転
おかしい、本当はずっとおかしいと思っていた。
読めない駅名も、永遠のような長い階段も、ホームと違って明るい境内も。……お面をつけた大男も。
「ここは、どこですか」
「私の家だよ」
一歩下がるごとに、男も一歩こちらへ足を踏み出す。
「あなたは、何?」
「私は木津。自己紹介がまだだったね」
まただ。
噛み合わない会話。思えばずっと、男は桃の疑問に応えていない。
怖い。得体が知れない恐怖に、胃の奥がギュッとしまる。本能が大声を出して逃げたがっているが理性がそれを止める。最初にあった時よりも明らかに大きくなっている男から、逃げ出せる気がしない。
一歩、一歩、後退りする桃に合わせて、男は変わらない距離を詰めてくる。目をそらせないまま後ろに下がっていくとドン、と硬い感触にぶつかった。
「灯、湯の用意が出来たんだね。呼びに来てくれてありがとう」
無表情のまま頷き、灯は左手で桃に先を促した。桃の肩におかれた右手にぐっ、と力が込められる。まだ逃げるときでは無いというのだろう。しかし、彼女のことをどこまで信じたらいいのだろうか。自分一人ですら逃げられる気がしないのに、もう一人を連れて本当に逃げられるのか。
立ち竦んだままの桃を男は振り返った。
「まだお腹が空いているなら広間に戻っておいで」
桃の肩に置かれた手に、さらに力が込められる。指示されるまでもなく、男と共にあの広間に戻る気力は桃にはなかった。恐怖で逃げ出さないことで精一杯だ。ゆるく首を横に振って、愛想笑いを返した。そのまま、男が何かを言う前に灯と一緒に風呂場へと向かった。
灯に聞きたいことは山程あるが、先程から面をつけた着物の人達とよくすれ違う。こういう状況で、灯が喋れないことは察しがついたため、桃も黙って灯の後をついて行った。
✳︎
連れて行かれるままについていくと、外の庭を通り離れの風呂場へとたどり着いた。
大きな檜風呂のある浴室には誰もおらず、温かい風呂の湯気に、ふっと気が緩む。
「ねぇ、なんで電話でお母さんが猫田さんになってたの?」
セーラー服から着物に着替えた灯が、着物を襷掛けて桃の背中をごしごしと擦っている。
一度は断ったものの、「やらないと誰か入ってきた時に怪しまれるから」との言葉に素直に従った。
「あれは暗示。黒電話をじっと見たでしょう。それが引き金。聞きたい人の声が聞こえる暗示よ。本名を教えなければ気付いて暗示が解けるけど、本当の名前だと気付かない」
確かに、あの時母に「桃」と呼ばれていたら気づけただろうか。自信がない。
「ずっと緊張状態が続いていたところに、聞きたい人の声が聞こえるのだもの、一気に気が緩む。普通はそこで完全に暗示にかかるの。この屋敷の異質さに気づけなくなる」
灯に教えてもらっていなかったらどうなっていたかを想像して、温かい浴室の中にも関わらず鳥肌が立った。
「痛っ。何?」
されるがままの状態だったか、突然のひりつく痛みに驚いて振り返った。
「塩よ、バスソルトって言うんでしょ?人間が来ると必ずお風呂でこれをするの。人間は喜ぶわ。お肌がツルツルになるって」
フローラルな香りのするバスソルトを持ち上げて、灯が丁寧に肌に擦り付けていく。
「ふぅん」
一通りさっぱりした後に檜の湯船に浸かる。
「作戦会議をしましょう」
「はい」
湯船の縁に正座した灯は、桃を手招きして耳元にささやく。
「鉄砲をもってる?」
物騒な響きに桃がギョッとして慌てて首を振る。そもそも鉄砲なんて飛び道具を持っていたらさっさと逃げている。
「なんで?」
「彼らは鉄砲とタバコの煙が苦手なの。うまく組み合わせれば逃げられると思ったんだけど」
頬に手を当てて何かを考える仕草に、つられて桃も首を傾げる。バスソルトでスベスベになった肌を撫でながら、思い出したように立ち上がった。
「いけるかもしれない」
