第十七章 京都の影
九月十七日。直人は京都府立総合資料館で、明治初期の行政文書を閲覧していた。
明治元年九月六日。二重和紙の墨の数列が指し示した日付。
京都府の行政文書は、東京の公文書館とは異なる体系で整理されている。明治初期は京都が事実上の首都機能を担っていた時期であり、太政官の重要文書の一部は京都に保管されていた。
直人は明治元年の文書綴りを一枚ずつ確認していった。公式の行政記録、人事異動、財政報告。どれも通常の行政文書だ。
だが、九月六日付の文書の中に、一枚だけ異質なものがあった。
薄い和紙に、走り書きの覚書。公式文書の体裁を成していない。誰かの私的なメモが、公文書の綴りに紛れ込んだように見える。
直人はルーペで覚書を読んだ。
『本日、神宝ノ件ニ付、二派ノ議論決裂ス。維持ヲ主張スル一派ハ、現状ノ奉安方式ヲ永久トスベシト主張。更新ヲ主張スル一派ハ、後世ノ国民ニ判断ヲ委ネル構造ヲ提案。後者ノ提案ハ否決サレタリ。然レドモ、否決ノ後、更新派ノ某氏曰ク、「否決サレテモ仕込ムコトハデキル」ト。其ノ真意、余ニハ測リカネタリ。』
直人の手が震えた。
設定資料の記述と完全に一致する。
維持派と更新派。明治初期に皇室内部に存在した二つの思想。維持派が勝利し、更新派は敗北した。だが更新派は、「否決されても仕込むことはできる」と宣言した。
そして実際に仕込んだ。和紙に、石垣に、文書に、五重塔に——日本という国家の構造そのものに、暗号を埋め込んだ。
直人はこの覚書を撮影しようとした。
そのとき、背後で足音がした。
「興味深い文書ですね」
低い声。直人は振り返った。
男が立っていた。四十代前半。短い髪。引き締まった体格。スーツは既製品だが、着こなしに隙がない。
皇居東御苑で直人を撮影した男——ではなかった。あの男とは体格が異なる。だが、同じ種類の人間だということは直人にも分かった。
「どちら様ですか」
「真壁透。内閣情報調査室です」
男は名刺を差し出した。直人は受け取らなかった。
「内調が、なぜここに」
「あなたと同じものを探しています」
真壁は直人の隣の椅子に、許可も求めずに座った。
「鷺宮さん。単刀直入に言います。あなたが進めている調査について、すべて把握しています。二重和紙。五点座標。城刻印。太政官文書。星図。国会議事堂の床。伊勢の石碑。出雲の螺旋。京都の五重塔」
直人は黙っていた。
「そして、この覚書」真壁が机上の文書を示した。「維持派と更新派の存在を示す、おそらく唯一の直接的な証拠です」
「あなたはどちら側なんですか」
真壁は一瞬、答えに詰まった。その一瞬が、直人には意外だった。情報機関の人間が、質問に詰まるのは不自然だ。
「——私の立場は、国家の安定です」
「それは答えになっていない」
「では、こう言いましょう。私は、この暗号が公になることで国家の安定が脅かされることを懸念しています。三種の神器の正統性に疑問が呈されれば、天皇制の根幹が揺らぐ。天皇制が揺らげば、日本という国家のアイデンティティが——」
「あなたは維持派だ」
真壁の目が、わずかに揺れた。
「祖父がそうだった、というだけです。私自身は——」
真壁は言葉を切った。
「鷺宮さん。私はあなたを止めに来たのではありません。警告に来たのです」
「警告?」
「あなたの調査が、ある閾値を超えつつあります。掲示板への情報流出は序章に過ぎない。この先、伊勢の石碑の鉄片を分析し、出雲の螺旋の測量を行い、沖縄に向かうつもりでしょう。そのすべてが、ある勢力の注意を引きます」
「ある勢力? 内調のことですか」
「内調は情報を収集する機関であって、行動する機関ではありません。行動するのは——別の組織です」
直人は真壁を見つめた。
「維持派の組織が、今もなお存在していると」
「百五十年間、暗号を眠らせ続けるには、誰かがその番をしていなければならない。番人は世代を超えて引き継がれてきました。私の祖父がそうだったように」
「あなたも番人なのか」
「私は——」
真壁は視線を落とした。
「番人の子孫が、情報調査室に入ったのは偶然ではありません。この暗号が目を覚ましたとき、最も早く気づける位置にいるために。それが祖父の遺言でした」
直人は覚書に目を戻した。百五十年前の走り書き。二派の決裂。否決された提案。仕込まれた暗号。
そして百五十年後——維持派の末裔と更新派の暗号を追う男が、京都の資料館で向かい合っている。
「真壁さん。あなたの警告は理解しました。ですが、俺は止まれない」
「なぜですか」
「暗号が俺に届いたからです。届いたものには責任がある」
真壁は静かに直人を見つめた。
「……似ていますね」
「何にですか」
「覚書に書かれた更新派の某氏に。『否決されても仕込むことはできる』。止められても進む人間は、百五十年前にもいた」
真壁は立ち上がった。
「一つだけ助言します。沖縄に行くなら、急いでください。あなたよりも先に、そこに到着しようとしている人間がいます」
「誰ですか」
「三条冬美。旧財閥の当主。更新派の——直系です」
真壁はそれだけ言って、資料館を出ていった。
直人は覚書の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
更新派の直系。
暗号を仕込んだ側の、血を引く人間が、今も存在している。




