H-001 長い夏休みの終わり
ザザァ――……、ザザァ――……
砂浜に腰を下ろし、押し寄せる波の音を聞くと心が休まる。
乾いた砂まで押し寄せてきた波は泡立ち、シューっと音を立てて砂に吸い込まれていく。
夜になると窓の外に広がる松林の奥から、遠雷にも似た低い潮騒の音が聞こえてくる。
単調だけど、何時までも続く音色。
俺をやさしく眠りに誘ってくれる海辺の故郷。
それは俺の原風景に違いない。
寄せては返す並みのように、夜が明ければ日はまた昇る。
故郷を離れて既に1年が経過した。
ここは日本ではなくアメリカだ。父親と母親がこちらの研究所に転職したのは、日本では将来性が無いと言われている職についていたためらしい。
就職したての頃はバラ色の前途が開かれていたらしいけど、関連する会社の施設で大きな事故あり、住民避難が行われたらしい。それも1つの町ではないということだからなぁ。
数年近くマスコミがネガティブキャンペーンを繰り返したらしいから、たちまち斜陽産業になり果てたと零していた。
「日本人は、世間体を大事にするんだ。出る杭は打たれるからね。日本人の経営する企業は成功者がたくさんいるんだぞ。その理由は、失敗した連中が会社を去るからなんだ……。
父さん達は海の向こうからのヘッドハンティングに乗ることにした。未だに事故の後始末をしているようでは、父さん達が生きた証を残すことも出来ないからな」
「私達は研究所に寝泊まりすることになるかもしれないから、正光は父さんの友人宅にホームステイして貰いたいんだけど……」
「俺がお邪魔しても大丈夫なの?」
夕食後にリビングでテレビを見ている時だった。突然の話に驚いてしまったけど、俺がアメリカの一般家庭で暮らせるとも思えないんだよなぁ。
「それは問題ない。良い奴だよ。母さんが若い頃にホームステイしていたところの娘さん夫婦だからね。彼らが日本で暮らしてた頃に何度か会ったことがあるし、俺達の渡米を聞いて、向こうからホームステイを言ってきたぐらいだからなぁ」
詳しく話を聞いてみると、旦那さんは元海兵隊員だったらしい。奥さんは市の病院で事務をしているらしいけど、旦那さんと一緒で元海兵隊ということだ。
日本の米軍基地で暮らしたこともあるから、ある程度は日本語が通じるというのもありがたいとは思うんだけど……。
「場合によっては帰化することになるかもしれん。お前もしっかりと勉強してくれよ」
父さん達にとっては仕事が第一優先ということなんだろうな。それほど情熱を燃やせる仕事を得たことは喜ばしく思えるけど、息子にとっては悲劇かもしれない。
でも考えようによっては、悲観することもないんじゃないかな?
俺も、将来の職業をそろそろ考える歳になってきたからね。
人付き合いが下手な俺には接客業務は無理だろうし、小さい頃は体が弱かったからなぁ。少しは体を鍛えようと道場通いはいまだに続けている。師範代には十分と言われているが、先生にはまだまだ未熟と言われているんだよね。どっちなんだと言いたくなってしまう。
そんな俺に出来る範囲で、なおかつ俺の興味を引く職種はエンジニアということになる。それも航空産業でだ。
日本ならば、せいぜい整備工になってしまいそうだけど、アメリカなら新型機の試作辺りに入り込めないとも限らないだろう。場合によっては宇宙船にも関われる可能性もある。
「うん。大丈夫だよ。俺も、向こうでやりたいことがあるからね!」
この日の決断が、俺の運命を大きく変えることになろうとはねぇ……。
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アメリカに移住して既に1年が経過した。
ホームステイ先には、俺と同じ歳のニコル(愛称:ニック)と言う名の男の子がいたし、しかも編入先のクラスに在籍していた。
言葉に半年ほど苦労したけど、今ではどうにか話せるようになった。とはいえ、たまにホームステイ先のウイリアムさん(愛称:ウイル小父さん)が話す、アメリカンジョークはニックの解説で初めて意味が分かるぐらいだからなぁ。
「サミー(俺の愛称だ。本名は雑賀 正光なんだが、苗字も名前も言いにくいらしい。苗字と名前をくっ付けて略したってことかな?)、がアメリカを理解するにはまだまだ時間が掛かりそうだなぁ」
ニックの解説を聞いて初めて笑い声をあげる俺を見て、ウイル小父さんが大笑いをするのはいつもの事だ。
そんな俺達を何時も微笑んで見ている美人な奥さんは、メアリー(愛称:メイ小母さん)さんだ。
若い時分はさぞかし持てたんだろうなぁ。良くもウイル小父さんが射止められたと思って感心してしまう。
とはいえ、ウイル小父さんの渋い顔は、いつでも映画に出られる感じもするし、何といっても見事な逆三角形をいまだに保っている。腕の太さが俺の腿はありそうだ。
元は海兵隊の軍曹だと言っていたから、それだけの体力が必要だったに違いない。
近くの自動車修理工場に勤めているんだけど、ジャッキを使わずにタイヤ交換ができるらしい。
2人の子供であるニックは、父親に似ず頭脳派らしい。結構難しい数学を簡単に解くんだよなぁ。それでも父親の影響なのか、15歳から友人とマーシャルアーツの道場に通ってるとの事だ。
たまに俺の両親が訪ねて来るんだけど、次の日には帰ってしまう。
重要な案件に関わっているのだろうが、せっかくアメリカに来たんだからねぇ。本場のディズニーランドに連れて行こうなんて考えは無いんだろうか?
