第十四章 墨の方向
早川悠斗は、三つの現場から送られてくるデータを統合しながら、新たな発見に至った。
二重和紙の下層——雁皮紙の微細線を、さらに高精細にスキャンした結果、日本列島の図形の上に、墨の微細な痕跡が確認されたのだ。
墨。
和紙の繊維による図形は肉眼で見えない精度で描かれていたが、その上にさらに、極めて薄い墨の層が存在していた。通常の光学顕微鏡では検出できない。早川がラマン分光法を応用した画像解析ソフトを走らせたことで、初めて浮かび上がった。
墨は文字ではなかった。線だ。
和紙の繊維で描かれた日本列島の上に、墨の線が走っている。線は五つの点を起点とし、それぞれの点から放射状に伸びている。
放射線の方向には、規則性があった。
早川はその規則性を数値化した。各放射線の角度を計測し、地理的な方位に変換する。すると——
五つの点からの放射線が、すべて一つの点に向かって収束していた。
その収束点は、五点のいずれでもなかった。
日本列島の上の、別の場所。
富士山だった。
早川は直人と真琴に同時にメッセージを送った。
『墨の放射線、全部富士山に収束。五点が富士を指してる。どういうことっすか。』
直人の返信。
『富士山は三種の神器のいずれにも直接関連しない。だが、明治以降の日本の象徴としては最も強力だ。設計者は、五点=神器の座標と、収束点=富士を、別の層に分けて描いた。繊維の層と墨の層。これは「制度」と「象徴」の分離を意味しているのかもしれない。神器=制度的正統性。富士=国民的象徴。二つは重なっているが、同じものではない。』
真琴の返信。
『鷺宮さんの解釈に同意します。そして補足ですが、明治政府は富士山を国家の象徴として積極的に利用しました。紙幣、切手、国定教科書の表紙。神器が天皇の正統性を保証するのに対し、富士は「国民の統合」の象徴です。設計者が二つを分離したのは、国家の正統性と国民の統合が、必ずしも同一ではないことを示しているのではないでしょうか。』
早川はやりとりを読みながら、自分がこの三人の中で最も政治的知識が乏しいことを痛感していた。だが、データはデータだ。政治の意味は分からなくても、パターンは読める。
早川は墨の放射線をさらに詳細に分析した。線の太さ、濃度、そして——滲み。
滲みに方向性があった。
墨が和紙に滲む際、繊維の方向に沿って滲みが伸びる。通常の和紙では、繊維の方向は漉きの工程で概ね一定になる。だが、この雁皮紙は繊維そのものが操作されている。つまり、墨の滲み方も、繊維の方向に影響されて通常とは異なるパターンを示す。
早川は滲みの方向を解析し、新たなパターンを抽出した。
数字だった。
墨の滲みが形成する微細なパターンの中に、数列が隠されていた。
早川は数列を書き出した。
3、1、4、1、5、9、2、6——
「ん?」
早川は首を傾げた。見覚えのある数列だ。
円周率。πの小数点以下。
だが、数列は途中で変化していた。
3、1、4、1、5、9、2、6、5、3——ここまでは円周率。だが次の数字は——
5、8。
円周率の次の桁は「5、8、9、7……」だが、この数列は「5、8」のあとで止まり、別の数列に移行している。
7、2、0、1、8、6、8——
早川は数列を睨んだ。円周率に見せかけた暗号。途中から別の意味を持つ数列に切り替わっている。
切り替わりの地点——「5、8」。
五八。
明治五八年——そんな年号は存在しない。明治は四十五年で終わっている。
では西暦か。一九五八年。昭和三十三年。
何かがあった年か。早川は検索した。
一九五八年。東京タワー完成。皇太子明仁親王の婚約発表。日本の高度経済成長の始まり。
だが、暗号の文脈で最も関連しそうなのは——
皇太子の婚約。皇室の世代交代を象徴する出来事。
早川は後続の数列「7、2、0、1、8、6、8」を様々な方法で解読しようと試みた。日付に変換すると「七月二十日、一八六八年」——明治元年。
明治元年七月二十日。
早川は検索した。
その日付には、直接的な歴史的大事件は見当たらなかった。だが——
慶應四年七月二十日。旧暦では明治改元の前。この時期、明治新政府は太政官制を整備し、国家の基盤を構築していた最中だ。
早川はメッセージを送った。
『墨の滲みから数列を抽出。円周率に偽装した暗号。「1868年7月20日」が含まれてる。明治元年の日付。何か分かりますか。』
直人の返信は十分後に来た。
『明治元年七月二十日。旧暦。新暦に変換すると九月六日。——九条さん、この日付に心当たりは?』
真琴の返信。
『調べます。少し時間をください。』
二時間後、真琴から長文のメッセージが届いた。
『明治元年九月六日(新暦)。公式の記録では目立った出来事はありません。しかし、宮内庁書陵部の非公開目録——私がアクセスできる範囲の記録に、この日付の文書が一点存在します。内容は「神宝遷座ニ関スル覚書」。三種の神器の移動に関する内部文書です。ただし、この文書は目録に記載されていながら、実物が見当たりません。かつて書庫に存在したが、現在は所在不明——つまり、持ち出された可能性があります。』
早川は椅子の背に体を預け、天井を見上げた。
暗号の層が、一枚ずつ剥がれていく。その下から、さらに深い暗号が現れる。
墨の滲みの方向が語った数列は、百五十年前に消えた文書を指し示していた。
早川はエナジードリンクの缶を開けた。手が微かに震えていた。




