一週間の終わらない戦争
私はまた、同じ朝を迎えた。
目を開けた瞬間、耳が破裂した。
空気が震えていた。
世界が軋む音だった。
肺に何かが入らない。
息をしても酸素が腐っている。
喉を通るたびに、内側が焼けた。
街のシンボルは、順番に崩れた。
塔、時計、広場の像、学校、病院。
それぞれ違う方向に倒れ、粉塵が街を覆う。
風は吹いていないのに、砂だけが舞っている。
耳の奥で何かが破裂し、音が続いていないのに、耳は鳴り止まないBGMを探していた。
制度を司っていた者たちは机に伏し、どの画面もほとんど暗く、かろうじて文字列だけが点滅している。
言葉が空気の中で折れている。
意味が、呼吸よりも早く死んでいく。
私はそれを見ても、理解の輪郭をつかめない。
思い出が、体の内側から剥がれていく。
痛みも懐かしさも、どちらも現実の感触を持たない。
世界が壊れるとき、人はまず知覚の奥行きから崩れるのだと知った。
永遠に終わらない、ループする一週間の戦争から、また抜け出せないのだと知る。
月曜
空から、雨と同じ音で、冷たい鉄が降り注ぐ。
当たった人の体は音を立てて裂け、その音は地面の血と混じる。
倒れた人の指先が、何かを掴もうとする。
だがそこには何もない。
風がないのに、血の匂いだけが広がる。
火曜
子どもが目の前で喉をかき切られ、殺される。
私は抱きかかえる。
腕の中で、体温を失っていく。
血が服に染み、体が冷たくなるのを感じる。
喉の奥で潰れた声を繰り返す。
同じ言葉を、何度も。
そのうち声は、言葉ではなく、空気を裂くだけの音になった。
水曜
街のいたるところで、親が子を探している。
名前を呼ぶ声がサイレンのように響く。
サイレンが鳴り止むたびに、新しい声がまた上がる。
夜になると、誰も声を出さなくなる。
声を出した者が撃たれるから。
その沈黙の中に、虫の音だけが戻ってきた。
それも、どこかで誰かが録音した音だった。
木曜
服の色が灰に染まる。
汚れではなく、もはや布そのものが灰色になる。
鏡を見ると、自分の顔の輪郭が薄れている。
区別がつかない。
他人の顔と自分の顔が、入れ替わっても誰も気づかない。
人々は互いの名前を口に出さずにすれ違う。
その沈黙が、街の新しい言語になった。
金曜
地図が意味を持たなくなる。
建物の位置が夜ごとにずれる。
写真の中の景色も変わる。
誰かの笑顔が消え、代わりに影が残る。
私はそれを見ても、もう驚かない。
時間さえも、私の不感症を模倣しているようだった。
土曜
人々は自分の名を捨てる。
名を呼ばれることが、死刑宣告のようになる。
希望という言葉は、発音できなくなる。
口の中で舌が動かなくなり、誰も未来の話をしなくなる。
夜明け前に、多くの人が自分の喉を切る。
血の匂いが朝の空気に混じる。
その匂いで、朝だとわかる。
空は白く光り、鳥の声はもう再生されない。
日曜
人がいなくなる。
靴だけが道に散らばっている。
街の中央に立つと、音が一つもない。
風すら、息をしていないようだった。
私は誰かを呼ぼうとした。
声が出なかった。
それでも口を開ける。
喉が乾いた音を立てる。
それが、この世界で最後の音だった。
そんな一週間を、永遠に繰り返す。
それでもどこか、感覚は麻痺を許してくれない。
毎朝、起きると隣には黒くなった牛乳が置かれている。
飲んだ人間から、敵がなんなのかを知覚したかのように、どこかへ駆け出す。
この世界にはそれ以外に喉を潤す手段はない。
それを横で見ている私は怖くて、飲もうとすれば手が震え、結局は飲めない日々を繰り返す。
こんな絶望的な世界だとしても。
戦わなかったら勝てないとしても。
飲まない。
飲んだら人でなくなると、知っているから。
私の隣でライフルに弾を詰めようとしている。
その口ぶりは軽やかで、今から人を殺すとは思えない。
「その銃で何をするんですか?」
