H-007 水路を下ってニックの家へ
朝日の眩しさで目が覚めた。
ブランケットを跳ね除けて体を起こすと大きく伸びをする。
改めて池の周囲に目を向ける。俺達が乗ってきたピックアップトラックの傍に数体のゾンビが動いている。その他には……、いないようだな。
女性達が起き上がり、朝食作りを始めた。
お湯を沸かせば良いだけだからなぁ。レトルト主体のレーションは温めなくても食べられると聞いたけど、温かい方が美味しいに違いない。
レーションを温め終えたところで、まだ寝ている2人を無理やり起こして朝食をとる。
「トランシーバーで交信ができたのか?」
「ダメだった。やはりテープで通信を繰り返しているだけみたいだな」
エディの問いに、皆の視線が俺に向く。
がっかりさせるような答えになってしまったけど、状況が状況だけに正直に答えた方が良いだろう。
「猶予時間は今夜の0時なんだけど、距離はどれぐらいなんだろう?」
「およそ15km。歩くぐらいの速度だから5時間は掛かりそうだ」
俺の問いに答えてくれたのはニックだった。ちょっと首を捻っていたから、頭の中で地図を広げていたんだろう。
5時間と聞いて、女性達が顔を見合わせる。
さすがにトイレを5時間我慢するのは出来ないだろうな。
「水上バスの乗船駅がいくつかあるよ。ずっと乗ってると疲れそうだしね」
ニックの言葉に女性達に笑みが浮かぶ。そんな気配りができるのはパットのしつけによるものだとエディといつも笑っていたんだけどね。
さて、そろそろ出掛けるか。
後片付けを終えて、ボートに乗りこむ。
スティックを使ってボートを押し出したところで、エディが船外機のエンジンを掛けた。
航跡を引いてボートが進む。水路に入ると流れに沿って進むことになるんだが、あまり速くなったとも思えないな。
普段でもあまり流れているとは思えない水路だからね。ゾンビの群れから距離を置いて進めるだけでもありがたいと思わないといけないだろう。
女性達は船の前に乗っているから、俺達3人が船尾でタバコを楽しんでも問題は無い。
咥えタバコで船外機を操るエディは俺とニックよりも年上に見えてしまう。やはり体格が良いからだろうな。
フットボール部から何度も誘いがあったらしいけど、本人はマーシャルアーツに凝っているからね。
そんなエディの進路希望はデルタフォースということだ。小父さんが、その一員だったらしい。エディの親父さんはロマンスグレーの銀行員だから、エディの希望は叶えられるのか微妙なところだ。
ニックの親父さんは元海兵隊だ。陸軍や海軍と仲が良くないと聞いているけど、どうもそれは仲間が集まればという言葉が上に付くようだ。個人的には案外気があうように思える。
「ニックも海兵隊を目指したらどうなんだ?」
「親父みたいになれっていうのか? 俺はなぁ……、自信がないよ。この頃はサミーを狙ってるぞ」
「早く帰化するんだな。何時でもできると思うんだが」
「父さん達と合わせるよ。俺だけってことは無理がありそうだ。父さん達はここで暮らすと言っているけど、仕事が忙しいらしくてねぇ……」
「それで延びてるのか? ニック、親父さんに良く言っといたほうが良いぞ」
俺の両親が来るたびに、ウイル小父さんから何度も言われているようだけどなぁ。
この騒ぎが終われば、父さん達の職場が直ぐに動き出すとも限らない。それがチャンスかもしれないな。
市の中心に近づくにつれ、水路際の通りをふら付いているゾンビの姿を目にするようになった。
進むにつれてだんだんと数が増していくから、女性達が不安そうな顔を俺達に向けてくる。
その度に、エディが笑みを浮かべて頷いているんだよなぁ。脳筋に思える時もあるけど、頼りになる友人だと改めてニックと顔を見合わせる。
ボートのエンジン音を聞いたのだろう、体をこちらに向けて手を伸ばしはするんだが、水路に飛び込もうとする者はいないようだ。
こんな裏通りのような場所にさえうろついているとなれば、中心部の大通りはとんでもない数になるんじゃないか?
