第三十三章 万葉の声
石板に刻まれていたのは、万葉仮名だった。
漢字を日本語の音に当てた、日本最古の表記法。『万葉集』に用いられた書き方。
直人は万葉仮名の読解に長けていない。修復士として古文書の物理的な扱いは専門だが、内容の解読は別の技能だ。
だが、真琴は読めた。
「これは……和歌です」
真琴はヘッドランプの角度を調整し、石板に刻まれた文字を一字ずつ追った。
「読みます。万葉仮名から現代の読みに変換すると——」
真琴の声が、溶岩ドームの中で反響した。
「『未だ成らぬ 国の器を 抱きしめて 児らに渡さむ 富士の白雪』」
沈黙が、三人を包んだ。
未だ成らぬ国の器を抱きしめて、子供たちに渡そう——富士の白雪のように。
直人は石板を見つめた。
暗号でも、法律でも、思想の宣言でもなかった。
歌だった。
百五十年前の設計者が、洞窟の最深部に残したのは——歌。
「未だ成らぬ国の器」真琴が繰り返した。「未完の国家。それを——子供たちに渡す。この歌の主語は『余』ではない。『我が国』でもない。親が子に渡すという、個人の行為です」
「国家よりも大切なもの」直人が呟いた。
壁面の条文の間に書かれていた一行。『国家ヨリモ大切ナモノガアル。ソレヲ知リタル者ノミガ、第五条ヲ書ク資格ヲ持ツ』。
「子供だ。次の世代。設計者にとって、国家よりも大切なものは——次の世代だった」
早川が静かに言った。
「国家のために人がいるんじゃなくて、人のために国家がある。そういうことっすか」
「ああ。設計者は——国家を愛していた。だが、国家そのものよりも、国家を受け継ぐ人間を愛していた。だから未完のまま残した。完成した国家を渡すのではなく、未完の国家を渡す。完成させる自由を、次の世代に残すために」
直人は石板の横に、もう一つの刻みを見つけた。
歌の下に、小さく——あの記号が刻まれていた。
円の中の崩し字。五つの座標、城刻印、石碑、螺旋、五重塔。すべてに共通していた記号。
そして記号の横に、一行の漢文。
「『此ノ歌ヲ以テ、封印ノ構造判明トス。然レドモ核心ハ此処ニアラズ。核心ハ——汝自身ノ中ニアリ』」
この歌をもって、封印の構造判明とする。しかし核心はここにはない。核心は——あなた自身の中にある。
直人は石板から手を離した。
封印の構造は判明した。五つの座標。三種の神器の象徴。洞窟の憲法。空白の第五条。富士の地下の歌。
だが、核心には到達していない。
核心は——解読者自身の中にある。
設計者は、最後の最後で、暗号の解答を外部に置くことを拒否した。答えは石に刻めない。紙にも書けない。答えは、暗号を受け取った人間が、自分自身の中に見つけるものだ。
「未完は希望」。
その言葉が、今、完全な実感を伴って直人の胸に落ちた。




