不恰好な愛を隠せなくなった日
屋敷にやってきた自分に対して、いつもと何も変わらない少女に、少しの切なさを覚えた。
「みて!こっちこっち」
「ちょっとまって!そんなに急がなくてもなくならないよ」
「なくなるわ!アレクといっしょにいるじかんがなくなっちゃう!」
そう言って、いつも通りに手を繋いで。
──少女には何でもない言葉一つに、嬉しくなる心をひた隠して。
連れて行かれたのは庭園の隅。
そこには黄色のバラの木が一本植えられていた。
なぜここへ連れてこられたのか、これを見せられたのか分からず、黄色のバラが好きなのかと問えば、少女──シュリーは是と答えた。
「どうして?」
「だって、アレクのかみみたいにきれいだもの!だからすき!」
そう言って笑うシュリーの顔は、花のように華やかで。
自分の名前を呼ぶ声は、オルゴールのように心地良く。
アレクは自身の髪が金色であることを、浮かべた微笑みを崩さないまま、喜んだ。
「ありがとう。ぼくもシュリーの髪、好きだよ」
「かみだけ?」
そう拗ねたような表情は、あまりに甘美で、瞬きさえ躊躇われる。
アレクはシュリーの頬を手のひらで包み、そっと額をくっつけた。
視界いっぱいがシュリーになる。
「もちろん、シュリーが大好きだよ」
髪だけじゃない。
髪も、声も、笑顔も、他のどんな表情でも。
頬を包む手を背中に回して引き寄せたいと思うほどに。
今日のこの訪問目的は、アレクのターラント家とシュリーのエアハルト家で婚約の約束を取り交わすことだ。
アレクとシュリーのそれだ。
長年の夢だったはずだ──今頃、父親同士、酒でも酌み交わしながら、誓約書にサインをしていることだろう。
ターラント家とエアハルト家は、親同士の仲が良く、お互いの家へと訪問するときには必ず子供を連れて行った。
子供たちの相性が悪くなければ、二人を結婚させたいと両家の親は考えていたからだ。
アレクは今でも初めてシュリーを見た時の衝撃は忘れられない。
もしかしたらお嫁さんになるかもしれない子だよ、とこっそり父から教えられて紹介された女の子は、自分に向けてふわりと笑ってくれて。
そのあどけない、自分だけに向けられた笑顔が、心を満たした。
そのときから、この笑顔をずっと自分に向けてくれればいいのにと願い続けている。
そして今日、婚約という形で、その願いに一歩近づく。
「へへ、わたしもアレクだいすきよ」
まるで流れるように、その小さな唇から紡がれるこの言葉に、何度胸をときめかせたことか。
──そんなこと、かわいい君は知らないだろうけれど。
二人にこにこと笑って、手を繋いだまま、庭園を走る。
一見それは幼い子が遊び回る微笑ましい光景で、すれ違う訪問者の貴婦人も目を細めたほどだった。
「ほら、見て。可愛らしいわね」
「ふふ、本当ね!こちらのお嬢さんと、あちらはターラント家の?」
「両家は親交が深いのでしたね。手なんて繋いで兄妹のよう……なんて仲が良いのかしら」
通りすがりに聞こえた言葉に、顔が曇らないようにアレクは笑顔を張り付けた。
手を繋いでいるかわいいシュリーに悟られるわけにはいかないのだ。
ぽつりと本当に小さな呟きを漏らす。
他人からも、そう見えるのか。
一瞬不思議そうな顔をしたシュリーと目が合って、微笑んで誤魔化した。
シュリーが自分の事を兄のように慕ってくれていることは気づいている。
それでも今日、婚約の約束が取り交わされれば、少し兄の枠から抜け出せるかと思っていたのに。
相変わらずの純真な反応のシュリーと貴婦人の何気ない会話にアレクは残念な気持ちになっていた。
このままではいけない。
自分がなりたいのは、兄代わりなどではなく、シュリーを独り占めできる特別な存在なのだから。
◇◇◇
「よろしいのですか、シュリーお嬢様も来ていらっしゃるようですが」
「うん、いい」
窓枠に手を掛けて、カーテンに隠れるように、アレクは外の様子を窺っていた。
見かねた家庭教師が溜息一つ落としてから、確認した内容に、考える間もなくかぶりを振る。
再び机に向かうと、止めていた手を動かし始めた。
あの日からアレクはシュリーを意識して避け始めた。
兄妹だなんて思われたくなかった。
だって、僕は、婚約者なのに。
シュリーにも、他のだれが見ても、立派な婚約者だと思われるようになろうとアレクは決めたのだ。
勉強も体術も、剣術もマナーも完璧にこなしてみせる。
