第三十五章 空白文書
真壁は一人だった。スーツではなく、トレッキングウェア。手ぶらだ。
「鷺宮さん。こちらに来ていることは把握していました」
「内調の監視か」
「いいえ。個人としてです」
真壁は三人から五メートほどの距離で立ち止まった。
「封鎖部隊は連れていません。今日は——話をしに来ました」
直人は真壁の目を見た。京都の資料館で見た、あの迷いがまだあった。だが、迷いの質が変わっている。結論に近づいている人間の目だ。
「何の話ですか」
「これを見ていただきたい」
真壁はトレッキングウェアの内ポケットから、一枚の文書を取り出した。ビニール袋に入っている。
古い和紙。墨の文字。
「これは——」
「維持派が百五十年間守ってきた文書です。祖父から受け継ぎました。維持派の側にも、暗号と対になる文書が存在していた」
直人はビニール袋を受け取った。手袋を嵌め、文書を取り出す。
和紙の質感。雁皮紙。二重和紙と同じ漉き手の可能性がある。
文書の内容を読んだ。
「『更新派ノ暗号ヲ封ジル為、以下ノ措置ヲ講ズ。第一、暗号ノ存在ヲ世ニ知ラシムベカラズ。第二、暗号ノ解読ヲ試ミル者アラバ、監視シ、必要ニ応ジテ阻止スベシ。第三——』」
直人は第三項を読み、目を見開いた。
「『第三、然レドモ、暗号ガ正当ナル継承者ニ依リテ解読サレタル場合、維持派ハ之ヲ妨ゲズ。正当ナル継承者トハ、国家ノ外ニ立チ、国家ノ為ニアラズ人ノ為ニ行動スル者ヲ指ス』」
直人は文書から顔を上げた。
「維持派は——更新派の暗号を完全に否定していたわけではないのか」
「はい」真壁が静かに言った。「維持派と更新派は、対立していたように見えて——同じ問いを共有していた。国家の形を、誰が、いつ、どのように変えるべきか。維持派は『今ではない』と答え、更新派は『今でなくてもいつか』と答えた。だが、どちらも——正しい人間が正しい時に判断すべきだ、という点では一致していた」
「第三項。『国家の外に立ち、国家のためにあらず人のために行動する者』」
「あなたのことだと、私は判断しました」
直人は黙った。
「鷺宮さん。あなたは修復士だ。国家機関の人間でも、政治家でも、思想家でもない。ただ、手に取ったものの責任を果たそうとする人間だ。それが——維持派が百五十年前に想定した『正当なる継承者』の条件に、最も近い」
真壁はポケットからもう一つの物を取り出した。
小さな金属片。青銅製。表面に——空白。何も刻まれていない青銅板。
「これは」
「維持派が保管してきた、もう一つの封印です。更新派の五つの封印に対応する——裏の封印。表面が空白なのは、更新派の空白の第五条と対になっているからです」
直人は青銅板を受け取った。手の中で、冷たい金属の重みを感じた。
「維持派の空白と、更新派の空白が——対になっている」
「はい。二つの空白が重なって初めて、封印の完全な構造が見える。だが、重ねてもなお空白は空白のままです。何も書かれていない。何も現れない」
「それが——封印の核心か」
「私は、そう理解しました。百五十年間、維持派はこの空白を守ってきた。空白を埋めてはならない——そう伝えられてきた。だが、同時に——空白を消してもならない、とも。空白を保存し続けることが、維持派の使命だった」
直人は二つの空白を見つめた。拓本に写し取った洞窟の空白。そして今、手の中にある青銅板の空白。
二つの空白。二つの沈黙。百五十年間、向かい合ってきた二つの空虚。
「真壁さん。なぜ今、これを俺に渡すんですか」
真壁の目に、長い葛藤の末に訪れる静けさがあった。
「祖父の遺言に従うためです。——そして、自分の判断に従うためです」
「維持派を裏切ることになる」
「いいえ。維持派の第三項に従っているのです。『正当なる継承者が現れたとき、妨げず』。——私は妨げない。そしてこの空白を、あなたに託す」
真壁は一歩下がった。
「これ以上は、私の領域ではありません。沖縄の洞窟封鎖は——解除するよう進言します。結果がどうなるかは分かりませんが」
「真壁さん」
「はい」
「ありがとう」
真壁は微かに頭を下げ、樹海の中に消えていった。木々の間を歩く姿が、朝の光と影に溶けていく。
直人は手の中の青銅板を見つめた。
空白の文書。
維持派と更新派。百五十年の対立。その対立の先にあったのは——同じ空白だった。




