ダンスレッスン
気分が沈み、ご飯を食べる気にもなれなかった私は屋上で時間を潰し、二階のレッスン室に来ていた。
五限目はダンスの授業なので、みんな学校から支給された正装に身を包んでいる。
家具がほとんど置かれていない室内に学校のチャイムが鳴り響く中、講師の先生が現れた。
四十代後半と思しき女性の先生を前に、クラスメイトが一斉に『ごきげんよう、マダム』と挨拶する。
教壇の上にピンッと背筋を伸ばして佇むマダムは私達の言葉に一つ頷き、口を開いた。
「本日の授業は事前にお知らせした通り、明日の新入生歓迎パーティーに向けた練習になります。恐らく、ほとんどの方々が社交ダンスを踊れると思うので自習という形を取らせて頂きます。新入生歓迎パーティーで使う曲を常時流しておきますので、実際に踊ってみるといいでしょう」
『新入生歓迎パーティー』という言葉に、クラスメイトは沸き立つ。
我々新入生にとって、新入生歓迎パーティーは入学式の次に大きなイベントなので興奮を隠し切れないのだろう。
パーティーの参加者はほぼ全員一年生だけど、人脈を広げるまたとないチャンスだものね。基本的に無礼講だから、大貴族のご子息やご息女にも気軽に話し掛けられる。口うるさい大人が居ない分、気が楽だった。
まあ、学園生活で最悪のスタートを切った私からすれば、憂鬱な行事でしかないけれど……。
「ダンス経験がない方や自信のない方には個別でレッスンを付けますので、遠慮なく仰ってください。明日のパーティーで披露する社交ダンスは比較的簡単なものなので、直ぐに覚えられるでしょう」
ダンス経験のない平民のことも考え、マダムはそう言葉を付け足す。
『質問はないか?』と問う先生の視線に、誰もが首を振ると、彼女は教卓の上にあるレコードに手を伸ばした。
「それでは、各自練習を始めてください」
「「「はい、マダム」」」
優雅にお辞儀して応じたクラスメイト達を尻目に、マダムはレコード盤の上に針をセットした。
聞き覚えのある音楽が流れ、クラスメイトは散り散りになっていく。
あちこちでパートナーが誕生する中、一部の生徒はマダムに駆け寄り、教えを乞うていた。
陽気な音楽と賑やかな話し声で教室が満たされていく。
その様子を静かに眺める私は一人虚しく、壁の花と化していた。
ダンスに誘われないのはいつもの事だけど、こうもあからさまに避けられると気分が悪いわね。
話し掛けられるどころか、近寄りもしない。完全に腫れ物扱いだわ。
まあ、予想はしていたけど……。
教室の中央で軽やかなステップを踏むクラスメイトを眺めながら、人知れず溜め息を零した。
これから先ずっとこの扱いが続くのかと思うと気が滅入る。
姉のおかげで侮辱や屈辱には慣れているが、孤独には耐えられなかった。
メイヤーズ子爵家には私を気遣ってくれる侍女や元気づけてくれる従者が居たから、寂しいとは思わなかった。でも、大切に囲われた箱庭から出た瞬間、一気に心細くなる。
自分がこんなに寂しがり屋だったなんて、知らなかった。
ギュッと胸元を握り締め、目を伏せる私は一人ぼっちの現状を嘆く。
使用人達の顔を思い出しながら、必死に寂しさを紛らわせていると────不意に見覚えのない黒い靴が視界に入った。
「────シャーロット嬢、俺と一曲踊ってくれないか?」
聞き覚えのあるバリトンボイスにハッとし、慌てて顔を上げれば────黒髪の美青年が目に入った。
右手を腰に回し、左手を差し出す彼はラピスラズリの瞳に私を映し出す。
息が止まりそうなほど美しい彼は間違いなく、グレイソン・リー・ソレーユ王子殿下だった。
な、なっ……!?どうして、グレイソン殿下がここに……!?って、同じクラスだから当然なんだけど!!でも、そうじゃなくて……!!何で彼が私をダンスに誘っているの……!?
これは夢!?孤独に耐えかねて作り出した幻!?
グレイソン殿下にダンスに誘われた事実が受け止めきれず、おかしな考えが思い浮かんでしまう。
でも、唖然とする周囲の人々を見るなり、これは現実だと嫌でも理解した。
動揺を隠し切れない私は困惑気味に瑠璃色の瞳を見つめ返す。
「あ、あの……お誘いは嬉しいのですが、何故私に……?殿下には、その……もっと相応しい女性が居らっしゃるかと」
何度か言葉を詰まらせながらもグレイソン殿下のお誘いをやんわり断ると、彼は少し考え込むような動作を見せた。
「相応しい女性、か……なら、尚更お前じゃないとダメだ。この場で俺と釣り合う女性は────シャーロット嬢しか居ない」
「えっ……?」
真顔でとんでもないことを口走った黒髪の美青年に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
そして、『頭でも打ちましたか?』という言葉を必死に呑み込んだ。
何を言っているんだろう?この人は……。
その言い方だと、周囲への侮辱か殿下の自虐として捉えられてしまうわ。
侮辱だと捉えた者達……主に女性は『子爵令嬢より、私が劣っていると言うの!?』と憤慨するだろうし、自虐だと捉えた者達は『子爵令嬢と釣り合う王子って……自分を卑下し過ぎじゃないか?』と困惑するでしょう。
グレイソン殿下は一体どんな意図を持って、こんな発言をしたのかしら?
