表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帝都モダン  作者: 藤堂高直
8/11

第八話 帝都編 御台場 第二海堡 本郷 神田 目白

雲の動きが早い。月明りが雲間から差し込む。錆色の海風が露出した頬に厳しく当り、一歩進む毎に懐に忍ばせた小型文思拳銃の重さが伝わる。対岸の明かりは、御台場の暗がりと対照的に眩しい。隣からはサヤカの冷たい水色の吐息を観じる。私は接眼を解錠し時間を確認した。まだ、リ・トモミと交渉をするまで少し間がある。

「サヤカ、大丈夫?」

「ええ、平気よ。これが上手くいけば・・・」

「大丈夫、何とかするよ」

リ・トモミとは、あの電話以来、接触はしていない。その代わりに、調査をしている途中、人混みの中で外套を纏った男から封筒を手渡された。封筒の中身を確認すると具体的な亡命への条件や、待遇に関して記載されてあった。北支那の情報なので、話半分で受け取ったとしても厚遇と言える内容だ。貴族院図書館の資料を読み込み分かった事だが、北支那ではユメミもイロミも絶対数が少ない。イロミとユメミは双方とも日系人種もしくは西蔵、台湾の土着民族辺りの遺伝子を受け継いでいるものが中心だそうな。以前、組織に入ったばかりの時、個室で受けた動画講義で四大国の内、亜細亜連邦のみがこのような組織を成立しているという話を聞いた。その理由が民族的なものに起因するのならば合点が行く。

「此処が指定の場所だ。予定の時間迄もう少しだね」

「・・・誰もいないわね」

「確かにいない、何かあったのかな?暫く待ってみよう」

「何だか、怖いわ」

第一台場公園は静かだ。夜間は入口が閉鎖されている為か街灯も疎らで人気がない。波が石垣に当たり、紺色の音がする。幕末期の遺構をよくも残したと思う位に開発が盛んな湾岸地帯の中でぽつねんと台場のみが時代の名残を残している。日中はそれでも東京湾を船で巡り、海上にある他の台場に上陸するなど観光資源として活用が出来るが、夜は寂しげだ。視線の先に一筋の光が見え、上空で華開いた。次いで眼前に広がる湾岸の至るところで色も大きさも異なる火の華が舞う。気を抜いたつもりはなかった・・・私の弱点は背中の様だ。凍て付く硬質な感覚がある。

「タチバナだな」リ・トモミではない。男は強い北支那訛りがあり、茶色い、腐った米の様な匂いがした。

「そうだ。約束通り、ユメミも連れて来た」

「拳銃、携帯端末、腕時計、渡せ」

小型拳銃は携帯するには最適だが、相手の探知技術の方が優れてる様だ。私は黙ってそれらを渡した。携帯端末を受け取った男は端末の差込口に器具を刺し込んだ。すると、携帯端末は閃光して鉄が焼ける匂いが漂った。

「よし、二人とも付いて来い」

接眼と耳栓にはまだ気付かれていない。が、携帯端末が破壊された為に、それらの機能が制限されてしまう。男は私の背中を拳銃で突き直進を促した。堤防の上を歩くと、花火は終わる事なく東京の空を彩っている。ある意味こういう状況の方が工作活動には適しているのだろう。私達は躓かない様に手を繋ぎながら歩いた。視線の先に昔の船着場が見えた。そこに小舟と人影が見える。船着場へと至る階段を降りた。塗装の禿げた木造舟に我々が乗ると大きく揺れた。船に乗っているのもトモミではなく、別の男だ。その男は私達の頭に麻袋を被せた。

「何処に連れて行く?」

「黙れ従え」

発動機が音を立て小型の木造舟が動き出した。舟が波を切る音の間から花火の低い音が聞こえる。サヤカは私の手を強く握り、微かに震えている。私はその手を優しく撫でた。どれ位時間が経っただろうか?花火の音は次第に遠のき、聴こえて来る音は仄暗い波を切る音と発動機の音だけになった 。接眼で現在位置を確認すると、第二海堡付近にいた。この辺りは艦砲射撃から東京を護るべく築いた近代要塞だが、兵器の進化と共に無用の産物となり、放置された。北支那の工作員が作戦の経由地として一時的に利用する場所としては最適だ。位置情報が乱れ始めた。電波妨害だ。リ・トモミの仕業だろう。私は網際と接眼の接続を切り、独立機能に変更した。舟は次第に速度を緩め、ゆっくりと停泊をした。

