第十章 皇居光
九月に入った。
東京の残暑は衰えを知らず、修復室の空調は限界に近い音を立てている。
直人は巻子の修復作業を続けていた。二重構造の発見以来、表層の修復を進めながら、下層の雁皮紙に新たな情報がないか慎重に探っている。本来の依頼は表層の修復だけだ。下層に触れる権限は、厳密にはない。
だが、真琴は黙認していた。
毎朝のコーヒーは続いている。メモの字は相変わらず不器用だ。だが、以前とは何かが変わった。メモの文面だ。
「鷺宮様」だったのが、「鷺宮さん」に変わっていた。
些細な変化。だが直人にとっては——修復士にとっては——些細な変化こそがすべてだった。
九月五日の夜。
直人は修復室に一人で残っていた。巻子の裏打ち作業は夜間の方が効率がいい。湿度が安定し、振動が少ないからだ。
作業台のルーペ越しに和紙を見つめていると、電話が鳴った。真琴からだった。
「鷺宮さん。今、どちらですか」
「修復室です」
「窓はありますか」
「地下だから窓はないけど——何かあったんですか」
「すぐに地上に出てください。博物館の正面口から皇居の方角を見てください」
真琴の声には、いつもの抑制が消えていた。何かに圧倒されている声だった。
直人は階段を駆け上がり、博物館の正面口に出た。夜の上野公園を突っ切り、広い通りに出る。西を見た。
皇居の方角。
夜空の低い位置に、光が見えた。
皇居の森の上——二重橋の向こう、本丸跡のあたりから、淡い光の筋が立ち上っている。
オーロラのような、だがオーロラとは異なる。色は白に近い金。揺らめきはあるが、自然現象とは思えない規則性がある。
「見えますか」真琴の声が、電話の向こうから聞こえた。
「見えている。何だこれは」
「分かりません。三十分前に始まりました。宮内庁は把握していますが、公式な対応は——まだ何も」
「ニュースには」
「出ていません。SNSには写真が上がり始めていますが、夜景のイルミネーションだと思われているようです」
直人は光を見つめた。光の筋は、垂直ではなかった。わずかに東に傾いている。その角度——
直人は急いでスマートフォンのコンパスアプリを起動した。光の筋の傾斜角と方位を概算する。
「九条さん。この光の傾きを見てください。方位と角度」
「はい——北北東に約二十三・四度」
「二十三・四度。地軸の傾きと同じだ」
電話の向こうで、真琴が絶句するのが伝わってきた。
地球の自転軸は、公転面に対して約二十三・四度傾いている。この傾きがあるから、日本には四季がある。星の見え方が季節で変わる。そして——歳差運動が生じる。
早川が計算した、星図の周期。百五十七年後に五つの星が再び勾玉を描くのは、歳差運動による見かけの変化があるからだ。
あの光は、地軸の傾きを示している。
「設計者の——仕掛けだ」
直人は呟いた。
「百五十七年周期のカウントダウンが始まった。十月二十三日——明治改元から百五十七年目の夜に、すべてが揃う。この光はその予告だ」
「鷺宮さん。光源は何ですか。本丸跡に、光を発する装置なんて——」
「分からない。だが、物理的な装置である必要はない。石垣に刻まれた刻印が、特定の条件で光を反射・集光する構造になっているとしたら——」
直人の頭の中で、仮説が組み上がっていく。
皇居の石垣。複数の藩が刻んだ刻印。その中に紛れ込んだ、例の円と崩し字の刻印。もしあの刻印が単なる目印ではなく、石の切り出し角度を指定するための設計図だったとしたら——
石垣全体が、巨大な光学装置になる。
特定の季節、特定の時刻に、月光や星光が石垣の角度に沿って反射・集光され、光の筋が立ち上がる。
百五十年以上前の技術で、それが可能か。
可能だ。古代エジプトのピラミッドでさえ、特定の日に太陽光が内部の特定の場所を照らすよう設計されている。江戸時代の日本の石工技術は、世界最高峰だった。
「鷺宮さん」
真琴の声に、新たな緊張が加わった。
「宮内庁の内部連絡が入りました。——内閣情報調査室が動いています。光の発生源を特定するため、本丸跡への立ち入り調査を要請したそうです」
内調。
あのスーツの男。
「真壁——」
「何ですか」
「いや——。九条さん、内調の動きは監視できますか」
「限界がありますが、書陵部経由で入る情報は追えます」
「お願いします。それと——早川に連絡を取ります。光のスペクトル分析ができるかもしれない。写真を撮って、画像データを——」
「もう撮っています」
直人は思わず笑った。
「さすがですね」
「……褒めないでください。私はただ——」
真琴の声が途切れた。
「——ただ、どうしていいか分からないだけです。目の前で起きていることが、私の理解を超えています。でも記録することはできる。記録は、私の仕事ですから」
直人は光を見つめ続けた。金色の筋が、東京の夜空にかすかに揺れている。
都市の灯りに紛れて、ほとんどの人間は気づかない。だが——気づく者には、はっきりと見える。
百五十年前の設計者が仕込んだ光。
それは暗号であり、予告であり、そして——
招待状だった。
「九条さん」
「はい」
「十月二十三日まで、あと四十八日です」
「ええ」
「それまでに、五つの座標すべてを実地調査する必要がある。伊勢。京都。出雲。そして沖縄。東京はここで確認した。残り四箇所」
「四箇所を四十八日で」
「一箇所十日の計算です。できますか」
電話の向こうで、真琴が深く息を吸うのが聞こえた。
「やります。有給休暇は十二日残っています。足りない分は——」
「無理はしないでください」
「無理をしなければ、この先には進めません」
直人は、真琴の言葉の強さに、一瞬たじろいだ。
この人は——決めたのだ。
国家公務員としての安全な岸辺から、暗号の海に踏み出すことを。
「分かりました。では明日、三人で計画を立てましょう。早川の研究室で」
「分かりました。おやすみなさい、鷺宮さん」
「おやすみなさい」
通話が切れた。
直人はスマートフォンをポケットにしまい、もう一度皇居の方角を見た。
光は、少しずつ弱まっていた。夜の空気に溶けるように、金色が薄れていく。
やがて——消えた。
まるで、見せるべき者には見せた、とでも言うように。
直人は博物館に戻り、地下の修復室に降りた。
作業台の上で、二重和紙が待っていた。
百五十年の沈黙を破った紙片。そこから始まったすべてが、今、加速している。
直人は手袋を嵌め、ルーペを手に取った。
まだ見落としている情報があるはずだ。この和紙は、まだすべてを語っていない。
修復室の蛍光灯が、白い光を和紙に落とす。
直人の夜は、まだ終わらない。