まだ市内に残っている住民もいるだろうけど、これでは脱出するのさ難しく思えてくる。
そろそろ一休みしようかと考えていた時だった。
銃声が水路の上、遠くの方から聞こえてきた。
俺達が驚いたのは、銃声ではなくてその時のゾンビの反応だった。
のろのろと歩いていたゾンビ達が、一斉に銃声の聞こえてきた方向に顔を向ける。次の瞬間、それまでの倍の動きで銃声が聞こえてきた方向に向かって歩き出した。
「やはり音に敏感なんだな。銃は最後の手段になりそうだぞ」
「それよりも、あの動き……。さすがに走れば逃げられそうだけど、あれほど動けるんだ」
新たなゾンビの情報を得た感じだ。
見張っている時は、ホッケーのスティックを持っていこう。
銃声のおかげで、水路通りからゾンビがいなくなってしまった。今の内にと、近くの水上船の駅にボートを停めてトイレ休憩を取る。
駅は通りから下に位置しているから、ゾンビがやって来たとしても階段を下りる必要がある。ゾンビは階段を登れるというゲームと出来ないとゲームがあるんだが、現実はどうなんだろう?
やって来ても困るけど、新たな疑問だな。
俺達がトイレを出ると、パットがニックを呼んでいる。
首を傾げながら俺達も一緒にパットの元に行くと、腕を伸ばした先にいたのは今まさに階段を下りようとしているゾンビだった。
大急ぎでボートに乗り込み岸を離れて成り行きを見ていると……、盛大に階段を転げ落ちた。
「階段は得意ではないってことね」
「玄関先の2段ほどなら何とかなっても、長く続くと支障が出るってことかな? そうなると避難先は2階以上なら良さそうだ」
パットの呟きに、ニックが頷いている。
これからどうなるか分からないけど、俺達を攻撃する相手がいる以上、その敵の情報は多いほど良い。
バレナムの中心部近くまで進んでくると、水上バスの駅にまでゾンビが徘徊している。
階段落ちしても問題は無いってことなんだろう。ゾンビには怪我と言う概念が無いのかもしれない。
「この辺りが中心部なんでしょう? ゾンビも凄い数だわ」
「老人や子供のゾンビまでいるのね。逃げ遅れた人達が犠牲になったのかしら?」
ぽつりと漏らしたクリスの呟きに俺達は答えることができなかった。
多分そうだろうとは思っても、口に出すのはあまりにも可哀そうだ。
「ニックの家はかなり先なんだろう?」
「さっき通り過ぎた水上船駅が5番だから、後2つ先かな。親父の事だから周囲の確認はしていると思うんだけどね」
「なら、連絡もあるかもしれないぞ!」
トランシーバーの電源を入れると、いつも通りのモールス信号が聞こえて来る。
ちょっと聞いてると違和感を覚えた。……これって、手で打っているぞ。エレキ―を使ってはいるが、パソコンのソフトで作った信号ではないことは確かだ。
『今、何処……』それだけを繰り返している。
俺が送信した信号を受信したんだろうか?
今朝から何度か、『川下り中』と送信をしているから俺からの通信だと気が付いたのかもしれない。
大急ぎで電鍵を接続して送信を始める。
「どうした? 急に」
「返信だよ。『今、何処……』を繰り返してるんだ。5番を越えたところだったよな?」
「そうだよ。……そうか! ようやく連絡が取れたんだ」
エディ達が見守る中。『5番を過ぎた』と送信すると、直ぐに『3番で停止。連絡を待て』との返事が返ってきた。
3回繰り返して送信が停まった。トランシーバーの電源はこのまま入れておいた方が良さそうだな。
通信内容を皆に伝えると、一様に笑みが浮かぶ。
「向こうから来てくれるのかな?」
「案外周囲はゾンビばかり、という事態もあるんじゃないか?」
そんな冗談を言い合っていると、『4』と屋根に描かれた水上線駅が右手を通り過ぎて行った。
次はいよいよ3番になる。
市の中心街を離れたからだろうか、水路傍の通りをふら付くゾンビの数も減ってきたように思える。
「この辺りから住宅街だ。途端にゾンビの数が減ったぞ」
「昼間の住宅街って、あまり人はいないはずよ。あの事故で放送があったなら、とりあえずはどこかに避難したと思うんだけど」
「私達の区画の避難先は……、公園になるのかしら?」
「確かそうだったはず。そこから上手く避難できれば良いんだけど……」
パットのニックの話が聞こえてきた。あの公園には地下鉄の駅もあったはずだ。
たまに竜巻が襲って来る時があるらしいから、地下鉄駅がある公園を避難場所にしたんだろう。駅には緊急時に使用する資材を蓄えた倉庫もあるらしい。
「確認できそうもないな。無事を祈るしかない」
たまに現れるゾンビの姿は、どう見てもこの区画に住む住民のように見えてしまう。
家にいた住民もいるんだろうな。ニックのところだって、皆と一緒に避難していないんだからね。
「見えたわよ! あれが3番の駅だわ」
「了解。通信を入れるよ」
電顕を叩く。
『3番まで500』……、3度繰り返すと『迎えに行く』と返事が返ってきた。
「やはり迎えに来てくれるんだ。3番からだと、少し歩くことになるからね」
だんだん近づいてきた駅だけど……。さて、どこに停めるんだ?