「立て、着いた。歩け」

麻袋を被されたままでは足元が満足に見えず、何度か転けそうになった。サヤカは躓き膝を挫いた。建物の中に入った。妙な湿気と、赤茶けた蝙蝠の糞の臭いが鼻腔を刺激する。男から止まれとの指示を受け、麻袋を外された。

「やあ、タチバナくん」

「リ・トモミか」

「豪華客船の乗心地は如何だった?」

「そのまま天津まで行きたくなる様な乗心地だったよ」

「ふふ、次はもう少し、まともな乗り物に成るわ」

「それは楽しみだ。約束通り、イロミ一人。即ち僕と、ユメミを一人連れて来た」

「確認するわ」そういうと、トモミは支那語で隣の男に話しかけた。

「・・・確かに、ユメミね」

「北支那のイロミか?」

「まあね。で、こちらの条件は既に提示したけど、何か問題はある?」

男が後ろに二人、手前にはリ・トモミとイロミの計四人、柱が両脇にある・・・

「問題はない。提示した条件を飲む」

「そう。それは嬉しいわ。私達もこれで亜細亜連邦を出し抜く事が出来る。モウ・シンウ国家主席もお喜びに・・・え!?あなた、電波情報を船上で送っていたの?」

「ちっ!サヤカすまない!」

袖に隠しておいた発光弾を撃った。とっさに目を閉じ、サヤカを連れ柱裏側まで走る。縦の代わりになりそうだ。私はサヤカを柱の裏に隠し、リンコに開発をして貰った強化合成樹脂製の拳銃、通称リンコ式を懐から取り出した。接眼が照度調整をしているお陰で工作員らがよく見える。先ずは背後にいる男達からだ。発光弾で狼狽している標的の頭部に照準を合わせ引金を弾いた。音もなく撃鉄が雷管を叩き銃弾が放たれた。刹那。男の頭部は粉砕され血飛沫が舞う。小型でも炸薬弾の破壊力は抜群だ。もう一人の男は目を覆いながら柱に手を置いている。再び照準を合わせ、訓練の通り一つ呼吸をしてから引金を引く。再び、低反動でリンコ式から放たれた炸薬弾が男の首辺りで弾け、頭部を千切り飛ばした。私が隠れている柱に銃弾が当たる音がした。混凝土の破片が飛び散る。私は柱の裏に隠れ、銃弾を装填した。急拵えで三次元印刷をした為か、装填出来る銃弾が二発と少ない事がリンコ式の難点だ。だが、同じく樹脂製の接眼、耳栓と共に相手に探知され難いという長所がある。銃弾の当たった位置から、相手の位置を接眼で予測させる。相手は視線の先にある柱の裏に隠れている。リ・トモミであろうか?一瞬躊躇いそうになったが、迷わずに引金を引いた。弾丸は混凝土の柱に吸い込まれ、爆音と共に内部破裂を起こし、黒い影が転がった。トモミではない、イロミの男だ。再び照準を倒れている男に合わせ引金を引いた。リンコ式から放たれた銃弾は無慈悲にその男の胸部で炸裂し、体を四散させた。残るはリ・トモミ一人・・・いや、楽観はするな、まだいるかも知れない。接眼で動きのあるものは全て探知出来るように設定してある。それに、耳栓から遠くの音も入る。再び柱に銃弾が当たり、混凝土片が散る。トモミの仕業だ。訓練をされているだけあり、狙いは正確だ。が、それがトモミの命取りになる。接眼は弾道から相手の居場所を伝えた。装填を済ますと、一瞬銃撃が止んだ。接眼の示す壁に照準を合わせ、熱を帯びた引金を引いた。さようならだ。壁は轟音と共に崩れ、壁の後ろからトモミが倒れるのを確認出来た。が、トモミは受身を素早く取り、一つ奥の壁に隠れた。接眼はトモミの位置を正確に捉えている。再び引金を引き、銃弾は壁を粉々に崩した。やったのか?耳栓はトモミが走り去る音を拾った。しかし、足音が歪だ。片足を引きずっているようだ。

