第一章 転生の刻(とき)
都会の夜は、まるで止まることを知らない巨大な機械の歯車のように、絶え間なく動き続けていた。高層ビルの谷間から漏れ出る無数のネオンの光が、夜の街路を歩く人々の顔をぼんやりと照らし出す。佐藤悠也は、そんな雑踏の中を一人で歩いていた。独身のまま三十五歳を迎えようとしている彼は、広告代理店でコピーライターの仕事に没頭していた。毎日のように締め切りに追われ、疲労困憊しながらも言葉を紡ぎ続ける日々だった。
その夜も、彼は仕事を終え、疲れた足を引きずるようにして帰路についていた。スマートフォンの画面に映る自分の作ったキャッチコピーの一節を、ぼんやりと反芻していた。部屋まではもうすぐだ。ふと、背後から硬い衝撃が彼の身体を襲った。
「カツン——ッ!」
足元の石畳が激しく揺れ、悠也は反射的に振り返る暇もなく、全身を押し倒されるような衝撃を受けた。割れた車のブレーキ音、遠くで上がる悲鳴。世界は音を飲み込み、視界はあっという間に漆黒に染まった。
暗闇の中、悠也はゆっくりと意識を取り戻した。目を開けると、眩しいほどの自然光が木の葉の間から差し込み、優しい風が森の香りを運んでいた。鳥のさえずりが耳に届くが、そこは自分の知る街の喧騒とはまったく違う、別世界のようだった。
悠也は戸惑いながら、身体を見下ろした。そこにあったのは、かつての自分とはかけ離れた異形の姿だった。体は人間の何倍もの大きさに膨れ上がり、真っ赤に焼けた肌が全身を覆っている。滑らかなその表面は、太古の岩肌を思わせる力強さと堅牢さを秘めていた。腕や胸の筋肉は隆々と盛り上がり、まるで荒ぶる山の神のようだ。頭には二本の太く曲がった角が生え、深紅の瞳はどこか不思議な輝きを放っていた。
「これは……俺の身体か?」
胸を押さえると、重く力強い鼓動が手に伝わった。恐怖と混乱が交錯するなか、悠也は自分が変わり果てた姿であることを否応なしに受け入れざるを得なかった。
彼の記憶はまだ鮮明だった。広告代理店のオフィスの机、明滅するパソコンの画面、会議室で交わした声。そして、あの交通事故の瞬間――無数の光と音が一気に襲いかかり、自分の身体が無力に押し潰される感覚。
「死んだ……のか?」
衣服は消え失せ、身につけているのは獣の皮を粗末に縫い合わせたマントと、腰に巻かれた縄だけだった。手元のスマートフォンも財布も、すべては霧散したように消えていた。
周囲を見回すと、人の気配は皆無で、静寂の中に木々のざわめきと小川のせせらぎだけが響いていた。苔むした岩、幹に絡まる蔦、枝葉に宿る露の煌めき。悠也の心は圧倒されるほどに自然の雄大さと神秘に包まれた。
ゆっくりと歩みを進めていると、ふと地面に刻まれた奇妙な模様が目に飛び込んだ。幾何学的な線が掘られ、動物や人の姿が象られている。まるで古代の人々が残した記憶のかけらのようだった。
指で触れると、ひんやりとした石の冷たさが伝わる。悠也はその模様が縄文時代の土器や壁画に似ていることをかすかに知っていたが、今はただ混乱する頭の中でその意味を掴めずにいた。
さらに歩みを進めると、粗く砥がれた石の刃が土の上に落ちているのを見つけた。遠い昔、誰かが狩りに使ったであろうその石器を拾い上げ、悠也はその重みと冷たさを感じ取った。自分が時間の深淵に投げ込まれたのだということが、ぼんやりとだが実感として迫ってきた。
だが、まだ何も理解できていない。ここがいつの時代か、何が起こったのか。目の前にあるのはただ、静かな森と古の痕跡だけだった。
そのとき、鼻をつくような強烈な獣の匂いが風に乗って漂ってきた。悠也は無意識に身をひそめ、耳を澄ませた。木々の間からは大きな足音がゆっくりと近づいてくる。
地面を見ると、巨大な足跡がはっきりと刻まれていた。人間の足跡では決してない。太く、肉厚で、まるで岩を踏み砕くかのような力強さを感じさせるその痕跡は、まさに“獣”のものだった。
そして、木々の間から大きな影がゆっくりと姿を現した。
それはオーク──伝説の獣人であった。
悠也の身体は緊張で硬直し、全身の筋肉が震えた。鼻をつく体臭が彼の感覚を支配し、心拍数が高まる。