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第二十七章 拓本  

洞窟の中で、直人は壁面と向き合っていた。

 ヘッドランプの光が、百五十年前の漢文を照らす。第一条から第四条まで。そして中央の空白。

 拓本。石碑や金属器の表面に紙を当て、上からタンポで墨を打って文字や模様を写し取る技法。修復士の基本技能であり、デジタル写真が普及した現代でも、物証としての信頼性は拓本のほうが高い。紙面に残る凹凸の痕跡は、カメラでは捉えきれない情報を含んでいる。

 だが今、直人の手元にあるのは障子紙とタオルと靴墨だ。真琴が三十分前に崖の上から降ろしてきた。

「笑うなよ」直人は独りごちた。

 師匠の永田老人が見たら卒倒するだろう。靴墨で拓本を取る修復士など、世界に直人ただ一人だ。

 だが、やるしかない。

 障子紙を壁面に当てる。霧吹きの代わりに、水筒の水を口に含んで吹きかけ、紙を石灰岩に密着させる。タオルを丸めてタンポの代わりにし、靴墨を薄く含ませて、紙面を軽く叩いていく。

 石灰岩に刻まれた文字の凸部に墨が乗り、凹部は白く残る。文字が浮かび上がる。

 直人の手は震えなかった。

 修復室での十年間が、この手を作った。どんな状況でも、手だけは正確に動く。

 壁面の全文を拓本に取るのに、二時間半かかった。障子紙を切り分け、八枚に分割して壁面全体をカバーした。

 最後に、空白部分の拓本を取った。

 何もない空白——のはずだった。だが、拓本にすると、写真では見えなかった情報が浮かび上がった。

 空白の石灰岩の表面に、極めて浅い彫り込みがあった。文字ではない。図形でもない。

 指紋だった。

 人間の指紋が、石灰岩に刻印されている。

 直人は拓本を光に透かした。指紋の渦巻きが鮮明に写し取られている。右手の親指。百五十年前の人間の、親指の指紋。

 設計者は、空白に自分の指紋を残した。

 文書でも記号でもなく、身体の痕跡を。

 直人は拓本を丁寧に丸め、防水袋に入れた。

「これで——物証は確保した」

 ヘッドランプを消す直前、直人は壁面をもう一度見つめた。

 暗闇の中に消えていく文字たち。もしこの洞窟が封鎖されたら、この文字を直接見る人間は、もういなくなるかもしれない。

 直人はランプを消し、完全な闇の中に立った。

 闇の中で、水滴の音だけが響いている。

 百五十年前、この洞窟を掘った人間も、同じ闇の中に立っていただろう。ランプの油が尽きれば、闇。その闘の中で、壁に文字を刻み、指紋を押した。

 直人はランプを点け、出口に向かった。

 壁面の最後の文字が、ランプの光を受けて一瞬だけ浮かんだ。

 『未完ハ希望ナリ』

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