VS.幽霊
「勇敢なる戦の女神、ヴァルキリー様。魔王フェンリルから逃れるためにどうかその慈悲の力を、女神様の偉大な力をもってして異世界から勇者を召還してください」
「お願いします、お願いします……」
人魚の歌声で少しだけ、いや、かなりやる気を取り戻した私は久々にきちんとした祈りの言葉を口にする。隣にいるカミラもそれに追従するがごとく、見よう見まねで一生懸命にお祈りをしていた。
カミラは、吸血鬼として強大な力を持っているらしいが日が落ちてからでないとその力は発揮できないという。なので今みたいに、日光を完全にシャットアウトする格好で過ごしていればただの泣き虫な美少女にしか見えない。だけど彼女がたまに口にする過去——お姉ちゃんがいたらしいことや人間に虐げられていたらしい話を聞けばおそらく辛い経験をしてきたのだろう、と思う。
もし魔王フェンリルのことが解決して世界が平和になったら、カミラはどうするつもりなんだろう。できれば、このまま神殿で一緒に暮らせるといいのにな。そんなことを考える私の前に、立派な鎧を身に纏った美しい女神・ヴァルキリー様が現れる。
「聖女ヒルダ、そして吸血鬼カミラ。2人の願いは聞き入れました。すぐに、勇者召喚の儀を行います」
……心なしか、ヴァルキリー様の機嫌が良さそうに見える。やっぱり、神としてしっかりしたお祈りを捧げられるのは嬉しいことなのかな? じゃなかったら、ヴァルキリー様も人魚の歌声で元気になったのか。色々考える私の思考を吹き飛ばすように神殿の床が光り、今日もまた異世界からの来訪者が現れる。
「憎い……憎い……殺してやる……」
異常なまでに白い肌。虚ろな瞳に、おぼつかない足取り。あぁ、こういうの前にも見たな。頭のどこか冷静な部分がそう判断するが、怖いものは怖い。だって——その手には鮮血の滴る剣と、本来なら首の上にあるはずの頭が抱えられているのだから。
神殿中に響き渡る悲鳴を上げる私を、カミラが静かに窘める。
「ちょっとヒルダ、落ち着きなさいよ。こいつ、幽霊よ。しかも死んでからまだ日が浅い下級幽霊。ほら、足がないじゃない」
いや、そういう問題じゃなくない!?
そう言いたくなる私の声を、現れた男の雄叫びがかき消す。その剣を振りかざし、カミラに斬りかかろうとしたのだ。危ない! と思った私は飛び出ようとするが――
男の剣はカミラの体をすり抜け、そのまま空を切った。
「まだ悪霊にもなってない、普通の幽霊が生者を傷つけることなんてできやしないわ。まぁ、私なら悪霊でもなんとかできると思うけど……とにかく、死んでるだけの人間が生きてる人間にできることなんてたかが知れてるんだから。そんなに怖がらなくていいじゃない」
けろりとした表情のカミラに、私は呆然とする。
いや、確かに今まで現れた変態とか殺し屋みたいな生きてる人間やゾンビやエイリアンみたいな化け物よりマシかもしれないけど……まぁ、カミラは吸血鬼なんだし、そういう死者や霊魂の類に対して恐怖心なんて持っていないのかもしれない。
じゃあ女神は? と思ってヴァルキリー様の方を見れば何やら幽霊の男を労わるようにうんうんと頷いている。よく見てみれば、体とお別れした男の頭は酔っぱらったようにおいおいと泣いているようだ。怖いのを我慢し、その声にそっと聞き耳を立ててみれば幽霊の男はヴァルキリー様に向かってしきりに嘆いている。
「うぅっ……俺はただ革命が起きた時に貴族だったってだけでギロチンにかけられて……せめて死んでから少しぐらい恨みを晴らそうと思ったのに、あんな小娘に『下級』呼ばわりされるなんて……チキショー! 神のバカヤロー! 俺が何したってんだ!」
「ちょっと、『小娘』って何よ! 私は立派な吸血鬼よ!」
そう言ってカミラが幽霊に殴りかかろうとするが、ヴァルキリー様はそれを素早く止める。幽霊がカミラを傷つけることはできないが、カミラは幽霊を攻撃することができるようだ。離してよヴァルキリー様! と暴れるカミラを前に、幽霊は腰を抜かしてぺたんと尻餅をついた。と同時に私の方にゴロゴロと首が転がってきて……ちょうど私の足元で、幽霊の首がぴたりと止まる。
「あ」「あ」
私と幽霊の声が、ぴったりと重なりあった。と同時に私は自分がずっと聖女専用の空色のワンピースを着ていること、そして足元から覗き込まれたらその中が見えてしまうことに気がつき――
「っ嫌あああああっ!」
咄嗟に悲鳴を上げ、私は右足で思いきり幽霊の頭を蹴り上げる。私は特に体を鍛えているわけではないが、幽霊の頭はそれはもう綺麗に吹っ飛びそのまま神殿の壁に向かって一直線。べちゃっ、と嫌な音がしたかと思うとそのまま、床へとずり落ちていく。ほったらかしになっていた体もダメージを受けたのか、力尽きたようにがくんと倒れピクリとも動かなくなってしまった。
「……えっ?」
「あっ……」
「……」
私とカミラ、それからヴァルキリー様はそれぞれ黙りこくる。「どうしよう」、その一言で表される沈黙は神殿の中で重く圧し掛かり、私たち三人は倒れたままの幽霊を前にしばらく固まっていた。
……ちょっと待って。今の、ちょっとヤバかったかな。でも相手は幽霊だし、死ぬことはないよね? あれ、でもなんで動かなくなっちゃったのかな。私、ひょっとして非常にまずいことをした? 大丈夫だよね? 幽霊はもう死んでるんだから、また死んでるなんてことないよね? あの、カミラもヴァルキリー様もなんで黙ってるの? えっ、私、どうすれば……
……どうしていいかわからず、戸惑う私たちの沈黙を破るように神殿の床が光って幽霊の姿が消える。きっといつものように、元いた世界へと帰されたのだろう。ヴァルキリー様もその場から逃げ出すように姿を消し、私はカミラは2人で顔を見合わせた。
「……い、今のは正当防衛よ。幽霊にキックが効くとか思ってなかったし。私、悪いことしてないよね? 大丈夫だよね?」
念を押すようにカミラへそう尋ねるが、カミラは気まずそうに目を逸らす。
「うん、まぁ死んでる以上もう一度死ぬことはないし、仕方ないと思うよ……」
口ではそう言ってくれるカミラだけど、その表情はどこか居心地が悪そうで――こういう時さっさと逃げることのできるヴァルキリー様を、私は少し恨めしく思うのだった。