変化する日常《スカーレット side》
体育祭当日まで一ヶ月を切ったある日────私は一枚のプリントをグシャッと握り締め、般若のような形相で廊下を歩いていた。
幸い、放課後の校内は人通りが少なく、この酷い顔を見せずに済んでいる。
それをいい事に、私は思い切り眉間に皺を寄せ、グッと唇を噛み締めた。
まさか、シャーロットがクラスの代表者として魔法部門に参加することになるなんて……聞いてないわ!何でよりによって、魔法部門なのよ!私への当てつけのつもり……!?
各クラスの出場者リストを握り締める私は一年C組の欄に書かれた妹の名前を思い返す。
腸が煮えくり返るような怒りと切羽詰まったような焦りに見舞われながら、ふと────シャーロットの放ったセリフを思い出した。
『スカーレットお姉様、私の学園生活を妨害した件については必ずどこかで報復を受けてもらいます』
平坦な声で告げられたそれは背筋が凍るほど恐ろしかった。
感情を削ぎ落としたあの無表情もよく覚えている。
これがシャーロットの言っていた報復なの……?それとも、ただ単にクラスメイトに魔法部門へ出場するよう頼まれただけ……?
「……いえ、今はそんなことどうでもいいわ。どうせ、やる事は変わらないもの────シャーロットを説得して、棄権させるだけよ」
そう自分に言い聞かせ、頭の中に浮かんだ疑問を振り払う。
さっきより幾分か冷静さを取り戻した私はCクラスの教室の前で足を止めた。
ガラガラガラとスライド式の扉を開け、中の様子を窺う。やはりと言うべきか、放課後の教室に人の姿はなく、ガランとしていた。
教室に居ないとなると……寮かしら?それとも、訓練場に……?トーナメントの出場者は優先的に訓練場を借りられるから、もしかしたら……でも、面倒臭がり屋なシャーロットのことだから寮で休んでいるかもしれないわね。
顎に手を当てて考え込む私は『とりあえず、校舎の窓から訓練場の様子を覗いてみよう』という結論に至った。
Cクラスの教室を後にし、訓練場から一番近い実験室へと向かう。
様々な薬品と実験器具が立ち並ぶ実験室へ足を踏み込み、私は窓へと駆け寄った。
あれは……ソレーユ王国の第三王子であるグレイソン殿下とダーズリー公爵家のご息女であるエミリア嬢かしら?だとすれば────こちらに背を向けている紫髪の女性はシャーロットね。
緑の芝生に覆われた訓練場には、騎士服を身に纏う黒髪の美青年と乗馬服に身を包む茶髪の女性が居り、その後ろには白馬と戯れるシャーロットの姿があった。
Cクラスの代表者である三人は仲がいいのか、楽しそうに会話を交わしている。
不意にこちらを振り向いたシャーロットは無邪気な笑みを浮かべており、年相応に見えた。
「あの子のあんな楽しそうな顔、初めて見たわ……」
普段の大人びたシャーロットしか知らない私は眉尻を下げる。
妙な虚しさに苛まれる私は窓ガラスにそっと触れた。
……まあ、何にせよ、あの状況じゃ話し掛けられないわね。シャーロットとの密会を他の人にはあまり知られたくないもの。妙な噂が立ったら、困るわ。
帰宅時間を見計らって、また声を掛けに行くしか……。
シャーロットの帰宅時間を予想しながら、自分のスケジュールを調整していると────不意に黒髪の美青年と目が合った。
宝石のラピスラズリを連想させる瑠璃色の瞳はただ真っ直ぐに私を見つめ、眉一つ動かさない。
最初から私の視線に気がついていたのか、彼に驚く様子はなかった。むしろ、訓練場の様子をこっそり覗いていたこっちが驚く羽目になる。
目を見開いて固まる私に対し、グレイソン殿下は口パクでこう言った。
『う』
『せ』
『ろ』
氷のように冷たい無表情で、彼は確かに『失せろ』と言った。
この場から立ち去れという意味なのか、それともシャーロットに近づくなという警告なのか……どちらにせよ、グレイソン殿下に邪魔者扱いされたのは間違いない。
誰にも関心を抱かない人だと聞いたけど、その噂は嘘だったみたいね。シャーロットがどうやって、グレイソン殿下の関心を引いたのかは分からないけど、これは少し不味いかもしれない……他国とはいえ、一国の王子に気に入られたのなら手が出しにくくなる。
自分の知らないところで着々と人脈を広げていく妹に苛立ちと恐怖を募らせ、私はギュッと手を握り締めた。その拍子に、既にグシャグシャだったプリントが更に折れ曲がる。
舌打ちしたい気持ちを必死に押し込め、ラピスラズリの瞳を見つめ返した。
「今日のところは退散しますわ」
恐らく聞こえていないだろうが、窓越しにそう呟き、私はクルリと身を翻す。
自分の思い描く未来とは全く違う方向に進み出した現状に、クッと顔を顰めた。
こんな筈じゃなかったのに……私の学園生活はもっと楽しくて、心地良いものだったのに!シャーロットが約束を破ったせいで全て変わってしまった……!シャーロットが今まで通り私の引き立て役に徹してくれれば、こんなことにならなかったのに……!