「どっちが正しいか見せつけるんだ」
「敵に何かされたんですか?」
「昔撃たれたことがあるから復讐するんだ」
「それって誰に撃たれたか覚えてるんですか?」
「そう言われたら覚えてないな」
「じゃあ何でやるんですか?」
「世界がそうすれば安心できると言うから従っているだけだ。俺の意思じゃない。俺は悪くない」
「なるほど」
その欲望が火薬になり、弾は発射の合図を待つ引き金となると理解した瞬間、私たちはもう後戻りできなかった。
朝の霧は油の匂いを帯び、地表は黒い泡を吹いている。
ここはかつて街だった。今は焼けた骨のように戦列が連なり、旗は灰に溶けて下がっている。
柱は折れ、広場の床は波打ち、人影は断片になって転がる。
足元の土は湿って、指先にまとわりつく。そこに立つだけで皮膚が薄く剥がれるようだ。
銃声は会話にならない。
発射のたびに、誰かの顔の表面が剥がれ、眼球が空を見失う。
血は土に吸われず、空気に糸を引いて浮かぶ。香りは鋭利で、呼吸は切削される。
誰かが叫ぶ前に、もう別の誰かが動いていて、互いの動作を鏡写しに再現する。
そこに理由はない。理由は欲望の連鎖だ。生き延びる理性ではなく、模倣が形作る燃えさしだ。
何と戦っているのか。
それはひとつの形をした差し替えだ。
見えない過去の痛み、誰かに与えられた名前の重み、誰も自分で持て余す誤差を消すための単純な手続き。
撃つことは、痛みの源を物理的に照らし出す行為ではなく、痛みの所在を消すための儀式になっていた。
銃を撃つと、そこにあったはずの記憶の輪郭が焼け落ち、代わりに仮設の秩序が立ち上がる。
その仮設の秩序がまた誰かの欲望を刺激し、次の火薬になる。終わりはない。
何のために戦っているのか。
復讐という言葉はここで意味を持たない。
復讐は手続きの名札でしかなく、名札は次第に薄れていく。
人々は何かを消すという動機の中に安息を見つける。消去は安心になる。誤差が消えれば世界は整理される——そんな幻想だ。
それは他者を壊すことで自分の内部の騒音を沈める、自己鎮静の暴力だ。
だから戦いは先制的に、意味を作る前に始まる。未来のズレを予め潰すために、今、誰かが撃たれる。
欲望の狂気性は静かに作用する。
ある者は他者の痛みを取り込んで自分の中で反芻し、別の者はその反芻を見て同じ形を模倣する。
模倣は増幅器だ。小さな傷が反復されるたび、振幅は大きくなり、やがて全身を破裂させる。
復讐の対象が誰だったかを忘れても、行為だけは繰り返される。行為が正当化の代わりをする。
行為が積み重なり、やがてそれ自体が目的に変わる。生き残るためではなく、連鎖のために撃つ。
戦場は記憶の解体場だ。
碑文は崩れ、像の首が転がり、祭壇の灰が舞う。
ここでは歴史が毎夜書き換えられる。写真が夜ごとに別人の顔を映す。地図の線は朝にはズレる。
戦う者は知らぬ間に過去を奪い、未来を売り渡す。
勝利とは何かを奪い去ることであり、奪い去られたものは二度と戻らない。残るのはただの空洞だ。
私の隣の男は笑う。
笑いながら弾を込め、笑いながら引き金を引く。
弾丸は肉を貫き、骨を砕き、血は地面に輪を描く。輪はすぐに乾き、次の輪が生まれる。
笑いは儀式を滑らかにし、痛みを記号化する。記号は次の行為の導線になる。
ここに立つことは観察であり、また加担でもある。
黒く濁った牛乳の入れ物が並ぶ小屋の前で、私は手が震えて飲めない。
飲む者は瞬間的に別の現実を獲得する。目が曇り、動きが速くなり、決断が鋭くなる。
飲んだ者はすぐさま走り出し、そのまま列に加わり、また誰かを撃つ。味覚は奪われ、代わりに確信が挿入される。
その確信は虚飾で、欲望に火をつける燃料だ。やがて飲まれた俘虜は、元の自分を思い出せなくなる。
私たちは何のためにここにいるのか、時折問いかける。問いはすぐに掻き消される。
問いを出した者が無関係に撃たれ、その沈黙がまた別の問いの出発点になる。問いの輪廻。
