第二十四章 壕の記憶
通路は次第に狭くなり、やがて直人は這って進まなければならなくなった。石灰岩の壁が体の両側から迫る。ヘッドランプの光が、狭い空間を白く照らす。
真琴が背後で小さく息を切らしている。三条は無言だが、呼吸は安定していた。
直人の手が、壁面の異質な感触を捉えた。
石灰岩ではない。金属だ。
直人は壁面を調べた。石灰岩の中に、鉄板が嵌め込まれている。錆びて茶色に変色しているが、形状は明確だ。長方形の鉄板。寸法は約三十センチ×二十センチ。
軍の標識板だった。
直人はヘッドランプを近づけ、鉄板の表面を読んだ。錆の下に、型押しの文字が残っている。
「『第三十二軍司令部壕 第七号連絡通路 昭和二十年五月』」
第三十二軍。沖縄守備軍。牛島満中将率いる、沖縄戦の日本側主力部隊。
この洞窟は——日本軍の壕の一部だったのだ。
真琴が直人の横に並んだ。標識を見て、唇を噛んだ。
「第七号連絡通路。司令部壕から外部へ通じるトンネルの一つですね。摩文仁の丘の地下には、網の目のような壕が掘られていた。戦後、多くは崩落して封鎖されましたが——」
「この通路は生き残っていた。あるいは——」
直人は天井を見上げた。
「誰かが、意図的にこの通路だけを保存した」
三条が後ろから声をかけた。
「実朝の暗号が仕込まれた洞窟を、戦時中に軍が壕として利用した。その結果、暗号と戦争の記憶が、同じ場所に重なった。これは偶然でしょうか」
「偶然かもしれない。だが——」
直人は標識板の横の壁を見た。石灰岩の表面に、鉛筆の落書きがあった。薄れかけているが、読める。
「『母上様、先ニ参リマス。元気デ。山田正一、十九歳』」
十九歳の兵士の、最後の書き置き。
直人は目を閉じた。
暗号。国家。神器。象徴。——それらすべての言葉が、この壁の前では空虚に感じられた。
この場所で十九歳の少年が死んだ。国家のために。国家がそう命じたから。
「断絶を認め、断絶を抱き、断絶とともに在る」——設計者の言葉が、今、別の重みを持って直人の胸に落ちた。
断絶とは、理念と現実の断絶だ。国家の美しい理想と、その理想のために犠牲にされる個人の命。その断裂を埋めることはできない。だが、認めることはできる。忘れないことはできる。
「進みましょう」真琴が言った。その声は震えていたが、目は前を向いていた。
通路はさらに続いた。軍の壕としての構造と、それ以前——明治期に掘られた構造が、交互に現れる。二つの時代の痕跡が、地下で絡み合っている。
やがて、通路が開けた。
広い空間に出た。天井の高さは三メートルほど。ヘッドランプの光が壁面を走る。
直人は息を呑んだ。
壁面全体に、文字が刻まれていた。
漢文。楷書体。整然と、壁一面を埋め尽くしている。
そして壁面の中央——ちょうど目の高さに、空白があった。
文字のない空間。長方形の空白。何かが嵌め込まれていた痕跡がある。だが、今はそこに何もない。
「空白……」
直人は空白の部分に手を当てた。石灰岩が削られて平らになっている。ここに何かが——文書か、金属板か——固定されていた。だが、取り外されている。
「誰かが持ち去った」
三条が空白を見つめた。
「あるいは——最初から空白として設計されていたのかもしれません」
「最初から?」
「この暗号は、未完成であることが本質です。空白もまた、設計の一部かもしれない」
直人は壁面の漢文を読み始めた。文語体の格調高い文章。内容は——
「これは——憲法です」
真琴が壁面に近づいた。
「憲法?」
「明治憲法でも、日本国憲法でもない。第三の——存在しなかった憲法。更新派が構想した、もう一つの国家の設計図です」