そうして各分野の先生を家に呼んでもらって、過密スケジュールに進んで身を投げて二ヶ月。
手は止めないまま、ふと、思う。
このままずっと会わない日々が続けば、幼い少女は自分を忘れてしまうのではないだろうか。
婚約者として自信を持って隣に立てるようになるまで、距離を置こうと考えたのに。
「ねえ、庭師を呼んでもらえるかな?やってもらいたいことと教えてもらいたいことがあるんだ」
授業が終わるや否やアレクは執事にそう伝え、呼び出した庭師には相談をする。
「黄色のバラを育ててもらいたいんだけど、できますか?」
「バラ……ですか。できますが、」
「うん、どんな季節でも咲かせることはできるの?」
「年中となると、温室で育てる必要がありますね。しかし、温室で何を育てるかは私の判断では……」
「それは僕から父に伝えておく。黄色のバラのスペースを作りたいんだ。また追ってお願いするよ。それから──」
庭師との会話の後すぐ父へ報告したが、とくに何も聞かれることなく温室内に黄色のバラを植えることを許可してくれた。
黄色いバラ。
シュリーが、アレクの髪のようだと言ってくれたバラ。
それを花束にして贈ろう。
忘れられることのないように、ずっと想っていると少しでも伝わるように。
また、自分の髪色と同じ黄色のバラがシュリーの近くにあるかと思えば、勉強も体術も、傍を離れることさえ、アレクは頑張れる気がした。
一ヶ月後、庭師に用意してもらったバラの花束をシュリーに贈ると、シュリーからお礼の手紙が届いた。直筆だ。
お元気ですか、と。
忙しいようで、なかなか会えなくて寂しい、と。
書いてあった内容にアレクは頬を緩ませた。
あのシュリーが寂しいと思ってくれるなんて。
読んだ手紙を丁寧に封筒へ戻し、鍵の掛かる机の引き出しにそっと仕舞った。
これは僕の宝物だ。
◇◇◇
会わなくなって六年間。
忘れられないように、三ヶ月に一度、黄色のバラの花束を贈り続けた。
そのバラは屋敷の温室で育てられたもので、アレクは温室へ行って、バラを眺めることが日課になった。
黄色のバラに囲まれていると、シュリーと一緒に居るような気分になる。
まったく、重症だ。
花束を贈ると、シュリーからはいつも黄色のバラを刺繍したハンカチが届く。
応援のつもりなのか、いじらしい彼女の行動にアレクは喜んだ。
と同時に、忘れられていないことに安堵をする。
どんな顔で、これを作ってくれているのか。
常に持ち歩いているハンカチを広げ、会いに行きたくなる想いに耐える。
日課という名の息抜きを終え、部屋に戻ると封筒が一枚置かれていた。
宛先を見て驚く。
シュリーだ。
手紙なんて久しぶりだな、と嬉しくなって封を切る。
一度上から下へ読んで、アレクの緩んだ顔は一気に青褪めた。
間違いかと二度三度読むも、文面は変わらない。
──婚約破棄の申し出だった。
何が起きたのかと、即座にエアハルト家へと馬車を走らせた。
どうして婚約破棄だなんて。
「お待たせして申し訳ありません。ようこそいらっしゃいました。お久しぶり、ですね。お元気でいらっしゃいましたか」
「いや、こちらこそ突然の訪問を許して欲しい。……久しぶりだね。シュリー」
応接間で簡単に久しぶりとなる挨拶を済ませると、テラスへと通された。
気を遣ってくれたのか二人だけだ。
丸テーブルの向かいに座るシュリーは成長して、可愛らしいよりも美しいという表現が似合うようになっている。
お淑やかに微笑む彼女に、過ぎた年月を悔やんだ。
あの柔らかな髪を撫でたのは、ふくよかな頬を手で包んだのは、もう六年も前だ。
どうして成長していくシュリーの姿をみすみす見逃してしまったんだろう。
「……お手紙を読んでくださいましたか」
少し化粧をしているのだろうか。
自分が成長するということはシュリーもまた成長するということで。
年頃の女性となったシュリーが、恋愛や婚約について考え始めてもおかしくない。
もしかしたら他に想いを寄せる男ができた、なんて。
赤く色づいた唇から紡がれた言葉に、まるで断罪を待つような気分になる。
「……ああ。だから来た。どうして婚約破棄の申し出など、」
しかめっ面にならないよう気を付ければ、ことのほか冷静な声色になった。
シュリーは率直に理由を言うのが躊躇われるのか、儚げに微笑んだ。
「いつも、素敵なバラをありがとうございました」