戦う理由は、もはや明晰な主張ではなく、深く浸透した模倣の回路そのものだ。
欲望はその回路に沿って流れ、たとえ源が虚ろでも、流れは止まらない。
夜になると、どこかの塔が燃え、残像が空にひらめく。炎は形を持たず、色を忘れ、ただ熱だけを放つ。
熱は記憶を蒸発させ、皮膚の下の感覚を麻痺させる。麻痺した身体がさらに撃ち、麻痺は連鎖する。
戦いの終わりは来ない。
終わりのように見えるのは、ただ消耗の一瞬だ。誰かが倒れ、列が乱れ、別の列ができる。
私たちは不在の対象に向かって毎朝弾を詰める。誰に向けているのかは重要ではない。重要なのは、引き金が引かれることだ。
そこに、秩序が生まれる。秩序は痛みの分配表であり、分配された痛みは秩序を永続化する。
私が知ったことがある。
何を守るために戦うのかを決めるのはいつも欠落だ。守るべきものは既に壊れているか、最初から存在しなかった。
それでも撃ち続ける。撃つことで自分の位置を確かめ、撃つことで自分を忘れさせる。
欲望は火薬になり、模倣は雷管になり、儀式は発火点になる。すべてが機械仕掛けに組み込まれ、誰も止められない。
私は隣の男の手からライフルを奪わない。奪う行為が別の誤差を生むと知っているからだ。
代わりに、黙ってそこに立ち、弾丸が飛び交う音を数える。
数が増えるたびに、私の内部の何かが少しずつ崩れていく。
それでも問いは消えない。何と戦って、何のために戦っているのか。問いは血の匂いに混ざり、煙とともに上がっていく。
答えは見つからない。だが欲望は今日も火を吹き、世界はまた一つ、形を失っていく。
目が覚めると、また月曜になっていた。
空は色を失い、世界の輪郭がまだ柔らかい。
遠くで黒い牛乳を配る者がいた。
顔があるのかも分からない。
その存在は温度のようなもので、どの方向からも滲んでいた。
私の足元に、瓶が置かれている。
中の液体はゆっくりと回転していて、光の死骸のような色をしていた。
「貴方は誰?」
その存在は静かに笑った。
「誰かという概念は、君たちが互いを殺すために作ったんだ。
自分はただ、供給しているだけだ」
私は瓶を指さす。
「じゃあ、なんで牛乳が黒く染まるの?」
「理想主義者は、純粋な思想だけが世界を救うと信じて誤りを犯す。
逆に現実主義者は、混ぜものの中にしか真理はないと信じて、やっぱり誤りを犯すんだ。
この液体はね、文化の沈殿物なんだよ。
記憶が濾過され、意味の粒が死骸みたいに底へ沈む。
それを飲めば、誤差が消える。
でも、誤差が消えるっていうのは——
君たちが世界を理解したと錯覚する、ただそれだけのことなんだ」
「理解は学校で習ったから知ってるよ。叩かれたら痛いって」
「知性に判断を控えるよう要求することは、その理解能力を損なう。
理解は、価値判断において頂点に達するんだ。
今の時代にその理解なんてものがあるとは、思えないけどな」
「じゃあ、どうしてそんなものを配るの。
子どもの首にナイフを刺して、銃に弾を込めてたよね。
あれ、全部あなたでしょ」
「あぁ、そうだな」
「あなたは理解できるのに、しないんですね」
「俺に理性があると思うなら大間違いだぜ」
「貴方は何者なの?」
「俺のような漠然とした形のない存在すら殺そうとするんだな。
文明人は怖いな。
自分の信じるものを批判できるのに、それでもなお信じ続けられるんだから」
「私は信じてるんですかね?」
「信じてるさ、そうじゃなかったらこんな世界に迷い込んだりはしねーよ」
「私は抜け出せるんですか」
「可能性はあるが、俺頼りな間は無理だな」
戦場の中で、その存在の周りだけはやけに静かだ。
風も吹かず、ただこの世界の大きな意志の主体であるかのように、この世界のどこでもない場所にいる感じがする。
その存在は話を続ける。
「文化を壊すのに、暴力なんていらないって知ってたか?
