第六章:空より見下ろすもの
風が澄みきった高空を、ひとつの影がゆるやかに旋回していた。太陽の光を浴びてきらめく鱗は、まるで夜空の星々をそのまま纏ったかのよう。翼を広げたその姿は、まるで空の王者。大地を睥睨するのは、若きドラゴン――名をティアマト。
ティアマトはまだ若い部類のドラゴンだった。齢は二百年。とはいえ、人間にとっては想像も及ばぬ時を生きており、その存在は伝承の中でしか語られぬ、災厄にして神話的な生き物であった。
彼の飛行は目的のないものではない。地上から立ち上る、特異な魔力の匂いを感じ取っていた。雷。強烈な雷の波動。これまでの人生で、一度たりとも嗅いだことのない、鮮烈で純粋な力だった。
(……間違いない。これは、あの雷の魔法……)
かすかな記憶がよみがえる。かつて母なる竜――エンシェントドラゴンが語ったことがあった。
“雷を纏う者が現れたならば、決して侮るな。そやつは、古の魔物の末裔。魔王さえも恐れた唯一の存在だ”
ティアマトはその話を神話の一節程度にしか捉えていなかった。だが、いまこの眼下に感じる魔力は、まさにその“伝説”そのものだった。
彼の瞳は、大地を這うすべての命の魔力を色として視る。木々は翠、獣は褐色、魔物は禍々しい黒や赤。だが、今、森の中で焚かれた小さな焚き火のそばに、ひときわ鮮烈な“雷光”が揺らめいていた。
その魔力は、燃え盛るような青白き稲妻の色。周囲を焼き尽くさんばかりの激しさを秘めながら、内側には不思議な静謐を湛えている。
(……この地に、そんな存在がいたのか)
ティアマトの尾が風を切り、雲を割って旋回する。その視線は、地上に小さくうごめく三つの影へと注がれていた。
一人は小さな少女。魔力は穏やかで、しかし芯には透き通るような強さがある。そして彼女の傍らに立つ巨躯の者――それこそが、雷を纏う異形の存在だった。
ティアマトはその姿をじっと観察する。異形。赤き肌、長く伸びた角、鬼のような相貌。しかし、その瞳はどこか深く人間的な悲しみと、静かな怒りを湛えていた。
(この男……ただの鬼ではない。雷をその身に宿している。まさか、本当に……)
心臓が高鳴る。畏怖にも似た感情が、ティアマトの胸中を満たしていく。
彼は生まれてこのかた、人間を数多く喰らってきた。半年に一度、各地の村々から捧げられる生贄。それは、単なる食事ではなかった。人間特有の魔力――とくに愛する者と過ごした者の魂から発される、特異な魔力を喰らうことで、ティアマトは空を飛び続ける力を得ていたのだ。
その魔力は、魔物や獣には持ち得ない、人間という儚き種族特有の輝き。愛し合い、守り合い、喪いながら生きる者たちが生む、美しくも濃密な魔力。それこそが、ティアマトにとっての糧であり、生存の源であった。
だが、今、目の前に現れたこの雷の魔物。彼はその魔力の質も量も、過去に見たどんな魔物とも異なっていた。
(このまま地に降りるべきか……否、今はまだ時ではない)
ティアマトは自らの鼓動を鎮めながら、ゆっくりと翼をたたみ、より高空へと舞い上がる。森の匂いが薄れ、代わりに雷の余韻だけが鼻腔をくすぐる。
(半年後の儀に、新たな候補が加わったことになるな……)
彼は振り返らなかった。だが、脳裏には刻まれていた。雷の魔力を宿す者の姿。そして、彼の隣に寄り添う少女。
(なぜ……守っているのだ、人間を)
ドラゴンにとって、人間は捕食対象に過ぎない。だが、この“鬼”は違った。彼の魔力の揺らぎは、まるで深く静かに燃える焚き火のように、少女を包んでいた。
……不思議な感覚だった。恐怖と、同時に、胸を締めつけるような不安。
(雷の力を持つ者が、人間と絆を結んでいる……ならば、この世界はまた、変わるかもしれない)
彼は高空でひときわ強く翼を羽ばたかせ、遥か西方の山脈へと飛び去っていった。その先には、他のドラゴンたちの住処がある。中には人間を“家畜”とも“害獣”ともみなさず、“価値ある存在”と捉える者もいる。
(報せねばなるまい……雷の魔が蘇ったと)
雲海の向こう、雷の閃光がほんの一瞬だけ空を照らした。