エディがゆっくりと駅に近づく。水路に伸びた桟橋に横付けしたが、ロープで固定することはしないし、エンジンもアイドリング状態だ。
何時でも逃げ出せる。
さて、何時迎えに来てくれるだろうと考えていると、遠くの方で大きなベルが聞こえてきた。
あの音だと、目覚まし時計に違いない。だけど、あんな音を出したら近所迷惑以外の何物でもないだろうな。
ちょっとしたサプライズに俺達が顔を見合わせていると、通りからウイル小父さんがひょこりと姿を現した。
「よう、皆元気だったか? 周囲にゾンビはいないから、急いで上がってこい!」
女性達を先に下ろすと、荷物をどんどん桟橋に移していく。
パット達が荷物を通りに運んでいるんだけど、重そうな荷物を3つも一度にウイル小父さんが担いで行くんだよなぁ。
見ているだけで感心してしまう。
また使うかもしれないからと、エディがボートを桟橋に繋いだところで、俺達も階段を上って行った。
そこにあったのはジープみたいな車だった。
ジープを一回り大きくしたような車なんだけど、この車は嫌に車高が高い。座席に乗るためにステップを使う代物だ。
女性達が後部座席に収まると、俺達3人は小さな荷台に乗り込んだ。荷物の上に座る感じだけどそれほど長く乗ることもない筈だ。
「帰るぞ! ちゃんと掴まっとけよ!!」
3人で顔を見合わせ、直ぐに補強用の鉄パイプを掴む。
いきなりタイヤを鳴らしての発進だ。ごついタイヤを鳴らすんだから、アクセル全開ってことじゃないのか?
神にも祈るような心地で目を閉じて補強パイプを握り、ひたすら左右の揺れに耐えていると突然車が停まった。
まだ動いているな。目を開けると車庫に車が入っていくところだった。
車のエンジンが止まると、思わずため息が出る。
ウイル小父さんがスイング式のシャッターを閉じているのを見て、ゆっくりと荷台から降りた。
「6人だけだったか! まあ、無事でよかった。先ずは一杯だ。もっとお前達にはコーラだけどな!」
俺達の頭をガシガシと撫でるのは、ニックによると機嫌の良い証拠らしい。
メイ小母さんが俺達をハグし終えると、家の中へと案内してくれる。
ニックの家は少し変わっている。コンクリートの2階建ての家なんだけど、1階の外側には窓がない。外側に窓があるのは2階だけだ。防犯上きわめて有効な家だとウイル小父さんが父さんに自慢してたぐらいだからね。
その代わりなんだろうけど、10m四方はある中庭に面して大きな窓が作られている。
最初は驚いたけど、結構開放的な雰囲気を味わえるのは中庭があるからに違いない。
その中庭にテーブルを2つも集めて10脚以上の椅子を並べてある。
俺達が席に座ると、メイ小母さんがクッキーとグラスを持って現れた。その後ろからペットボトルとビールを半ダースほど持って現れたのは、1年ほどホームステイをしていて初めて見るお姉さんだった。
小父さんか小母さんの親戚の人かな?