風呂場から上がった灯と桃を待っていたのは、新しい着物をもった同じような面をつけた女たちだった。
「梅様。髪を梳かせて頂きます」
女たちは、有無を言わさず桃の体を拭き、オイルで丁寧に全身を保湿した後、着物を着せて鏡の前に座らせた。
「お客様がいらっしゃったら、こちらでおもてなしを致しております」
漆の化粧箱に入った、黒と金の粉を頭皮に揉み込み髪を梳かしていく。いつもであればドライヤーですぐに髪を乾かすところ、タオルで拭う形で髪が乾くのを待っていたため、途中何度かくしゃみをしてしまった。
一通りの準備が終わったあと、先ほどの広間の近くにある6畳程の部屋に通された。女達は、揃って頭を下げて障子を閉めた。足音が遠くなったことを確認して灯と桃は顔を見合わせて頷き合う。
「行きましょう。もう時間は残されてないわ。着てきた服に着替えて靴を履いて」
自分もセーラー服に着替えながら、桃が着てきた服も靴も着物の袂から取り出して並べた。
「このために慣れない着物を着たのだから、感謝してね」
✳︎
障子をそっと開けてあたりに誰もいないことを確認する。湯船の中で聞いた「この屋敷は玄関以外から出ても塀の外には出られない」という言葉を頼りに、玄関を目指してそっと廊下を進む。
灯から万が一自分と離れた時は、右、左、右、右、に角を曲がるのだと、格闘ゲームの必殺技のような道案内を受け、まずは最初の右を目指す。
スニーカーを履いているおかげで、静かに歩けている。裸足だとペタペタと足音がうるさかっただろう。先程は感じなかった、じっとりとした重い空気に、不快な汗が額を伝う。庭に面した廊下を足音を立てずにゆっくりと進む。
襖から明るい光が漏れている部屋の前を通る時は、灯の横に隠れるようにして通り過ぎた。まずは何事もなく一つ目の角を右に曲がる。
問題は二つ目の角であった。障子張りの部屋からは先程の女達の声がする。影が大きく伸びて見えるためこちらの通り過ぎる影も見える恐れがある。
どうしたものかと廊下の手前で目立たないようにしゃがむと、かろうじて女達の声が聞こえた。
「あの娘は喰えるところが限られる」
「痩せっぽちの体、身が少なそうだ」
「いやいや、身は少なくとも筋肉質な若い女。美味いに違いない」
「しかし、もう少し肥えさせねばなるまい」
物騒な内容に戦慄する。話しながら段々と伸びてくる影は、既に人のものではなく、明らかに獣の影となっていた。ぎょっ、として、思わずゆっくり、首を後ろに回すと無表情の灯と目があった。
「......あの」
「何?」
「もしかして、私は下準備をされたの?」
人で無い彼らが私を留める理由など一つしか思いつかない。塩を塗り込まれ、オイルを塗られ、あの粉は金粉でごまかされていたが胡椒だろう。今も鼻がムズムズする。灯は返答の代わりにため息をついた。
「叫ばないでね。先程の広間で出された肉は、あなたの前に来た人間よ」
灯の言葉に叫ばずにはいられたのは奇跡だろう。代わりに、強烈な吐き気を催す。先程、後少しのところで口に入れるところだったあの肉が、人肉だったというのか。
広間の景色を思い出そうとしても思い出せない。胃から上がってきたのが夕方に食べたハンバーガーだったため、肉臭さにより一層こみ上げてきた。
慌てて縁側から身を乗り出して胃の中身を吐き出す。
「叫ばなくてえらかったわね」
背中をさすりながら優しい声音で灯が語りかけてくる。涙目になりながら、必死で嗚咽を堪えた。短い人生ではあるが、この先も食料としてカウントされることなどそうないだろう。
震えが止まらない。今自分が身に纏っている全てを剥ぎ取り、もう一度洗い流したい。塩も油も胡椒も。
「落ち着くまで待てなくて悪いのだけど、お姉様方が気づいたみたい。私は後で合流する。左、右、右。覚えた?」
真剣な顔の灯に、口元を拭いながら頷く。灯は微笑んでもう一度桃の頭を撫でた。
「出口で会いましょう」