彼の真意が分からず固まっていれば、白くて大きな手に手首を掴まれた。
痺れを切らしたグレイソン殿下に手を引っ張られ、慌てて足を前へ出す。
そのおかげで殿下の胸に顔をぶつける無様を晒さずに済んだ。
「え、あの!グレイソン殿下……!」
「きっぱりと断らないなら、このまま踊るぞ」
スルリと私の手に自身の手を絡めたグレイソン殿下はもう一方の手で私の腰を抱き寄せる。
一気に縮まった殿下との距離にドギマギしながら、ラピスラズリの瞳を見つめ返した。
「待ってくださ……!!は、話を……!!」
「話なら、踊りながらでも出来る」
私の意見を見事一刀両断したグレイソン殿下は陽気な音楽に合わせてステップを踏み始めた。
そうなると、パートナーの私も踊らないといけない訳で……慌てて足を動かす。
さすがはソードマスターと言うべきか、殿下のダンスにはキレがあり、足さばきが素晴らしかった。
「ねぇ、グレイソン殿下とシャーロット様が踊り始めたわよ」
「あら、なかなか上手ね」
「それはきっとグレイソン殿下がリードしているからだよ」
「出来損ないのシャーロット嬢が完璧にダンスを踊れる訳ないだろ」
各々好き勝手な感想を述べるクラスメイト達は自分の練習そっちのけで私達に注目を集める。
品定めするような視線に居心地の悪さを感じながら、私はひたすらステップを踏み続けた。
はぁ……確かに社交ダンスでは男性側がリードする曲が多いけど、こんなハイレベルなダンスに出来損ないがついていける訳ないでしょう……。
ちょっとでもステップを踏み間違えれば、足がもつれて転んでしまうわ。
平凡を演じる余裕もなく、一度ターンを挟み、グレイソン殿下の腕の中に戻ってくると、彼の薄い唇が耳元に寄せられた。
「────何故、本来の実力を隠しているんだ?」
確信を滲ませた声色でそう告げられ、私は思わずステップを踏み間違えそうになる。
タンザナイトの瞳を大きく見開く私は驚愕のあまり、直ぐには声が出なかった。
「……な、何故そう思うんですか?」
「俺のリードに完璧について来れた奴はほとんど居ない。それに授業のとき、先生に当てられる度、周りの反応を窺っていただろ?周りが『分かって当然』という反応を示せば普通に答え、『分からない』と困惑すればわざと間違った回答を口にする……とてもじゃないが、噂通りの出来損ないには見えなかった」
私の質問に淡々とした口調で答えるグレイソン殿下はまるで全てを見透かしているようだった。
彼の主張は実に的を射ているわ。というか、実際その通りだし……。
先程の問題発言も私の実力を高く見積って、『俺に釣り合う女性はシャーロット嬢しか居ない』と言ったのだろう。
自慢じゃないが、自分が他の人より優れている自覚はある。魔法の習得は周りよりずっと早かったし、歴史や地理の勉強も教科書を読めば大体理解出来たから。
謙遜するのも失礼なので明言するが、私は恐らく天才と呼ばれる部類に含まれる人間だ。
「俺はお前の真の実力を直接見た訳じゃないから、詳しいことは分からないが、クラス一の秀才だとは思っている。だから、それを踏まえた上でもう一度問う────何故、お前は本来の実力を隠しているんだ?」
再度投げ掛けられた質問に、私はなんて答えればいいのか分からなかった。
ラピスラズリの瞳を真っ直ぐ見つめ返すことが出来ず、視線を逸らす。
沈黙を貫く私に、黒髪の美青年はこう言葉を重ねた。
「お前は悔しくないのか?本当はこの場の誰よりも優秀なのに不名誉な噂を流されて、散々馬鹿にされて……本来の力を発揮すれば、全て解決する問題なのに何故頑なに凡人を演じたがる?」
私が秀才であることを前提に話を進めるグレイソン殿下は怪訝そうな表情を浮かべた。
私の行動が意味不明で、理解出来ないのだろう。これについては事情を知っている私と姉しか、理解も納得も出来ない筈だ。
まあ、それをグレイソン殿下に話すつもりはないが……。
陽気な音楽が途絶えるのと同時に足を止めた私は作り物のように美しい彼の顔を見上げた。
「私なんかと踊って下さり、ありがとうございました。とてもいい思い出になりましたわ」
結局最後までグレイソン殿下の質問には答えず、曖昧に笑う。
否定すらしない私の態度にグレイソン殿下は眉を顰めると、黙って身を翻した。
『怒らせてしまったかしら?』なんて考えながら、遠ざかっていく彼の背中を見つめる。
────こうして、思わぬ波紋を呼んだダンスの授業は幕を閉じた。