H-002 俺達へのモールス信号
朝は7時に起床してキャンプの1日が始まる。
8時から食堂が開くから、それまでに身支度を整えなければならない。たった1時間の間に、着替えを終えた俺達をエディが校庭に連れて行く。軽く3周のランニングなんだが、何もキャンプに来てまですることは無いと思うんだよなぁ……。
シャワーを浴びて着替えると、8時5分前だ。俺達男はどうでも良いけど、女性は結構身支度に時間が掛かるんだぞ。
多分後で、クリスの制裁を受けるに違いない。
ナナはクリスの家にホームステイしている。おかげで俺達に振り回されているんだが、本人は結構気にいっているらしい。
ナナの本名は『土御門七海』。家紋は五方星だと教えてくれた。まさか、あの安倍氏? と思わず聞いてみたら頷いたんだよなぁ。それに京都の有名なお嬢さん学校から来たらしいから、俺とは異なる日本に育った日本人と言うことになるのだろう。日本に帰ったなら深窓で大人しく暮らすことになるのかな?
「午前中は、数学だろう? 午後は?」
「物理よ。と言っても、今日は実験らしいわ。実験を通して、何を見付けるかが課題らしいわよ」
「なら、ニックとナナに任せるからな。実験は俺が担当するよ」
一方的に役割分担を言い渡されたけど、これもいつもの事だ。
ニックと顔を見合わせて小さく頷いた。
「なら、私達はレポートを担当するわ。ナナもお願いね」
「分かりました。でも、どんな実験なんでしょうね?」
詰め込み学習とは異なる教え方なんだよなぁ。どちらかというと、俺達に考えさせることが多い気がする。
今までに学んだ物理現象を数式を使って、説明することになる。夕食後は開いている教室の1つに集まって、黒板を前にしての討論会になってしまうのはいつもの事だ。
たまに先生が教室にやって来て、俺達の報告書の課題を見付けてくれる。
先生といっても、大学の教授でもあるらしいからなぁ。質問があればきちんと答えてくれるし、その場で回答できないときは翌日に説明してくれる。
場合によっては、その分野を研究している博士まで足を延ばしてくれるらしい。
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キャンプ生活が5日ほど続くと、さすがに疲れが出てくる。
疲れというより、ゲームをしたりテレビを見たりしたくてたまらなくなってくる。
これはどんなキャンプでもそうなんだけど、さすがに勉強主体のキャンプとなるとねぇ……。
後2日の辛抱だと、ふと窓の外を見た時だった。
俺達が勉強している部屋は5階建ての建物の3階だ。
窓からはジュニアハイスクールを囲む塀越しに、町の光景が良く見える。
塀に隣接する通りを、西から速度を上げた車が次々と通過していく。
不思議と東から西に向かう車が無い。全て西からだ。
何かあったんだろうか?
そんな思いで、ますます外が気になった時だった。
追い越そうとした車が接触して横転する。
直ぐに煙が上がり、炎が車を包む。
「キャャー!!」
女性の1人が大声を上げて立ち上がる。窓を指差したから、皆が顔を向けると事故車に次々と車が衝突していった。
「警察と救急車だ! 早く連絡を!」
俺の声に、数人がスマホを取り出して連絡を始める。
「ダメ! 繋がらないわ」
「こっちもだ! どうやら回線が混雑しているみたいだな。何度もやった方が良いかもな」
この事故だからなぁ。町の人達も連絡しているに違いない。
その時だった。ふと違和感を感じる。
おかしいと思うのは俺だけなんだろうか?