「サヤカ、僕は今から首謀者を仕留めに行く。ここで待っていてくれ」

「ええ・・・」

サヤカに説明をする時間はない。彼女は動揺して動けないようだ。寧ろ、サヤカが動けないでいてくれる方が有難い。私はトモミを追いつつ、リンコ式に弾を二発装填した。途中、地面に四散した工作員の肉片が確認出来、一瞬、黒く甘い匂いが鼻腔を刺激した。トモミの隠れていた壁の後ろに屋外に通じる扉があり、血痕が続いている。私はその壁に一旦隠れ、開いた扉の間からトモミの陰を追った。トモミの足音は次第に遠のいて行く。応戦する気配はない。私は外へ飛び出しトモミを追う。直撃を与える必要はない。動きさえ止める事が出来れば良い。接眼は走るトモミの位置を正確に捉えている。銃口の角度を微妙に調整をし、足元に照準を定め、銃弾を放った。弾道は緩い曲線を描き地面が弾け、トモミも弾き飛ばされた。良し、次で致命傷を与えられる・・・接眼に従いトモミのいる場所に近付く。声が聞こえる。耳栓はその音を拾った。

「タチバナ・・・あなた、最初から・・・」

呻くような桃色の声が聞こえる。

「トモミが優先する事柄があるように、僕にも優先する事柄がある。それ以上でも、以下でもない」大声で相手に聴こえる様に話した。

「・・・負けたわ。私はもう動けない。貴方の好きにすれば良いわ」

「潔良いものだな・・・」

耳栓が微かな物音捉えた。後方だ。私は咄嗟に体を屈め全方へ転がる。背後で鋭利な虚空を突く音がした。私は体勢を立て直し相手と間合を取りつつ、銃を懐に戻し、帯皮に仕込んでおいた巻尺式刀を取り出す。特殊磁器質の刃を伸ばし相手の首元に刃先を向ける。相手は小刀で私の心臓部を的確に捉えている。間合は一間。互いに距離を保ちつつ隙を伺う。相手の呼吸音が聞こえて来る。耳栓で辺りの音を拾う。トモミは動いていない。男は刃物を私の胸元に定め突進して来た。単純な動きだ。私は横に回避する傍ら、工作員の腹部目掛けて刃を走らせた。鋭利な刃は相手の肉を割き、土色の手答えを感じた。我が国の軍刀術は伊達じゃない。が、まだ浅い。私は脂の付いた刃先を折り、刃を改めた。剣先で相手を見据える。工作員が支那語でcaoと罵る声が聞こえる。腹部から出血をしているようだ。この間合を保てば時間と共にこちらが有利になる。男は刃物を振り下ろす様に首元を狙って来た。相手が刃を振り下ろす直前に私は後方に軽く飛び、攻撃を避け、逆に相手の首筋を斬り付ける。入った。工作員は首を抑えた。次いで笛の様な音が聞こえて来た。首から空気が漏れているのだ。男は出鱈目に刃物を振り回したまま姿勢を崩し、背中から地面に倒れた。これで全員か・・・接眼と耳栓から入る情報が正しければ、現在この島にはリ・トモミ、そしてサヤカと私しかいない。サヤカがいつの間にか近くに居る。様子を見に来たのだろうか?