「……シュリーに似合うかと思ってね」
シュリーがアレクの髪のようで好きだと言ってくれた黄色のバラ。
定期的に贈り続けたそれは、もはや自分の分身のようで。
むしろシュリーに似合ってほしいと願い続けたものだ。
「アレクの心遣いには感謝いたしますが、もういただかなくても、」
「以前、この花が好きだと言っていたろう?だから家の温室で育てて……」
シュリーの口から不要だとは聞きたくなくて、遮るように言葉を被せると、余計なことまでも口走ってしまった。
アレクは慌てて口を押さえたが、一度飛び出してしまった言葉はもう戻らず、シュリーも聞き流してはくれなかった。
「え?何と?」
こんなこと言うつもりはなかったのに。
ややあって、諦めたアレクの口の隙間から大きな溜息が漏れた。
「……家の温室で育てたんだよ。シュリーに贈ろうと思って」
「アレクがですか?」
「ああ。……いや、庭師に教えてもらいながらだけどね」
黄色のバラを温室で育てたいと言い出した時、庭師にはバラの育て方を教えてもらっていた。
一番初めに贈ったバラは庭師が用意してくれたもの。
その次に贈ったものはアレクも一緒に世話をしたもの。
最近贈っているバラは、アレクが自分一人で育てたものだ。
苦々しい顔でアレクはポツリと話し出した。
「本当は、自信がつくまで連絡を断とうとしたんだ。だが、忘れられたらと思うと怖くなってね。だからシュリーが好きだと言ってくれた僕の髪と同じ黄色のバラを送り続けた」
情けないだろう?とアレクは自嘲気味に嗤う。
こんなに格好悪い姿をシュリーに見せたくなかった。
そのために過密スケジュールをこなし、願掛けのように最愛の人に会わないことさえ自らに課したのに。
「シュリーもバラの刺繍を贈ってくれていたから、身勝手にも心は通じているんじゃないかとそう思っていたんだ。……シュリーが婚約を破棄したいと思っているとも知らず」
目を逸らしながら、アレクは眉をしかめる。
話せば話すほど、醜く愚かな自分が露見するようで、居た堪れない。
呆れているのか、シュリーの声も掠れていた。
「どうして、こんな、こと」
「……婚約が決まったあの日に、すれ違った婦人方がいただろう?シュリーが覚えているかはわからないが、あの時、兄妹だと思われたことが……悔しくて。だから、勉強に力を入れたし、体も鍛えた。シュリーを守れるように。シュリーに似合う男になれるように」
アレクはすっと立ち上がると、自身の胸に手を当てた。
こんな風に言うつもりじゃなかった。
もっとちゃんと下調べも準備もして、完璧な形で臨むはずだった。
成長して大人になったシュリーにちゃんと伝わるように。
「シュリーが、好きだったから」
婚約破棄を望む彼女に──それもこんな不恰好に──今更伝えたところで何の意味も成さないかもしれないけれど。
真っすぐ目を見て伝えた言葉に、シュリーは小さく首を傾げた。
「過去形ですの?」
シュリーは拗ねたように唇を尖らせる。
その顔はまるで昔の、手を繋いで走り回っていたときのような顔で。
アレクは数回瞬き、あまりの懐かしさと長い間焦がれたそれに、ゆっくりと頬を緩ませた。
この想いは過去のものではなく、昔も今もずっと変わらない。
それどころかより強くなっている。
まだ間に合うだろうか。
こんなに格好悪い僕を、選んでくれるだろうか。
好きという言葉じゃ足りない。
好きだけど、好きよりもっと。
不安を笑みで押し隠したまま、アレクはシュリーに一歩二歩と近づき、向かい合って座るシュリーの手を取った。
シュリーの耳元に唇を近づけて、それはもう最後の足掻きのように、そっと囁いた。
「────。」
伝われ、と人生最大になるだろう願いを込めた。
ぎゅっと目を瞑って、目を開けて。
ちらりとシュリーの様子を窺えば、一拍置いて顔を真っ赤に染めていた。
その姿で、アレクはようやく兄から一人の男──婚約者になれたと思えたのだった。
しかも、だ。
「……私もよ!愛してるわ!」
そう言って抱きついてくれたシュリーの愛らしさに、アレクはもう絶対離さないと天に誓った。
シュリーが婚約破棄を突きつけたのはアレクからの手紙が来ないことに拗ねていたからだとわかり、謝り倒したのはこれからすぐのことだ。
宝物とか言ってる場合じゃない。
もしよろしければ、シュリー視点もぜひ。
「すき」と言われなくなった日