「ニック……。日本ではあっちこっちから野次馬が出て来るんだが、アメリカではそんなことは起こらないのか?」
「……俺もおかしいと思ってたんだ。そうか! 人がいないんだ。いくら小さな町だって、誰も出てこないのは変だぞ」
廊下を走る足音が近づいてきた。
教室の扉がバタンと開き、顔を青くした先生が飛び込んできた。
「西の研究施設の1つで大きな事故が発生したらしい。有害なガスが発生したらしいから、窓を閉めて部屋でじっとしていてくれ。詳細が分かったなら連絡するが、今のところ通信ができない状態だ。直ぐに復旧するだろうから、それまでは部屋にいるんだぞ」
一方的にそれだけ告げると、再び廊下を走り去っていった。
「キャンプはこれで終わりだね。部屋に帰って荷造りをしておくか」
「そうだな。クリス達もその方が良いと思うぞ。荷造りが終わったところで、エディの部屋に集まろう」
机の上のテキストを仕舞うと、とりあえず部屋に向かう。
ニックの言う通り、とりあえず荷造りをしておくか。その前に、途中で飲み物を買い込んでおこう。
自動販売機でコーラと水を買い込むと部屋に戻る。
荷造りといっても、着替えにお菓子、それに筆記用具位のものだ。お菓子がだいぶ減ったから、来る前と比べるとリュックが小さく見える。
さて、エディの部屋に向かうか。
扉をノックすると、ニックが開けてくれた。どうやら扉をロックしていたらしい。
こんな状況下では、何が起きるか分からないからね。備えは必要だろう。
「サミーが最後だ。そんなに散らかしておいたのか?」
エディが笑いながら問いかけてきた。
「途中で飲み物を買っていたんだ。待機が長くなると問題だからね」
「それも、そうだな。ニック手伝ってくれ。買い込んでくるぞ!」
リュックから財布とナップザックを引っ張り出して2人が出て行った。残った女性達と洗面台から掃除用のバケツに水を汲んでおく。たとえバケツであっても、無いよりはマシだからね。
「どうなるんだろう?」
「そういえば、ラジオを持っているの。何か情報が分かるかもしれないわよ」
クリスが取り出したのは、小さいけれど選局範囲が広い代物だった。
アメリカは広いからなぁ。地方ごとに放送局を持っているし、州を跨ぐような大きな放送局もある。ダイヤルを回してこの市の放送局を選んでいるようだったけど、しきりに首を傾けている。
「やはりラジオもダメってことか!」
「大きな事故ってこと? 下手に伝えたら暴動がおこると思っているのかしら? そんな事をしたら余計に心配すると思うんだけど……」
「エディ達が帰ってきたら、もう1度やって見ようよ。たまたまってことも、あるんじゃないかな」
「見て! 緊急車両が向かって行くわ!」」
窓の外を見ていたナナが、俺達に振り返って大声を上げた。
窓にはカーテンを引いてあるけど、小さな隙間から外を見ていたようだ。
窓に近づき、そっと隙間から外を眺める。
あれは……。
「救急車にパトカー……。消防車まで続いているよ。先生の言うように、やはり大きな事故ってことなんだろうな」
対向車線を続々と西に向けて緊急車両が走っていく。空を見上げると西に向かうヘリコプターの群れまでが見えた。
多分マスコミのチャーターしたヘリコプターだろう。事故原因と今後の対応の放送は案外早く知らせてくれるんじゃないかな。
トントンと扉を叩く音がする。俺がそっと扉を開くとエディン達が素早く部屋に入ってきた。
ナップザックが膨らんでいるのは、かなり買い込んできたということになるんだろう。
「隣の自販機でパンも買って来た。ここで2日は籠城できるぞ!」
「裏門には警備員がいないから、学校を出て行く連中が見えたよ。さすがにこの季節に歩くのはなぁ。だけど、後に続く動きもあるようだ」
車が無いと俺達の住むパレナム市に帰るのは難しいだろうな。
西から避難してくる車に同乗させて貰うつもりなんだろうか?