「他に工作員はいないようだな。最後に言い残すことは無いか?」

「・・・あるわ・・・今度は、あなたが壊したのよ」

「・・・何をだ?」

「ふふ・・・」

ちくっ

背中に痛みが走る。繰出鉛筆ではない。刺された瞬間から体の力が抜けて行く。

「・・・ごめんなさい」

「サヤカ・・・」

足に力が入らず、均衡を崩し地面に倒れた。サヤカの嗚咽が聞こえる。

「私・・・どうすれば良いの?」

「サヤカ、貴女はよくやったわ。もう何もしなくて大丈夫。船はもう直ぐ到着する」

「分かったわ・・・お姉ちゃん」

思考が混乱をした。サヤカとリ・トモミが姉妹・・・

「せ・・・せ、つ、め、い、し、ろ!」

喉の筋肉もやられてはいるが、声は出せた。

「どんでん返しね・・・まあいいわ。船が到着するまでの暇潰しね・・・私とサヤカは血を分けた姉妹よ。私達は北支那の貧困家庭で育った。育ての親は私達をこき使うだけ使ったら、サヤカが八歳の時にあの子を台湾の子供が出来なかった家庭に売り飛ばした。私は十二の時より北支那の軍学校に入れられたわ。これも、奴等が政府から補助金を貰う為よ。以来、奴等とは会っていない。後で分かった事だけど、本当の親は共産主義に憧れて北支那に亡命した日系人らしいわ。でも、亜細亜連邦軍の誤爆で殺されたみたいね・・・」

リ・トモミは痛みの為か、一瞬話が途切れた。

「私は唯一の家族であるサヤカに会う為に軍学校で努力をしたわ。そして、サヤカの情報が手に入る可能性のある情報工作員になった。私の最初の仕事は建国大学に朝鮮人の偽造査証で入学し、満洲国の情報を収集する事だった。工作行為だったとはいえ、人生で初めて職務を忘れる程楽しい時間を過ごせたわ。諾門罕の天幕の中であなたから寝言でサヤカの名前を聞くまでは・・・」

ある科学者が、脳だけは筋肉でなくて良かったと言った。身体能力を殆ど奪われながらも、話だけは聞けた。

「偶然とは不思議なものね。呟いた名前の主を調べてみると、貴方が十歳の時に、台湾から赤坂の小学校へ転校したサヤカという名前の生徒がいた。決して珍しい名前ではないし、確証はなかったけど、直感で妹だと感じた。機会は来た。新京恐怖行為成功の後、満洲各地を逃亡し、ほとぼりが冷めた頃に北支那より次の指令が来た。東京に潜入し、アキヤマ機関及びユメミとイロミに関する情報を入手せよ、とね。東京に密入国してから微かな情報しかなかったけど、サヤカを探すのに然程苦労はしなかったわ。そこそこの有名人だしね。サヤカと再会して驚いたのは彼女がユメミだった事ね。これは私にとっても都合が良かった。誤算・・・そう結果的に誤算だったわ。それが、貴方の存在よ。貴方もサヤカと再会をしていた。そして、あなたは組織の人間なっていた。私はサヤカに頼み、あなたが組織の機密を入手する様に「イロミ」と言う言葉を伝えた。期待以上にあなたはよくやってくれたわ。「イロミ」を切欠に貴族院図書館に潜入し、我々の欲する情報を手に入れた。誤算はサヤカが本気であなたの事を好いている事と・・・そして、土壇場でのあなたの行動ね」

サヤカは顔を両手で覆っている。リ・トモミはアキヤマ機関と言ったが、多分、我々の組織の事であろう。

「・・・サヤカ、出血が酷い手当をしてちょうだい」

しかし、サヤカは動こうとはしない。

「サヤカ・・・もう少しで私達の工作船が来る。今はここで動けるのは貴女しかいないの。さあ、早く」

「お姉ちゃん・・・私、今の生活に満足してるの。タチバナ君がいて、お姉ちゃんがいて、やっと全てがまとまりかけていたのに・・・どうして・・・このままじゃ駄目な事くらい分かってるわ・・・でも、北支那に行ったからって・・・」