「まぁ。あいつは昔から忙しい奴だったからなぁ。子供がサミーだけなのはそのせいだろう。とはいえ、ここはアメリカだ。自由の国であり、個人の自由も尊重される。決して育児放棄をしているわけではない。俺にしっかりと監督を頼んでいたし、必要ないと言っても養育費を渡してくる奴だ。しっかりと貯金してあるから大学に入る時に渡してやるぞ。狙いは何処だ?」
そんな事を聞くから、ニックまでが聞き耳を立ててるんだよなぁ。
テーブルの上で指を叩く。
その音を聞いて、ウイル小父さんが身を乗り出して俺の肩を叩いた。
「そうだ! それで良い。国籍はミーの両親ならどうにでもなるはずだ。親父が反対したなら俺が納得させてやるからな!」
何時にない迫力で俺に迫って来る。
工科大学を出て、海兵隊とモールス信号を送っただけなんだけどなぁ。
海兵隊の新型兵器辺りの開発に従事出来たらありがたいところなんだけど、ウイル小父さんは実戦部隊と勘違いしているみたいだ。
「全く、テーブルを指で叩いて、よくも意思を伝えられるよ」
「一番簡単な通信だ。お前にも教えたんだが、まったく覚えられなかったからなぁ。困った奴だ」
これはアマチュア無線の資格を取っていたからできることなんだけどね。声で話すよりも電波の強弱信号で通信を送る方が遠くまで届く。やはり興味を引くことは何でも覚えられるものだ。
「明日から、キャンプなんでしょう? 荷造りは終わってるんでしょうけど、今夜は早く眠るのよ」
メイ小母さんの言葉に、俺とニックが頷いてリビングを後にする。
それにしてもアメリカの夏休みがこんなに長いとは思わなかったな。ほとんど3カ月じゃないか!
いくつかのサマーキャンプにニックと共に参加することになったのだが、明日はその最後のキャンプだ。キャンプが終われば9月になる。高校生活最後の学年だ。
俺の部屋は、ニックの2番目の姉が棲んでいた部屋らしい。
最初入った時には壁紙が少女趣味の花柄で驚いたけど、慣れれば気にはならない。さすがに寝具は青色だった。
部屋の片隅のリュックにキャンプの荷物は詰めこんであるし、着替えも既に出してある。
窓から涼しい風が吹いて来る。標高が1000mを越えているらしいから、昼は日差しがやたらと暑いが、朝晩は結構涼しいんだよなぁ。
これで潮騒が聞こえたなら良いんだが、ここは内陸そのものだ。街路樹の葉擦れの音がザワザワと聞こえるだけだ……。
翌日。朝食を食べると、ニックと一緒にリュックを担いで通りに出た。
通りで車を待っていると、隣の家から女の子が出てくる。同じように大きなリュックを担いでいたんだが、直ぐにニックが走って行ってリュックを受け取っている。
さすがにアメリカだなぁと感心してしまう。
女性には親切にと言うのかな? もっとも隣のサムエル家の二女であるパトリシア(愛称:パット)はニックのガールフレンドだ。
幼馴染みも良いところだけど、2人の仲は良好だし、互いの両親達も将来は……と望んでいるようだ。
「おはよう、サミー。釣りは得意なんですって?」
「ニックに聞いたのかい? 得意と言うほどじゃないけど、ニックより3匹多かったよ」
「ニックも頑張りなさいね。あんなに得意げにビデオを見せてくれたんだから」
どうやら前回のキャンプのビデオを見せてあげたらしい。
海で1週間は暮らしたからなぁ。帰ってきた時には2人とも日焼けで酷かったんだよね。
「今度は、学校だろう? 寄宿舎で寝泊まりするのもキャンプなのかな?」
ニックが文句を言っていると、左手から車がやって来た。
後ろの窓から手を振っているのは、エイドリアン(愛称:エディ)に違いない。
