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第十六章 SNS炎上ネタ  

問題は、早川の冗談が冗談では済まなくなったことから始まった。

 九月十五日。早川が東寺の観光写真の解析結果を直人に送信した翌日、匿名掲示板に一つのスレッドが立った。

 タイトルは「京都の寺にヤバい暗号を見つけたんだが」。

 投稿者は、直人が参照した風景写真家のフォロワーの一人だった。写真家が投稿した東寺五重塔の高精細写真に、「何か彫ってある」ことに気づいたらしい。

 スレッドはすぐに伸びた。

 匿名掲示板特有の混沌としたやりとりの中に、真面目な考察も混じっている。「刻印は江戸時代の大工のマーキング」「いや、あの位置は不自然」「Google Earthで他の塔も調べたけど見当たらない」「陰謀論乙」「いやでも拡大すると確かに何か——」

 早川が異変に気づいたのは、スレッドが立って六時間後だった。

 早川は直人に緊急メッセージを送った。

『先輩、やばいっす。東寺の刻印がネットに出てます。まだ小規模だけど、ニュースサイトが拾ったら一気に拡散する。』

 直人は京都のホテルでメッセージを読み、血の気が引いた。

 暗号の存在が公になれば、二つの危険がある。一つは、内調がより積極的な介入に出ること。もう一つは、暗号の物証が「保護」の名目で封鎖され、調査が不可能になること。

『早川。スレッドの投稿者を特定できるか。』

『匿名掲示板っすよ。IPから辿れなくはないけど、時間がかかる。それよりも——今すぐノイズを増やしたほうがいいっす。』

『ノイズ?』

『偽情報で埋める。同じ掲示板に、「大阪城にも」「姫路城にも」「金閣寺にも」同じような刻印があるって投稿する。全部でたらめ。本物が偽物の山に埋もれれば、誰も真剣に取り合わなくなる。』

 直人は躊躇した。偽情報の流布は、修復士の倫理に反する。だが——

『やれ。ただし、お前個人とは紐付かないようにしろ。』

『了解っす。VPN三段噛ませます。』

 三時間後、掲示板は混乱に陥っていた。「日本中の城と寺に謎の刻印がある」というネタスレッドが乱立し、元のスレッドは「いつものオカルト案件」として処理されつつあった。

 だが——一人だけ、ノイズに惑わされない人間がいた。

 真壁透。

 内閣情報調査室の分析官は、掲示板の動きをリアルタイムで監視していた。そして、最初のスレッドと後続のノイズスレッドの文体、投稿パターン、使用語彙の統計的差異を、AIに一瞬で分析させた。

 結論。最初のスレッドは自然発生。後続は人為的なノイズ。

 ノイズを仕掛けた人間は、最初のスレッドの情報が真実であることを知っている。

 真壁はオフィスの椅子に深く腰掛け、モニターの光を顔に受けながら、報告書を作成した。

 件名:国家象徴関連暗号の民間流出の可能性について。

 宛先:室長。

 文面は簡潔だった。

『鷺宮直人(文化財修復士)および関係者による調査活動が加速しています。現時点での介入は推奨しません。対象者の調査進捗を利用し、暗号の全体像を把握することを提案します。ただし、情報の公開範囲が制御不能になった場合に備え、即時封鎖プランの準備を進めます。真壁透。』

 真壁は報告書を送信し、モニターを閉じた。

 デスクの引き出しを開け、一本のネクタイを取り出した。紺地に小さな家紋が織り込まれた、上質なシルクのネクタイ。家紋の形は——

 円の中の崩し字。

 真壁はネクタイを手の中で撫でた。

 このネクタイは祖父の遺品だ。祖父もまた、ある組織に属していた。

 だが祖父の組織は、鷺宮直人が追っている「更新派」ではない。

 維持派。

 暗号を守り、封じ、百五十年間眠らせ続けてきた側の人間。

 真壁透は、維持派の末裔だった。

 そして今、更新派が仕込んだ暗号が目を覚まそうとしている。

 真壁はネクタイを引き出しに戻し、鍵をかけた。

 彼の目に浮かんだのは、任務遂行の冷徹さではなかった。

 迷いだった。

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