「サヤカ・・・あなたは選択をしなくてはならない。現状維持は回答じゃない」

「違うの!」

遠くから微かに発動機の音がする。音が止まると船が混凝土の波止場に当たる緋色の音がした。北支那工作員が乗った工作船が到着したのだろう。

「どうやら、迎えが来たようね」

船から黒い影が近付いて来た。影はリ・トモミと支那語で話しているが、早口でよく聞き取れない。多分、私とサヤカを連れて行くのか、処分するのかと相談でもしているのであろう。影の一つはリ・トモミの脚部にある傷口に鎮痛剤を打ち、止血をした後、トモミを抱えた。

「サヤカ、時間だ。行くぞ!」

影の一つがサヤカを連れて行こうとするが、サヤカは影の手を払った。

「やめて、離して!」

体に力が一切入らない。サヤカの毒は末端の感覚までも奪っている。

「構わない、連れて行け。そこに倒れている男も連れて行くわ」

私は黄土色の体臭のある男に抱き上げられた。人数がいない為か不安定な姿勢のまま運ばれている。視界が広がり、状況が確認出来た。先頭にリ・トモミを支える男がいる。サヤカは暴れていたが、男にみぞおちを殴られ、ぐたりとした状態で運ばれている。最後に私を運ぶ男が一人。それに工作船にも一人いる。工作員の位置は私の接眼で全て把握出来た。接眼は微かな信号を捉えた。後は・・・


ぱんっ


銃声が響くと同時に鋭い音が耳元で聴こえた。直後、生暖かい滑り気を背中に感じ、私は地面に放り出された。視線の先には男が一人、サヤカを放り投げ草むらに隠れている。その先にはもう一人、リ・トモミを大急ぎで運んでいる。再び銃声が響いた。草むらに隠れていた男はそのままの姿勢で動かなくなった。男が何やら支那語で叫び、次いで発動機の起動する音が響いた。リ・トモミを運んだ男は船に乗りこんだ様だ。蚊の鳴くような高い音が聞こえた。空に一筋の線が見え、それは船に吸い込まれた。次の瞬間、激しい閃光と爆発音が聴こえ、二つの影が上空に浮かぶのが見えた。船だったものは炎に包まれ暫く常闇を照らしながら進み、そのまま沈んでいった。


ちくっ


背中に痛みが走る。暫くすると末端に悪寒を感じ、それは次第に痺れに変わっていった。

「駄目です。未だ動かないで下さい」

リンコの声だ。

「あ・・・ああ」

「五分ほど横になれば大丈夫です。今回は大手柄ですね!」

「有難う。リンコさんが組織の情報防衛網を突破してくれたお陰で、こちらも自信を持って行動が出来たよ」

「いえ、私も組織の正体には興味ありましたし、情報防衛網が突破出来たのもトモコのお陰です。何だか自分の子供を殺めるような心持ちも致しました。けど、お陰で私も色々と分かりましたし、組織への興味が深まりました!」



私がトモミの提案を最初に聞いた時は魅力的に感じ、真剣に悩んだ。だが、冷静に成り、巷から溢れてくる北支那の噂を聞くにトモミの提案に対して疑義を覚えた。何れにしろ、北支那は蘇維埃と同様に国自体が情報封鎖をされており実態が掴み辛い。仕事の途中、北支那の情報をいかに取得するのかと思考を膨らませていると、この間訪れた貴族院図書館別館の事を思い出した。調べてみると上級調査員であれば一部書籍の閲覧許可が下りるようだ。私は再びそこに訪れた。そこには北支那関係の書籍や資料が、数こそ多くはないが、充実していた。機密扱いされている北支那の実情を統計、証言録、写真、地図などの一級資料を通して見るに、トモミの提案は幻想だと理解した。証言録の一つには、ある朝鮮人の男の話があった。男は共産主義に憧れ、満洲から北支那に亡命した。だが、北支那国内はこれといった産業がなく、国内は貧困、洗脳、言論統制、秘密警察、拷問が日常的であった。更に某の様な共産圏外から来たものは北支那では差別の対象となる為、平均以下の生活しか送れない。男は北支那を命からがら脱出したものの、北支那内に残した家族は処刑され、全てを失ったと書かれている。他の証言も似たり寄ったりで、北支那の実情は分かった。