俺達の前で車が止まると、運転していたエディのお父さんが窓を開けて話し掛けてくる。
「待たせたかな? 土曜なんだから朝から混まなくとも良いと思うんだがなぁ。乗ってくれ。少なくともミーティングには十分に間に合うだろう」
先にパットとニックが乗り込んだところで、俺がリュックを2人荷渡す。最後に俺が乗り込むと、車が走りだした。
「おはよう! 朝から暑いんだよなぁ。短パンの方が良かったかな」
「教室に入るまでの辛抱さ。数学と物理を徹底的に叩き込んでくれるらしいぞ!」
「それな……。俺が知らない内に、母さんが申し込んだんだ。世界は数学で出来ているようには思えないんだけどなぁ」
「2週間、ちゃんと復習したでしょう? その成果を2人荷見せてあげなさい!」
きつい言葉で励ましているのは、クリスティン(愛称:クリス)だ。さすがはボーイフレンドのエディの面倒を見ていると感心してしまう。
「覚える公式がたくさんあって、目をつぶると目の前で公式が踊るんだ。もう少し、やさしく教えてくれるとありがたいんだけど……」
「エディの場合は、叩き込むしかないの! ニック達ならそこまでしなくても良さそうだけどね」
そういってパットに笑いかけているけど、ニックの場合は逆にパットに教えているんだよね。
「でも、数学がこんなに進んでいるとは思わなかったよ。日本では習わない公式まで予習内容に合ったからね」
「まあ、この辺りは進んでいるんだろうな。アメリカは広いからね。中には2学年ほど遅れた教科書を使っている高校もあるらしいよ」
未だにアメリカという国が理解できないのは、これなんだよなぁ。国の政策なら一貫していても良さそうなんだけど、州毎の自主性を必要以上に認めている。県毎に学習内容が異なるなんてことは日本ではないからねぇ。
「ナナの場合は、サミーが付いてるだろう? 同じ日本人なんだからねぇ」
ナナと呼ばれた女性は日本からやって来た留学生だ。本名は土御門 七海という珍しい苗字の持ち主だ。このまま留学を続けて大学もこの国で済ませるらしい。将来は父親が経営する貿易会社に勤めると言っていたけど、どう見てもお嬢さんそのものなんだよなぁ。
住宅街を過ぎて繁華街を横切った車は、一路西へと向かう。
俺達が通うハイスクールではなく、郊外の小さな町に在るジュニアハイスクールが目的地だ。
周辺に商店もあるらしいけど、キャンプ中は門を閉ざすらしい。
そんなんだから、たっぷりとお菓子は買い込んである。
前方に塀で仕切った一角が見えてきた。
どうやら到着のようだ。
正門警備所に止まると、警備所から出てきた警備員にエディのお父さんが話しかけている。
どうやら、どこの建屋で俺達を下ろしたら良いのか確認しているようだ。
警備員が腕を伸ばす先を見ながら話を聞いていた小父さんが警備員に礼を言って、再び車を走らせる。
大きな4階建ての建物の前で車が止まった。
エントランスには俺達と似たような連中がいるから、ここで間違いは無さそうだな。
「さて付いたぞ。エディ、少しは理解して帰ってくるんだぞ!」
「だいじょうぶだよ。今までだって上手くやって来たんだからね。これからも同じだし、友人にも恵まれているんだから」
そんなエディの言葉に、俺達が顔を見合わせてしまったのはしょうがないことだろう。
まったく他力本願なんだからなぁ。とは言っても、それは数学だけの事だ。他の教科には問題は無いし、歴史は俺が教えて貰っているぐらいだ。
それに、エディは脳筋なところがあるからねぇ。でも間違ったことはしないし、クラスメートにからかわれる俺を何時も庇ってくれるのはエディだった。