「さぁ、遠慮はいらないわ。たくさんあるから足りなくなったら言ってちょうだいね」
グラスに次々とコーラを注いで、俺達の渡してくれた。
ウイル小父さんはお姉さんからビールを受け取ると、プシュ! と音を立てて上手そうに飲み始めた。
「父さん。そっちのお姉さんは親戚なの?」
「赤の他人だが、この状況だからなぁ。ここで保護しているんだ。市の病院で救急医療チームに所属していたらしいんだが、暴動に巻き込またところを保護した。国はテキサスということだから家族は安心だろう。騒ぎが治まるまでここにいて貰うつもりだ」
「オリビア・ハミルトンです。オリーと呼んでくださいね。ちょっとした怪我なら対応できますよ」
ウイルさんの人柄だからね。困っている人を見たなら手を差し出す人だ。
それにしても……、やはり暴動が起きたのか。ウイル小父さんのこの家は扉をしっかり閉めておけば被害に会うことも無いだろうけど……。
そうなると警察や軍はこの辺りでは機能していないってことになる。
ここで籠城するんだろうか?
「日本は大きな事故があっても暴動や略奪は起こらないんだが、ここは違う。文明人が一瞬で野生に戻ってしまうんだ。しかも銃規制が緩いからなぁ」
心配事が顔に出ていたんだろうか? ウイル小父さんが俺に顔を向けて話をしてくれた。
「それそれ、俺も不思議に思えるんだよなぁ。なんで暴動が起きないんだ? そもそも日本に暴動ってあるのか?」
「昔はあったらしいよ。でも今は起こらないだろうな。どちらかというと助け合うことに力を入れるんじゃないかな。農耕民族だからだろうね」
ニックの問いに対する俺の答えが理解できないのか、クリスが首を傾げている。
「ハハハ……。確かにそうなるだろうな。力を合わせねば収穫を得られない。米は麦よりも単位面積当たりの収穫量が遥かに高いが、その分手間もかかる。普段から集団としての訓練が出来てるわけだ」
ちょっと違うような気もするけど、それで納得してくれるならそれで十分だ。
「だが、ボートで来るとは思わなかったな」
「お爺さんのアウトドアショップから借りてきたんだ。ついでに武器も手に入れたんだけど、お爺さんはいなかったよ。スズキの四駆が無かったから無事に避難しているとは思うんだけどね」
「後で謝っておこう。その機転は中々だが、銃を手にしても使うことは無かったようだな」
ニックの説明を聞いて、俺達の略奪行為をあまり気にしていないようだ。
機転と言ってるぐらいだから、よくやった! と褒めてくれてるのかな?
「音に敏感という、ゲームの設定があったんだ。何体か倒したけど、ホッケーのスティックで頭を叩いたよ」
「銃を撃つと集まって来る。お前達を迎えに行った時も、少し離れた場所で目覚まし時計を鳴らしたんだぞ」
やはりという顔で、俺達が顔を見合わせる。
となると、せっかく手に入れた銃が無駄になってしまいかねないか。
「ところで、ずっとここにいるの? 父さん達の事だから食料はたっぷり用意していると思うけど?」
「さすがにここではなぁ……。何時、核をぶち込まれるか分かったものじゃない。核でなければ気化爆弾の絨毯爆撃だろうな。あまり長くいるべきでないことは確かだろう」
残ったビールを一気に飲みこんだウイル小父さんが地図をテーブルに広げる。
「少なくとも、デンバーやバレナムから100kmほど離れた方が良いだろう。軍の放送は聞いただろう?
このルートは身動きが出来ないほどに車が詰まっていることは間違いない。東に移動するのは危険があり過ぎる。
となれば、北か南ということになるんだが……、狙いはここだな」
ウイル小父さんが指で示した場所は、デンバーから西にあるグランビイという場所だった。デンバーとグランビイの間には標高3千mを軽く超えるロッキー山脈が南北に連なっている。
らしい。
「ここに、グランビイという人造湖がある。その岸辺に爺さんが残してくれた土地がある。狩と釣りには一番なんだが、爺さんはここで金を掘ろうとしたらしいな」
「直線距離は100kmほどだね。でも……」
「ああ、ロッキーを越えて行くからな。迂回しながら標高2000m地帯を進むことになる。600kmを越える旅になるぞ」
俺達が思わず顔を見合わせたのは仕方のないことだろう。
かなり遠回りする旅になる。途中にゾンビもいるだろうからなぁ。何日掛かるんだろうか?