とりあえず落ち着いて考えてみよう。床に腰を下ろして、コーラを飲むことにした。
カップを持参しているから、とりあえず500ccのペットボトル1つで足りる。もっともカップに半分だけどね。
「現在までに分かっていることを整理してみようか!」
俺の言葉に皆が頷く。
パットがメモを取り出したから、メモに書き込んで並べるみたいだな。
「先ずは今朝だ。俺達が起きた時には何も異変が無かった。これは大事なんじゃないか?」
「そうだな。授業が始まる前、特に何も感じなかったんじゃないか? 教室の入った時だって、外でクラクションの音がしたぐらいだからなぁ。いつもの朝という感じだ」
「それって、9時前ってことよね。教室から見えた事故が起こったのは11時20分ごろよ。時計を偶々見てたの」
「その前から東から速度を上げた車が何台も通り過ぎたんだ。そして西に向かう車が1台も無かった。それを考えると事故は11時前に思えるね」
「先生が飛び込んできたのは11時30分ごろ。ナナが救急車両を見たのは、12時30分ごろだったかしら?」
クリスの言葉にナナが頷く。
そうなると、事故は9時から11時の間になる。
待てよ、あの速度を上げた車は何処から来たんだろう? 時速100kmは軽く超えたいたように思える。
仮に時速120kmなら1分間に2kmということだ。ここから各ベンチャー企業の研究所や開発室があるのは、西に20kmほどのはずだ。
「もっと情報があるよ。俺が見た車だけど、かなりの速度を出していたんだ。仮に時速120kmだとすれば15分ほど前に研究所を出たことになる。直ぐに出たとは限らないだろうけどね。それから推測する時間は、30分ほど掛かってここに来たことになる」
「10時半から11時頃が一番怪しいってこと? そうそう、もう1つあったわね。エディ達が戻ってくる前にラジオ放送を確認しようとしたんだけど、どこも放送してなかったわ」
「今が13時10分だから、12時40分ごろの話になるな……。こうしてみると何もないようでも色々と情報ってあるもんだな。そうなると次は何が起こるんだろう?」
「俺の推測だけど、聞いてくれるか?」
皆が俺に顔を向けて頷いてくれた。ジッとしていても退屈だろうからなんだろうけどね。
「この市の東で何か大きな事故があったのは間違いないだろう。かなりの数の救急車両が西に向かったし、空にはヘリコプターの群れまで見えたよ。
西の研究施設へ向かう通りは、ここだけではないはずだ。他のルートも救急車両が向かってるんじゃないかな」
「ああ、そうなるだろうな。となると……」
「次に通りを西に向かうのは軍隊に違いない」
「バレナム市の救急部隊では処理しきれないってことか?」
エディの言葉に、小さく頷いた。
「大きな事故。ガスが漏れだした……。そして西から避難してくる車の数とその速度。大規模に拡散してるってことじゃないのか?」
「ちょっと待てよ。クリスが西に煙は見えないって言ってたんだよなぁ。案外有毒ガスが漏れたとは限らないんじゃないか?」
エディの言葉に、皆の視線が向く。
ちょっと、頭を掻いて誤魔化しているエディだけど、確かにそれもそうだよなぁ。
「まさか……、バイオハザード?」
ニックが大きな目を見開いて口にしたんだが、慌ててその口を両手で隠している。
「あり得る話じゃないか。西には先端産業の研究所が乱立しているんだからね。新薬の研究には病原体が欠かせないはずだ」
ゲームでもそんな設定だったけど、リアルでも同じことが起こるってことか。だけど危険な病原体を使う場合は絶対に外に病原体が出ないような施設内で行うんじゃなかったのか?
「現在考えられるのは、毒ガスと病原体の2つってことかしら? でも病原体が人間に入っても直ぐに病気にはならないんじゃないの? 黒死病でさえ潜伏期間はあったはずよ」
研究者や施設の職員が慌てて逃げ出しているからなぁ。
事故の脅威がはっきりと分かるということになるんだろう。そうなるとやはり病原体の流出よりも毒ガスってことになりそうだ。
「サミーの言う通りだわ。通りを軍隊の戦車が走っていく」
カーテンの隙間から外を見ていたクリスが教えてくれた。
エディが隣に駆け寄って外を眺めている。
軍隊の装備に詳しいから、クリスより貴重な情報が得られるに違いない。
しばらく眺めていたエディが、クリスと共に帰ってくると俺達の輪に加わった。
「戦車じゃなくて装甲兵員輸送車だな。少なくとも20両以上だ。その後に兵員輸送トラックと救急車両が続いていた。まだやってくるようだから、中隊規模を越えているぞ。それにだ。装甲兵員輸送車のキューポラから身を乗り出していた兵士はガスマスクを装着していた」
直ぐにニックが立ち上がり、窓がきちんと閉まっていることを確認している。
ここから30kmも先の話だけど、やはり確認は必要だろう。
とはいえ迅速な軍の派遣を考えると、事態はかなり深刻にも思える。
