第二十六章 浮上
洞窟を出たのは、正午過ぎだった。
亀裂から地上に這い上がると、沖縄の太陽が容赦なく三人を照らした。地下の冷気から一転して、三十二度の熱気が肌を焼く。
直人は草の上に座り込んだ。水を飲む。隣で真琴が膝を抱えている。三条は立ったまま、海を見つめていた。
「早川に報告しなければ」直人がスマートフォンを取り出した。
だが、画面を見て手が止まった。
早川からの未読メッセージが、十七件溜まっていた。
最新のメッセージ。
『先輩!!!! 緊急!!!! 研究室に誰か来た!!!! データ全部コピーされた形跡あり!!!! 俺は無事、近くのカフェに避難してる。でもデータが——全部抜かれたかもしれない。返信ください!!!!!!!!』
直人の血の気が引いた。
「早川のデータが——」
真琴が画面を覗き込んだ。顔色が変わった。
「内調ですか」
「分からない。だが——」
直人は通話ボタンを押した。呼び出し音が三回鳴り、早川が出た。
「先輩ッ! 生きてますか!」
「こっちの台詞だ。状況を報告しろ」
「今朝九時頃、研究室のドアが開けられた形跡を見つけました。鍵は壊されてない。ピッキングか合鍵。PCは触られた形跡がないけど、外付けHDDのアクセスログに——昨夜二時から四時にかけて、大量のファイルコピーの記録が」
「バックアップは」
「三箇所に分散してるうちの一箇所が、研究室のHDDです。残り二箇所は無事——たぶん。一箇所は物理的に離れた場所のクラウド、もう一箇所は——まあ、言えない場所に」
「お前自身は安全か」
「たぶん。でも研究室には戻れないっす。しばらくノマドっす」
直人は通話を切り、真琴と三条に状況を伝えた。
「データが抜かれたとすると、今日の洞窟の発見も含めて、すべての情報が——」
「内調の手に渡った可能性がある」真琴が言い切った。「真壁さんは『即時封鎖プラン』の準備を進めると言っていました。データを押さえたということは——封鎖のタイミングが近い」
三条が海から視線を戻した。
「封鎖されれば、あの洞窟は永遠にアクセスできなくなります。壁面の憲法も、空白の第五条も。すべてが闇に葬られる」
「三条さん。文書——『神宝遷座ニ関スル覚書』は安全ですか」
「ホテルの金庫に入れてあります。だが、ホテルの金庫など国家の情報機関の前では無力でしょう」
直人は立ち上がった。
「今すぐ動く。三つのことを同時にやる」
「何を」
「一つ。洞窟内の壁面を完全に記録する。写真だけでは不十分だ。拓本を取る。修復士の俺にしかできない方法で」
「二つ。三条さんの文書を安全な場所に移す。物理的に」
「三つ。早川のデータを復元し、暗号化のレベルを上げる」
「三つ同時に?」
「時間がない。真壁が動くなら、今日中かもしれない。日が暮れるまでに拓本を取る」
直人は崖の亀裂に向かった。
「もう一度降りる。九条さん、拓本用の和紙とタンポは持ってきていない。ホテルに戻って、最低限の材料を揃えてきてくれ。薄手の障子紙、タオル、墨汁の代わりになるもの——靴墨でもいい」
「分かりました」真琴が走り出した。
「三条さんは文書の確保を。デジタルコピーを複数作成して、信頼できる相手に分散送信してください」
「心得ています。百五十年間文書を守ってきた家系を甘く見ないでいただきたい」
三条はかすかに笑い、駐車場に向かった。
直人は一人、亀裂の前に立った。
地下に、百五十年前の言葉が刻まれている。そしてその言葉を消そうとする力が、今、迫っている。
守る技術。
修復士の仕事は守ることだ。劣化を止め、損傷を癒し、あるべき姿に戻す。
だが今、直人が守ろうとしているのは——和紙でも巻子でもない。
思想だ。
百五十年前の人間が未来に託した思想を、消させてはならない。
直人は亀裂に体を滑り込ませ、再び地下へ降りていった。




