第五章 補正値
国立公文書館は、皇居の北側、北の丸公園に隣接している。
直人と早川が到着したのは閉館一時間前だった。閲覧申請の手続きは直人が行った。文化財修復士の資格と、過去の業務実績が記載された身分証明を提示する。
「明治四年太政官文書、附図第十七号ですね。少々お待ちください」
受付の職員が奥に消えた。直人と早川は閲覧室の長テーブルに向かい合って座った。
「先輩、ここWi-Fi飛んでます?」
「公文書館だぞ」
「冗談っす。テザリングします」
早川がノートPCを開き、画像解析ソフトを起動した。直人は手袋を嵌め、ルーペと計測器具を鞄から取り出した。
十五分後、職員が戻ってきた。酸性紙対策の保存箱に収められた文書が、慎重にテーブルの上に置かれる。
「撮影は申請済みの機材のみ可能です。手袋の着用をお願いいたします」
直人は頷き、保存箱を開けた。
太政官文書。明治四年。日本が近代国家としての形を模索していた時代の、政府の公式文書だ。
本文は定型的な公文書の体裁で、内容は神器の奉安に関する事務連絡だった。直人が注目したのは、本文ではなく附図——文書に添付された図面だ。
デジタルアーカイブで見た画像と、実物の印象はまるで違った。
まず、紙だ。
直人の指が、和紙の端をわずかに持ち上げた。この触感。繊維の密度。
「——雁皮紙だ」
小声で呟いた。早川が顔を上げる。
「さっきの二重和紙と同じ紙っすか」
「同じ種類だ。しかも漉き方の特徴が酷似している。同じ工房——いや、同じ漉き手の可能性がある」
直人はルーペで図面の表面を走査した。デジタル画像では捉えきれない微細な情報が、次々と目に飛び込んでくる。
折り目が三箇所ある。しかし文書の保管形態から推測される折り目は二箇所のはずだ。一箇所多い。
三番目の折り目は、他の二箇所と比べて角度が浅い。後から加えられた折り目ではなく、最初から意図的に折られた痕跡だ。
「早川。この折り目の位置を記録しろ」
「了解っす」
早川がスマートフォンのカメラで折り目の位置を撮影し、即座にPCに取り込んだ。画面上で座標化する。
「折り目が三本。図面上の線と交差する点が……七つ」
「その七点の座標を出せ」
早川の指がキーボードの上を走った。
「出ました。で、これを昨日の五点データと重ねると——」
画面上で、二つのデータが重なった。
五点のうち三点が、折り目の交差点と一致した。
「先輩、三点一致。しかもこの三点、伊勢・京都・東京っす」
直人は図面を注視した。残る二点——出雲と沖縄は、折り目の交差点とは一致していない。
「ここだ」
直人が図面の右下を指さした。デジタル画像で早川が見つけた書き込み。「初版折り」の文字。
実物で見ると、その文字の横に、もう一つの情報が隠れていた。
極めて小さな数字の列。
「早川、ここを撮影しろ。最大解像度で」
早川がマクロレンズ付きのスマートフォンを構えた。シャッター音が閲覧室に響き、周囲の利用者が一瞬こちらを見た。
「すんません」早川が小声で謝り、撮影した画像をPCに送った。
拡大された画像に、数字が浮かび上がった。
二桁の数字が六組。
「座標だ」
直人が断言した。
「緯度と経度。三点分の座標。これが——」
「五点のうち、折り目で特定できなかった残り二点を含む座標っすね」
早川が即座に数値を入力し、地図上にプロットした。
二点が新たに地図上に現れた。一つは予想通り出雲大社の近辺。もう一つは——
「沖縄。糸満市。ひめゆりの塔の南東三キロ」
早川の声が震えた。
「先輩、ここ——」
「ああ」
直人は知っていた。その座標が指し示す場所を。
沖縄戦の激戦地。摩文仁の丘。平和祈念公園。
沖縄県平和祈念資料館と、国立沖縄戦没者墓苑が建つ場所だ。
二重和紙。皇居の刻印。太政官文書。三つが示す五つの点。そのうち四点は、日本の宗教的・政治的中枢だ。伊勢神宮。京都御所。皇居。出雲大社。
しかし五点目は、祈りの場所だった。戦争で失われた命を悼む場所。
断絶の場所。
直人は図面から目を離し、閲覧室の窓の外に目をやった。北の丸公園の緑が、夕暮れの光の中で暗く沈み始めている。
「先輩」
早川が画面を見つめたまま言った。
「補正値の話、覚えてますか。勾玉との一致率が八十七パーセントで、完全な勾玉にするには座標の補正が必要だって」
「ああ」
「今の六つの数字——座標三点分——のうち、沖縄の座標だけが、他の四点から計算される勾玉曲線上にないんす。沖縄の座標を勾玉の曲線に乗せるには、約四・七キロ北西にずらす必要がある」
「それは何を意味する」
早川は回転椅子をゆっくり回した。
「二つの可能性がありますね。一つ、この勾玉は最初から沖縄の座標を含めない設計だった。沖縄が五点目になったのは後からの改変。二つ、勾玉は最初から不完全に設計された。沖縄の断絶を、設計者は織り込んでいた」
「百五十年前に、か」
「明治初期ってことは、沖縄はまだ琉球処分の前後っすよね。本土との関係が劇的に変わった時期だ。もし設計者が意図的に沖縄を"ずらした"のだとしたら——」
早川の言葉が途切れた。
その先を、二人とも口にできなかった。
設計者は、日本という国家が永遠に完成しないことを、知っていたのだ。
閉館のアナウンスが流れた。直人は文書を保存箱に戻し、手袋を外した。
「先輩」
「何だ」
「俺たち、もう引き返せないところに来てません?」
直人は答えなかった。代わりに、修復室での自分の仕事を思い出していた。
守る技術。
何かを守ることは、何かに触れることだ。触れたものは、もう元には戻らない。
それでも——触れなければ、守れない。
「早川。明日、宮内庁に行く」
「え?」
「書陵部の九条真琴に会う。この和紙を誰が修復に出したのか、確認する必要がある」
「先輩、それ、やぶ蛇じゃないっすか」
「蛇はもう動いてる。皇居で俺を撮影した男がいた」
早川の顔色が変わった。
「——マジっすか」
「分からない。だが、これ以上一人で動くのは危険だ。お前も、データは暗号化して複数箇所にバックアップしておけ」
「もうやってます。俺だって馬鹿じゃないっすから」
直人は公文書館の出口を抜け、夕暮れの北の丸公園を歩いた。石垣の上に首都高速の高架が走り、車のヘッドライトが連なっている。
江戸城の石垣と、現代の高速道路。断絶しているようで、同じ地面の上に立っている。
直人はポケットからスマートフォンを取り出し、九条真琴の連絡先を表示した。
明日。
すべてが動き始める。