次は組織だ。私はリンコに連絡を取った。組織の実態を知る事。それは私にとっても、リンコにとっても危険行動である。だが、組織の実態を知らない限り、サヤカを報告する選択はない。電子郵便での連絡も考えたが、内容が際どいので、直接リンコが研究をしている帝国大学界隈まで赴き、喫茶店で会う事にした。帝国大学迄は組織の地下鉄が便利で五反田より半刻程度で本郷に到着した。路地に入り少し歩くと、「純喫茶万定」と書かれた、ありふれた看板建築が見えた。入り口には天然果汁、早矢仕飯と品書が書かれている。硝子越しに度のきつそうな眼鏡をかけたリンコがいた。手前に携帯電脳を広げ作業をしている。店の扉を開くと電波放送から流れる橙色の昭和歌謡曲が聴こえた。彼女は作業に集中をしており、私に気が付いていないようだ。

「リンコさん、今日は忙しい中、有難う」

私の声を聞き、彼女は驚き顔を上げた。

「あ、タチバナさん!す、すみません、集中をしていて気が付きませんでした!」

「いや、僕の方こそ邪魔をした感じで」

「いえ、寧ろ此方の方こそ連絡有難う御座います。どの様に手伝えるか分かりませんが、タチバナさんのお話には凄く興味があります!」

「有難う。ただ、分かってるとは思うけど、この作業には危険が伴う。その危険は覚悟して貰う。その代わり僕が知っている情報は全部教える」

「生きてる限りは危険は何処にでもあります。何にせよ危険を回避するに越した事はないですが、慎重に取り組めば何とかなるものです」

「ん・・・似た様な事を前に聴いた様な気がするな」

「多分、トモコでしょう。私の声と共に思考法則も一部取り込んだので」

「たまに、リンコさんと話してると、トモコと話してる気がするよ」

「ふふ」

最初、リンコに会った時はそうは思わなかったが、多分、トモコが現実に存在していたらリンコと然程変わらないのではないかと思い始めた。

「さて。僕が知りたい情報は、組織が調査員から報告を受けた後、ユメミ・・・いや、『彼ら』がどうなるのかを知りたい。組織の独立網際に入らないと、情報は分からない。リンコさん、組織の網際に潜入出来る?」

「ええ・・・出来なくはないです。トモコを使えば何とかなります」

「トモコを使うか・・・分かった。頼む」

「分かりました。やってみます!その前に・・・タチバナさんが知っている組織に関する情報を教えて下さい」

「分かった」

私はこれまでに得た知識をリンコに教え、合わせてサヤカとの経緯も話した

「ユメミ・・・イロミ・・・そう言えば・・・私は東北出身なのですが、この間の震災が来る前に、ある沿岸部の村の住民が事前に避難していた為に津波の犠牲者が一名も出なかった、という話を聞きました。けど、その新聞は発表されて直ぐに閲覧が出来なくなりました。もしかしたら、何か関係がありそうですね・・・では、ささっとやりましょう!あ、その前にタチバナさんの携帯端末をお借り出来ますか?」

携帯端末を彼女に渡し、それをリンコの電脳と接続した後、リンコは見た事のない速さで指を動かし始めた。時たまに、よいわ、よし、うん、と言う様な独り言が漏れて来る。五分程その状態が続いた後にリンコが顔を上げた。

「出来ました!案外簡単に組織の中に入れました。組織の網際外部の防御は強力ですが、内部に繋がっている状態のトモコを経由すれば簡単に接続出来ました。ですが、長時間の接続は私達の痕跡が残ります。ですので、該当箇所の情報だけを摘出致しますね」

「頼む」

「はい。えっと、これと、これと、これで、よし・・・出来ました!情報読込に三十秒かかります。時間を過ぎたら、トモコを初期化します」

「え、初期化って?」

「はい。すみません話すのが遅れまして・・・痕跡を完全に消すにはこの方法が一番安全なのです。初期化をするとタチバナさんに合わせて作られたトモコの人格、機能や好みなども抹消されます。つまり、タチバナさんが最初にトモコと出会った時の状態に戻ると考えて下さい。慣れるまでに少し時間はかかりますが・・・」

