第二章 微細線
翌朝、直人が修復室に入ると、机の上にコーヒーの紙カップが置いてあった。
九条真琴。
宮内庁書陵部の職員で、今回の修復依頼の担当者だ。直人が朝型であることを把握していて、出勤前に差し入れを置いていく。几帳面な女性だった。カップには必ず「鷺宮様」と手書きのメモが貼ってある。達筆だが、どこか不器用な字だった。
直人はメモを見て、かすかに笑った。「様」の字の最後の画が、いつも微妙に跳ねすぎている。修復士の目には、その癖が毎回引っかかる。
——不器用だな。
コーヒーを一口飲んでから、直人は作業台に向かった。昨夜の発見が夢ではなかったことを確認するように、二重和紙の断面を改めて観察する。
やはり二層だった。
上層の和紙は楮紙。繊維が太く、丈夫で、一般的な和装本や巻子に広く使われる種類だ。墨の乗りがよく、書写に適している。
下層は雁皮紙。繊維は上層の三分の一ほどの太さしかない。そしてこの極細の繊維が、漉きの工程で操作され、肉眼では見えない図形を形成している。
誰が、何の目的で、こんなことをしたのか。
直人の電話が震えた。早川からのメッセージだった。
『解析途中だけど、やばいっす。ちょっと来てもらえませんか。電話じゃ無理です』
直人は眉を寄せた。早川悠斗は、その軽薄な言動とは裏腹に、データの扱いに関しては異常なほど慎重な男だ。「電話じゃ無理」という言い方は、セキュリティ上の懸念を意味している。
修復室の扉をロックし、直人は上野を出た。
早川の研究室は、お茶の水にある私立大学の工学棟七階にあった。廊下には学生の姿がまばらで、夏期休暇の静けさが漂っている。ドアをノックすると、中から鍵が開く音がした。
「入って。鍵閉めて」
早川は三台のモニターに囲まれていた。普段はTシャツにサンダルの男が、珍しく表情を硬くしている。エナジードリンクの空き缶がデスクの周囲に五本転がっていた。
「徹夜したのか」
「寝られるわけないでしょ、こんなもん見せられて」
早川がモニターを指さした。中央のスクリーンに、直人が送った和紙の画像が拡大表示されている。その上に、AI画像解析によって抽出された線が赤くハイライトされていた。
直人は息を呑んだ。
線は——図形などではなかった。
日本列島だった。
和紙の繊維で描かれた、極めて精密な日本列島の輪郭。現代の地図と比較しても、海岸線の一致率は驚異的だった。
「一致率、九十三・七パーセント」
早川が乾いた声で言った。
「江戸後期の測量精度を考えると、あり得ない数値です。伊能忠敬の地図でも、現代地図との一致率は九十パーセント前後。これは伊能図を超えてる」
「……伊能図の完成は文政四年。一八二一年だ」
「巻子の制作年代は?」
「裏打ちの糊の成分と紙の劣化度から推定すると、幕末から明治初期。一八六〇年代から七〇年代」
「つまり伊能図の後。データとしては参照可能な時期か」
「ああ。だが問題はそこじゃない」
直人はモニターに近づいた。赤くハイライトされた日本列島の上に、五つの点が打たれていた。繊維の密度が周囲と異なる箇所を、AIが自動検出したものだ。
「この五点は何だ」
「緯度経度に変換してみました」
早川が別のモニターに切り替えた。Google Earth上に五つのピンが立っている。
伊勢。
京都。
東京。
出雲。
そして——
「五点目の座標、沖縄本島南部です」
直人は五つの点を見つめた。伊勢、京都、東京、出雲。いずれも日本の古代から近代に至る政治的・宗教的要衝だ。しかし沖縄は——
「パターンはありますか」
「それがですね」
早川がマウスを操作し、五点を線で結んだ。
「綺麗に繋がるんすよ。しかもこの形——」
モニターの上に、一つの図形が浮かび上がった。
曲線を含む、非対称の形。
直人の全身に鳥肌が立った。
「勾玉……」
「でしょ? 俺も最初、目を疑いました。でも座標は嘘つかないっす」
五つの点を結ぶと、巨大な勾玉の形が日本列島の上に現れる。
ただし——完全ではなかった。
「一致率は八十七パーセント。完全な勾玉にするには、座標にわずかな補正が必要です。つまりこの五点は、勾玉を"示唆"してるけど、"完成"はしてない」
「未完成……」
直人は呟いた。
幕末から明治初期。日本が根底から作り変えられた時代。その混乱の中で、誰かが和紙の繊維に日本列島を刻み、五つの点を打ち、未完成の勾玉を描いた。
なぜ完成させなかったのか。
あるいは——完成させる"条件"が、まだ揃っていなかったのか。
「先輩」
早川が真剣な目で直人を見た。
「これ、学術論文にしたら一発でキャリアになりますよ。でも、俺の勘が言ってます。これ、表に出しちゃいけないやつかもしれない」
直人は答えなかった。
モニターの上で、未完成の勾玉が日本列島を抱くように浮かんでいた。




