第二十五章 第三の憲法
壁面の漢文を、三人は一字一句読み進めた。
三条がスマートフォンで壁面全体を撮影し、直人がルーペで文字の細部を確認し、真琴が内容を解読した。真琴の漢文読解力は、書陵部での訓練と祖父の薫陶によって鍛えられていた。
「前文から読みます」真琴が声に出した。
「『国ハ器ナリ。器ハ定マルベカラズ。時ニ応ジテ形ヲ変エ、民ニ応ジテ質ヲ改ム。固定セル国家ハ死セル国家ナリ。変化セル国家ハ生ケル国家ナリ。然レドモ、変化ノミニテハ国家ハ散逸ス。変化ト継承ノ間ニ立チテ、器ヲ保ツモノ、コレヲ主権ト称ス』」
真琴の声が洞窟に反響した。
「国は器である。器は固定されるべきではない。時代に応じて形を変え、国民に応じて質を改める。固定された国家は死んだ国家である。変化する国家は生きた国家である。しかし、変化だけでは国家は散逸する。変化と継承の間に立って器を保つもの、これを主権と称する」
直人は壁面を見上げた。
「主権の定義が——通常の憲法学と違う」
「ええ」真琴が頷いた。「一般に、主権は『国家の最高権力』と定義されます。天皇主権か国民主権か。だがこの文書では、主権を『変化と継承の間に立つ機能』として定義している。つまり主権は、誰かに帰属する権力ではなく——」
「プロセスだ」
「はい。変化し続ける国家を保持するための、動的なプロセス。固定されたものではなく、常に更新され続けるもの」
三条が静かに言った。
「実朝が百五十年前に構想した国家像です。維持派は、天皇を中心とした固定的な国体を守ろうとした。実朝は、国家を——生き物として設計しようとした。生き物は変化する。だが変化しても、同一性を保つ。その同一性を保つ仕組みが、実朝にとっての主権だった」
直人は壁面のさらに先を見た。前文に続いて、条文が並んでいる。
第一条。『天皇ハ国家ノ記憶ナリ。記憶ハ権力ニアラズ。記憶ハ継承サレ、解釈サレ、更新サルベシ』
第二条。『三種ノ神器ハ国家ノ象徴ナリ。象徴ノ意味ハ固定サレズ。各時代ノ国民ガ、象徴ノ意味ヲ定ムベシ』
第三条。『国家ノ断絶ハ隠サルベカラズ。断絶ヲ認メ、断絶ヲ記録シ、断絶ヲ後世ニ伝フルコトヲ以テ、国家ノ誠実トナス』
第四条。『此ノ憲法ハ未完ナリ。未完ナルガ故ニ、後世ノ国民ニ委ネラル。完成ハ終焉ナリ。未完ハ希望ナリ』
直人は第四条を、二度読んだ。
未完は希望。
完成は終焉。
この憲法は——いや、この暗号全体が——未完成であることを肯定する思想の結晶だった。
「しかし」真琴が壁面の空白を指さした。「ここに何かがあったはずです。空白の部分。条文の番号から推測すると——第五条に相当する位置です」
「第五条が欠落している」
「あるいは——第五条だけは、ここに刻まれるべきではなかった。第五条は、別の場所に存在するのかもしれません」
直人は空白に手を当てた。石灰岩の冷たさが、手のひらに伝わる。
「五つの座標。五つの封印。そして五つの条文。第五条は——五番目の封印と連動しているはずだ。五番目は沖縄。つまり第五条は、沖縄の断絶に関わる条文」
「断絶を含んだ統合」三条が言った。「第三条で断絶の記録を義務づけ、第四条で未完を肯定した。では第五条は——」
「統合の方法を示しているはずだ」直人が言った。「断絶を認めた上で、どうやって国家を一つに保つのか。その具体的な方法を」
「でもそれは、ここにはない」
「ない。空白だ。空白の勅書——」
直人は設定資料の記述を思い出していた。第三部のクライマックス。地下最奥に存在する、空白の勅書。
だが今は、第一部だ。ここで全体像が見えてしまってはならない。
直人は空白から手を離した。
「ここまでで分かったことを整理しよう。更新派は、既存の国家体制とは異なる憲法構想を持っていた。その構想を五つの封印に分散して埋め込んだ。封印は百五十年後に解読可能となるよう設計されている。そして第五条——核心部分は空白のまま残されている」
「空白は——意図的なもの?」真琴が尋ねた。
「分からない。だが、第四条が『未完は希望』と宣言している以上、空白もまた設計の一部である可能性は高い」
三条が洞窟の天井を見上げた。
「実朝は——すべてを完成させなかった。完成させることが、この思想に反するから。核心部分を空白にすることで、後世の人間に問いかけた。『お前たちが書け』と」
三人は壁面の前に立ち尽くした。
ヘッドランプの光が、百五十年前の文字を照らしている。石灰岩に刻まれた、もう一つの国家の設計図。そして、その設計図の中心にある、空白。
空白が、直人を見ている。