日々細胞が更新されて行く中、今の自分が過去の自分と同一である事を担保する唯一の繋がりが記憶だとしたら、記憶が抹消される事はある意味、死を意味するような気がした。それは人工知能でも同じだろうか。だが、トモコの産みの親であるリンコの淡々とした反応を見てると、そこまで真剣に考えない方が良いのかも知れない。

「関係情報をタチバナさんの携帯端末に入れました。内容を確認してみますか?」

「そうだな、そうしよう」

電子情報書類を開けると、組織本部の見取図が出て来た。図面にはユメミ地下住居区と書いてある。縮尺から察するにかなりの規模を有する施設だ。広場、商店、娯楽施設などが書かれており、そこに都市機能が存在する事が想像出来た。

「ここに・・・ユメミが住んでいるのか?」

「その様です・・・これを見て下さい」

幾つかの写真情報がある、そこには活気のある商店街が写っており、被写体の表情も柔らかい。色取り取りの店舗。祭りの風景。公園に集う家族。居住区の図面も無機質な感じではなく、整理はされているが、建物の平面には微妙な遊びがある。

「これが・・・ユメミの住む街という事なのか?」

「タチバナさんでも写真を通じて特殊な色彩は観えないのですか?」

「うん。写真だと判断が出来ないんだ」

「そうですか・・・興味深い。あとはここら辺でしょうか?」

ユメミ保護に関する秘密法と書類には書いてある。それによると、国家知見の研究と発展、諸外国による拉致からユメミを保護する為に、亜細亜連邦内の各政府は最善を尽くさなくてはならない、とある。具体的には、ユメミのいる家庭に訪問し、身に迫る危機を伝え、親族分まで政府が生活の面倒を見る事を伝え、施設への潤滑かつ迅速な移動を補助すること、とある。あくまでも強制はしないとの事であるが、実態は不明だ。多分、移動を拒否して結果、諸外国に拉致されたユメミもいるだろう。寧ろ拉致とは気が付かず、トモミの様な誘いを受け諸外国に亡命するユメミもいるのだろう。また、潜在的な危険を知りながら日常を過ごすユメミもいるだろう。この選択肢の中であれば組織の保護を選ぶのが最善だ。

「これが・・・組織の実態ですか・・・凄いですね。ユメミだけの都市が地下にあるなんて・・・でも、サヤカさんを無事に組織が保護しても肝心のタチバナさんが会えませんよね」

「そうなんだ・・・でも、組織の人間ではあるから、一生会えなくなる訳ではない・・・」

「待ってください。ここの項目を読んでください!」

その項目には、ユメミ居住区への訪問許可資格と書いてある。それによると、組織の構成員、組織の研究に関わる研究員、技術者、軍の情報士官、特別な実績のある調査員などがある。私に該当しそうな項目の「特別な実績」の中には幾つか実例がある。その中に敵国工作員の殲滅という例がある。これだ!だが、私一人で殲滅出来るだろうか?

「僕がサヤカと居続ける為には実績をあげるしかない。その為に、北支那の工作員を利用する。けれども、一人では無理だ・・・武器と援助がいる・・・」

「武器ならば、三次元印刷で作られた殺傷能力の高い合成樹脂製の銃器の研究が帝国大学でされてますので提供出来ます!合成樹脂製ですので金属反応も出難いですし」

「本当か!後は狙撃手・・・ハルオがいる。しかし、ハルオが引き受けるかどうか・・・ハルオには・・・ユメミの恋人がいた筈だ・・・キヨコと言ったっけ・・・リンコさん、組織の施設で保護されてるユメミの名簿ってある?僕の同僚にハルオという男がいて、彼の恋人がユメミの筈なのだけど、一年近く前に大森区山王で組織に保護された筈だ」

「名簿は資料の中に・・・ええ、あります・・・キヨコさんが保護されたのが東京市大森区ですから・・・多分、東京中央の施設だと思います。凄い・・・東京中央だけで三千名も生活してるのですね・・・タチバナさんの仰る条件に合うのは一人。ちゃんといました!」

