第四章:影の観察者
森の奥深く、夜の帳が静かに降りる頃、一人の男が気配を殺して草陰に潜んでいた。
その名はイサリ。
縄文の民として北の村に生まれ育った彼は、引き締まった筋肉と俊敏さを備え、動物の皮で編まれた装束を身にまとっていた。肩には熊の毛皮がかけられ、腰には黒曜石で削られた短剣、背中には手作りの弓と矢筒。首からは獣骨を削った護符が揺れ、右耳には魚の骨でできた小さな飾りが差されていた。
この日、イサリは村の狩猟部隊の一員として、森で獣を追っていた。獲物を求めていた彼の鼻先に、ふいにかすかな煙の匂いが届いた。
「……焚き火?」
この辺りに人の気配はなかったはずだ。警戒しながら音を立てぬように森の影を進み、川辺へと忍び寄る。そして──
イサリは見た。
焚き火のほのかな明かりのもと、ふたりの姿があった。
一人は小さな少女。もう一人は……信じられない異形の存在。
真紅の肌に、燃え立つような瞳。二本の角が額から伸び、爪のように鋭い手足。何よりも圧倒的なのは、その体躯。三メートルはあるであろう巨体。
「……赤鬼……」
イサリは息を呑んだ。古の時代、雷を操り、怒りによって力を爆発させる破壊の化身──その伝説が目の前にあった。
物語の中の存在が、現実にいる。しかも少女と焚き火を囲み、魚を焼いているのだ。
信じがたい光景だったが、それ以上に彼の目を釘付けにしたのは、少女の腰に下げられていた装飾品だった。
それは鹿角と獣骨で作られた護符。村長の家系に代々受け継がれてきたものと同じ。
「……あれは……まさか……カヤ様?」
イサリは信じられない気持ちでその少女を凝視した。確かに、数日前にオークとゴブリンの襲撃で壊滅した村の村長には一人娘がいた。
その名は、カヤ。
生き残っていた……。そして赤鬼と共にいる──。
川辺での出来事を、イサリは一部始終見ていた。
悠也──赤鬼の名は知らぬが、明らかに彼は人間ではない存在。怒りが爆発した瞬間、彼の手から放たれた雷が川面を割き、水しぶきとともに魚が水中から跳ね上がった。
魚たちは光の閃光に打たれて痙攣し、数匹が水面に浮かび上がる。まるでイナズマが川に落ちたかのような光景だった。
「……雷の魔力……本物だったのか」
イサリは唾を飲み込んだ。その技は、もはや神の領域。
その後、悠也は川岸に倒れていた魚を拾い上げた。
魚はずんぐりとした体に斑模様が浮かび、口元には長いひげが二本生えていた。ウグイやナマズに似ているが、体表のうろこは厚く、ごつごつとしている。縄文時代の川に生息していた、力強い淡水魚の一種であろう。
魚を串に刺し、悠也は地面にしゃがみ込む。
火打石などは使わず、彼は右手をかざす。
次の瞬間、指先に細く青白い稲妻が走り、乾いた草と小枝にパチンと火が灯った。
焚き火は一気に燃え上がり、煙が静かに夜空へと昇っていく。
カヤはうっとりした表情で焚き火を見つめ、悠也に話しかける。内容は聞こえないが、笑みがこぼれていた。
少女の目には、恐怖ではなく、信頼が宿っていた。
その様子に、イサリの心は複雑に揺れた。
(まるで……父娘のようだ)
カヤは魚を食べ終えると、悠也の腕に身を寄せてうずくまり、そのまま目を閉じた。悠也も背を丸めるようにして、カヤを守るように体を横たえる。
イサリは弓にかけていた手を外し、矢筒の蓋をそっと閉じた。
「……朝になったら、話しかけよう」
焚き火の明かりが揺れ、夜風が森を吹き抜ける。
イサリはその場から動かず、一晩中見張りを続けた。
──かつての村長よ、どうか聞いてください。
──あなたの娘は、生きています。そして今、赤鬼に守られています。
森は静まりかえり、夜空には満月が滲んでいた。
イサリはその目を細め、静かに決意を固めた。
「……真実を、この目で確かめる」