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第一章 二重和紙

 手が覚えている。

 鷺宮直人は、薄暗い修復室の作業台に向かいながら、いつもそう思う。指先が和紙の繊維を撫でるとき、脳よりも先に手が判断する。この紙は生きているか、死んでいるか。救えるか、救えないか。

 東京国立博物館の地下二階。一般客の足音も、上野公園の蝉の声も届かない。蛍光灯の無機質な光の下で、直人は江戸後期の巻子装の修復に取り組んでいた。依頼元は宮内庁。内容は「儀式次第の写し」とだけ伝えられている。

 三十二歳。文化財修復士としては若い部類に入る。だが直人の手は、師匠の永田老人が「六十年の手」と評したほどの精度を持っていた。繊維の方向を読み、糊の濃度を空気の湿度から逆算し、欠損部に当てる補修紙を百分の一ミリ単位で裁断する。

 守る技術。

 直人はこの仕事をそう定義していた。過去が未来へ届くよう、劣化を止め、損傷を癒し、あるべき姿に戻す。自分の解釈を加えてはならない。修復士は透明でなければならない。それが永田老人から受け継いだ信条だった。

 巻子の裏打ちを剥がす作業に入ったとき、直人の指が止まった。

 二枚ある。

 裏打ち紙の下に、もう一層、和紙が貼られている。通常の巻子装にはあり得ない構造だった。装丁の歴史を辿っても、裏打ちの下にさらに和紙を重ねる技法は存在しない。少なくとも直人は知らない。

 湿度管理された室内で、直人は無意識に息を止めていた。

 ピンセットで端をわずかに持ち上げる。下層の和紙は上層と明らかに質が異なっていた。繊維が細い。現代の機械漉きではない。手漉きだが、通常の楮紙とも違う。直人の指が微かに震えた。

 この繊維の触感は——雁皮紙に近い。

 雁皮紙。古代から用いられてきた最高級の和紙。繊維が極めて細く、緻密で、光沢がある。そして何より、虫がつきにくい。長期保存を前提とした紙だ。

 儀式次第の写しに、なぜ雁皮紙の隠し層があるのか。

 直人はルーペを取り出した。倍率を上げていく。十倍。二十倍。三十倍。

 下層の和紙の表面に、微細な線が走っていた。

 墨ではない。線は紙の繊維そのものを操作して描かれている。漉きの段階で、簀の目の間隔を変えることで生み出された模様——いや、模様ではない。

 何かの図形だった。

 直人は作業を中断し、記録写真を撮影した。修復の鉄則だ。現状をすべて記録してから、次の判断に移る。

 だが、カメラのファインダー越しに見た図形は、直人の理性を揺さぶった。

 直線と曲線の組み合わせ。幾何学的だが、完全な幾何学ではない。どこかに意図的な歪みがある。まるで——地図のような。

 直人はカメラを置き、両手を膝に載せた。深呼吸する。修復室の冷たい空気が肺を満たした。

 守る技術。俺の仕事は守ることだ。

 だが、守るためには、まず何を守っているのかを知らなければならない。

 直人はスマートフォンを取り出し、連絡先を探した。大学時代の後輩で、今はAI画像解析の研究者をしている男。軽薄だが、腕は確かだ。

「早川」

 三コール目で繋がった。

「あー、鷺宮先輩。珍しいっすね。何すか、また古い紙のシワの数でも数えてほしいんすか」

「お前の専門はパターン認識だろう」

「そうっすけど。え、マジのやつすか」

 直人は修復室の天井を見上げた。蛍光灯の光が、白い天井に四角い影を落としている。

「一枚の和紙に、繊維で描かれた図形がある。肉眼では判別できない精度だ。これが何を表しているか、解析できるか」

 電話の向こうで、早川悠斗が息を呑む気配があった。軽口が消えた。

「——送ってください」

 直人は通話を切り、撮影した画像データを暗号化して送信した。

 作業台の上で、二重の和紙が蛍光灯の光を静かに受けている。百五十年以上前に漉かれた紙。その下に隠された、もう一枚の紙。

 直人はまだ知らない。

 この夜を境に、「守る」という言葉の意味が、根底から覆されることを。

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