理解という行為そのものが、文化を殺すんだ。
君たちは殴るよりも速く、解釈で世界を破壊している。
裏を返せば、自らを生み出した独自の価値への無関心によって、死んでいくんだ。笑っちまうだろ」
私は目を伏せた。
瓶の中の渦が、呼吸に合わせてわずかに揺れる。
「世論は、意見の集まりなんかじゃない。
むしろ、意見そのものが世論の反響なんだ。
同時代人のように考えること——
それは、繁栄の処方箋でもあり、愚かさの証明でもあるんだ」
私は瓶を拾い上げる。
手の中でぬるい液体がわずかに泡立つ。
その泡が、記憶の形をしていた。
街が崩れる音、子どもの喉の断裂、血の乾く匂い。
すべてが、一本の線に還元されていく。
存在は言った。
「飲むか飲まないかは、もう選択じゃない。
選ぶという仕組みがすでに飲まれている。
だから、飲まなくても、君の舌はすでに味を覚えているんだ」
私は飲んだこともないのに、牛乳だということを既に知っていた。
私は瓶を地面に置いた。
ガラスの中で、渦が止まる。
世界も同じように止まった気がした。
「それでも、まだ壊していないのは何故?」
存在は言った。
「壊さない限り、壊れることの意味は残る。
それが、最後に残った文化だよ。」
風のない場所で、埃が立つ。
それが、まだ世界が生きている証のように思えた。
「最後に一つだけいいですか」
「その質問には答えられないな」
「どうして」
「君が手を離す気がないからさ」
「どういう事ですか」
「君は心を乱すことを選んだ。見たいものだけを選び、その聖域を守る。
誤差のない理想の自己に飼われる——そんな存在だ。
この世界では平気でも、詩の中では違う。
そこで起きているのは、君自身の手による殺人だ。
交換不可能なものを無理やり与える——それが殺すということだ」
「私そんな事してないですよ」
「じゃあ、君が今持っているライフルは何だい」
気がつくと、手にはライフルを握っていた。冷たい金属の感触が、掌の溝に焼きつく。
引き金の位置が舌の裏側のように馴染んでいる。音が遠のき、世界は細い管の中で脈打つように縮む。
存在の声が、ガラス越しの水のようにゆらめく。
「そのライフルを持てるのは、ここが地獄だからだ。
天国には階級がある。
社会にも魂にも、まだ段差があるうちは、欲望はぎりぎりのところで踏みとどまっている。
だがその階層が崩れると、欲望は中央へと流れ込み、世界を押し潰していく。
大衆の嗜好は、優れたものを嫌うことじゃない。
良いものも、凡庸なものも、醜いものも——区別なく受け入れてしまう、その受動性のことだ。
悪趣味なんじゃない。ただ、趣味そのものを持たないだけさ。
そして、何も持たない者の手には、気づけばライフルが握られている。
理由もないまま、引き金だけが磨かれていくんだ」
私は声を震わせた。
「私は、誰も殺してなんていない」
存在は笑った。
「いつから、自分だけは違うって思い込んだんだ。
自分の人生を観察し、考え、語る者だけが、自分の人生を生きている。
残りの者は、人生に生かされてるだけさ」
私はゆっくりと目を伏せた。
「私はとっくの昔に——あなたに殺されてたんだね」
「あぁ。ようやく気づいたか」
「ありがとう。死んでることに気づかせてくれて」
私は手に持っているライフルを口に押し込む。
存在は少しだけ目を細めた。
「もう、すでに君は死んでる。
世界は、二度目の死を許さない。
だが、死の刻印を恐れる必要などない。
それを終わりと見るか、誰にも染まらずに自分の血で染め直す生と呼ぶか——
それは君の手に握られてるのだから」
言葉はもう必要なかった。
存在の論理が、薄い膜のように胸の中で裂ける。
手は自然と引き金へと滑り、冷たい金属の感触が歯の奥で震える。
世界が一点に潰れ、外界のすべての音が吸い込まれていく。
金属の冷たさが舌を打ち、意識が遠のく。
存在の視線が、私の眼球の奥を透かし、どこか遠くを指さす。
そこにあったのは——奪われる前の名や顔ではなく、欠落が残した鮮やかな空白だった。
引き金に指をかける。
沈む感触が、誰かの記憶の終わりを告げる鐘のように胸に響いた。
目を覚ますと、戦争のない世界に戻っていた。
スマホのアラームが鳴っている。
何だったんだろう。
アラームは単調に繰り返し、部屋の空気だけがそのリズムに応じて震える。
窓の外の街灯は、いつもの灰色をしている。
掌に残る冷たさだけが、本当にあったことを示していた。
指先で触れると、金属の跡がなまなましく疼く。
何かが消えたのか、戻ったのか、それともただ夢が割れただけなのか。
わからないまま、目眩が薄く広がる。
スマホを見つめ、アラームを止める。
画面の上で、もう一度だけ時間が点滅する。
時計の針は進み、世界はそれを受け入れる。




