことです」

 地下の書庫の扉が開いた。冷気と、古い紙の匂いが押し寄せてくる。

 直人は深く息を吸った。

 百五十年の封印に、今、手を触れようとしている。

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