「ガスなら拡散するはずだ。該当区画と範囲を特定して、近付かないように住民に知らせれば良いってことかな?」
「でもラジオでは何も放送してないのよ。どの局も放送を停めてるみたい」
「軍も絡んでいるってことか……。だけど、終息までに時間が掛かれば、住民の不満が高まるぞ。早めに対処しないと大統領の責任になってしまいかねない」
窓は締めてあるし、扉もロックした。
後は救出を待つだけになるんだが……。
「ラジオを聞きましょうか。そろそろ復旧してるんじゃないかしら」
クリスが再びラジオの電源を入れてみたが、やはり何も起こらない。
スマホを取り出して、親父とお袋に連絡を取ったけど繋がることは無かった。とりあえずはメールを出しておこう。その内に届くだろう。
「家族との連絡は就かないわね。ネットもダメみたい」
「ラインもダメだ。こうなると放送局だけでなく通信局も業務を一時停止していると見た方が良いかもしれないな」
ふとラジオから聞きなれた音が聞こえてきた。
クリスからラジオを借りると、周波数合わせる。
思った通りモールス信号だ。そしてこの周波数はウイル小父さんが教えてくれた周波数そのものだ。
「ニック。お前の親父さんからの通信だ。俺が聞きとるから、メモにしてくれ……」
『その場を2日動くな。病原体の保菌者が東に移動している。絶対に嚙まれるんじゃないぞ。奴らはゾンビそのものだ……』
誰もがジッとメモを見ている。
信じられないだろうな。俺だってそうだからね。
「本当に、その伝言になるんだな?」
「ああ、間違いない。繰り返しているからテープか何かで送っているんだろう。ニックの家には立派な無線機があったからね」
「誰も気が付かないのかしら?」
「気が付いても解読できる者は限られているよ。軍の兵士だって、今時こんな通信方法は習わないんじゃないかな」
見つかっても良いように、別の場所から送っているのかもしれない。それに誰が誰宛てに通信しているのか分かる者はいないはずだ。この周波数を使うのがニックの親父さんだと知っているのは俺ぐらいなんじゃないか?
「ゾンビって、あのゾンビ?」
ナナが俺に問いかけてくる。
青い顔をしているけど、ちょっとショックが多すぎたかな。
「たぶんそのゾンビで間違いないだろう。既に死んでいるけど動き出す。噛まれて死んだらゾンビになる。バイオハザードそしてパンデミックの始まりだ」
「それってゲームと同じだよな。ゾンビを倒す方法も同じで良いってことか? まさか核爆弾は使わないと思うんだが……」
「最終手段では使うかもしれないよ。大統領は合衆国の国民を守る義務があるからね。町1で、残りの国民が助かるならサインをするんじゃないかな」
ニックの問いにエディが呟くように答えてくれた。たぶんそうなるのかもしれないな。最終的には移動することになりそうだが、とりあえずはここで状況を見守っていた方が良さそうだ。
少なくとも食料と水はあるからね。指示通りに2日は動かずにジッとしていよう。
※※※ 注記 ※※※
バレナム市 (想定都市)
人口5万人の先進技術の学術都市。世界に名の知れた会社が先端技術の研究を行っている。デンバーから20kmほど北西部にある。
国内線空港が1つ。鉄道駅が1つ。国道が東西南北に十字に交わっている。
日本より緯度が高く、ロッキー山脈の東の丘陵地帯に位置していることから、冬はかなり冷える。
ゾンビ
脳内にメデューサと呼ばれる生命体が寄生することで死んだ人間が動き出す。
噛まれることで、メデューサの幼生体が血管を通して脳に至り、脳内で増殖して行く。増殖過程で神経組織及び筋肉組織を自らの組織に置き換えていくことで寄生された体を動かせるようになる。
脳内での増殖過程は最大でも2日程度。増殖が始まった段階で人間は死んでしまうが、脳内にメデューサが新たなニューロン組織に似た群体組織を作り、神経組織、筋肉組織をまでもメデューサ組織に寄って置換されて動くことが可能になる。
人間の感覚器官への浸食により五官を得ることができてはいるのだが、本来がクラゲであることから、触覚、聴覚については鋭敏化している。反面、視覚については劣化し20m先がどうにか見える程度。味覚と嗅覚については確認されていない。
本体組織を破壊されると、再生することは出来ないので活動を停止してしまう。
メデューサ
不老不死の研究の一環として、クラゲに粘菌と人間のガン細胞の遺伝子を組み込んだ人工生命体。水槽内ではクラゲの形態をとっていたが、突然変異を起こして増殖をはじめ水槽を破壊し研究者達をゾンビ化した。
人間の脳内に自らの神経組織を膜で覆って作りあげるが、頭蓋骨一杯にまで増殖すると、それ以上の増殖を行わなくなる。膜が損傷すると、神経組織を作っていた群体が流れ出て自己破壊を起こしてしまう。
頭蓋骨を破壊すると、ゾンビの活動が停まるのはこれが原因。
メデューサに知能は無い。生存本能のままに生物を取り込み、幼生を生み出していく。