例の噂を流したことについては確かに私が悪かったと思う。でも、だからって……!私の学園生活までぶち壊さなくてもいいじゃない!どうして、私の邪魔ばかりするのよ……!!
「私はただ幸せになりたいだけなのに……!」
悲鳴にも近い声でそう呟けば────コンコンッと扉をノックする音が聞こえた。
「────スカーレット、どうしたんだい?何かに怯えたような顔をして……幽霊でも見たのかい?」
聞き覚えのある声が耳を掠め、慌てて顔を上げれば────扉に寄り掛かって、心配そうにこちらを見つめるレオ殿下の姿があった。
艶やかな金髪をサラリと揺らし、気遣わしげな視線を送る彼はゆっくりと身を起こす。
その所作一つ一つが美しくて……ついつい見惚れてしまう。レオ殿下の顔を見るだけで、嫌なことなんて全て忘れられた。
嗚呼、やっぱり……レオ殿下は心のオアシスだわ。
「何でもありませんわ、レオ殿下。ご心配をお掛けして、申し訳ありません」
強ばっていた表情が自然と緩み、私は穏やかに微笑む。
まだ問題は何一つ解決していないが、それでも不思議と笑うことが出来た。
「いや、別に構わないよ。スカーレットが無事ならそれでいいんだ。それより、生徒会室に戻らないかい?君がいきなり飛び出していくものだから、みんな凄く心配しているんだ」
言外に『ずっと探していた』と匂わせるレオ殿下は柔和な笑みを浮かべて、手を差し出した。
今更ながら、何も言わずに生徒会室を飛び出した事実を思い出す。
出場者リストにシャーロットの名前があって、気が動転しちゃったのよね……。せめて、一声掛けてから来ればいいのに、私ったら何をやっているのかしら……?
過去の自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られながらも、レオ殿下の手に自身の手を伸ばす────が、しかし……グシャグシャになったプリントの存在を思い出し、ピタリと動きが止まった。
皺になったプリントと殿下の手を交互に見つめ、オロオロしてしまう。
いっそ、反対の手を差し出す選択肢もあるが……それだと、エスコートが出来ない。
とりあえず、グシャグシャになったプリントを背中に隠すと────金髪の美青年がクスリと笑みを漏らした。
「大丈夫だよ。見なかったことしてあげるから。それに出場者リストの予備はちゃんとあるからね。気にすることはないよ」
問題ないとでも言うように肩を竦めるレオ殿下は自然な動作で逆の手を差し出した。
気を利かせてくれたらしい。
レオ殿下のこういうところが好きなのよね。まあ、この優しさが私だけのものじゃないことは分かっているけど……本当に狡い人だわ。
キュンと切なく鳴る胸に思いを馳せ、私は差し出された手に自身の手を重ねる。
指先から伝わってくる体温が愛おしくて堪らなかった。
「ふふふっ。それじゃあ、行こうか」
そう言って、私の手を引いて歩き出す金髪の美青年は楽しげだった。
彼の隣を陣取る私は『あと何日、殿下の隣に居られるだろうか』と考える。
このまま時間が止まってしまえばいいのにと本気で思ってしまうほど、レオ殿下の隣は心地よかった。