「ありがとう!僕はこれからハルオと連絡を取るよ!」


リンコと別れ、ハルオと会う予定を調整した。ハルオから見ると悩み多き後輩に見えるのだろうが、こちらとて形振り構える余裕などない。ハルオは寒いから、連雀町のまつやで蕎麦屋酒でもしようと提案した。悪くない。私は地下鉄を乗継、丸ノ内線に乗り換えた。政府の地下鉄から一般の地下鉄への乗換入り口はさり気なく通路の途中にあった。これが政府の地下鉄に繋がってると知らなければ、一生気にする事もなかったであろう。地下鉄銀座線と丸ノ内線が交差する神田駅は人で溢れている。これから呑みに出かける勤め人の浮ついた緑黄色の雰囲気が漂っている。ハルオとは店で待ち合わせる事にしていた。老舗が軒を連ねる神田でも、本当の老舗は案外と数が限られている。店構えだけ古風でも、実際はぽっと出だったり、大手飲食店が風情だけを合わせていたりする。その中に「まつや」があった。中は盛況だが、客も勝手を知っている感じで品良く酔っている。ハルオは紺の鳶外套で暖を取りながら先に端の席に座っていた。赤漆色の景色がハルオから観える。


「おう!冷えるな。先に玉子焼、板わさ、塩雲丹、焼き海苔と温燗頼んでおいたぞ」

「有難う御座います!ここの玉子焼を食べるのは初めてで楽しみです!」

「おう、表向きの肩書は執筆家っていう割には、まつやの玉子焼を食った事ないとは大した事ないな。まあ、良い。酒が来た。弥栄!」

「弥栄!」

使い込まれた縦縞模様のお猪口に湯気の立つ菊正宗がとくりとくりと注がれ我々は杯を交わした。酒と共に塩雲丹をちょこんと玉子焼の上に乗せて食べると濃厚な旨味と甘味、それらと酒の甘苦な味が溶け合い、えも言えない多幸感に包まれる。

「いつも眉間に皺寄せてるお前さんの事だ。先ずは食べて、酒でもちょいと飲めば気も落ち着くってもんだろ!」

「確かに落ち着きました。でも僕、いつもの眉間に皺寄せていますか?」

「おう。自分の顔をちゃんと鏡で見てこい。で、今度はどんな悩みだ?」

「はい。悩みというか、ハルオさんにも関わる事なのです。組織の事が分かりました」

「そうか・・・だが、俺はこれ以上組織の内実に踏み込む気はないぞ」

ハルオの表情は変わらないがある種の警戒感を感じた。

「それがキヨコさんに関係していてもですか?」

「どういう意味だ?」

キヨコという単語が出て来るとは予想だにしなかった様な顔だ。

「キヨコさんの安否が確認出来ました」

「無事なのか・・・」

「はい。無事です」

「そうか・・・それが聞ければ十分だ」

「本当に十分なのですか?キヨコさんに会いたくないのですか?」

「俺の中ではけじめの付いた事だ」

「そうですか・・・」

「周りくどい言い方は止めろ、お前は何が必要なんだ?」

「・・・僕はユメミと恋に落ちました。彼女は僕が本当に求めていた女性です。彼女と共に生きる道を模索しました。それは・・・跳躍しますがが、北支那工作員の殲滅です」

「えらく物騒だな。で、俺にそれの協力をして欲しいと」

「はい」

「腐れ縁ってやつだな。人の恋路の為ならば一肌脱ごう。お前と言う奴は俺を飽きさせないな。慎重に見えて大胆だ。面白い。今日は酒が美味いな!細かい話は後だ。飲むぞ!」

「はい!」

その後、ハルオと幾つか重要な作戦の骨子を決めた。先ず、この作戦は組織に通知せず、必要最小限の顔ぶれ、つまり、私、ハルオとリンコの三人で計画を実行に移す。武器の製作はリンコ、狙撃はハルオ、私が一番矢面に立ち戦闘をする。作戦自体は単純で、先に北支那工作員と私が接触し、移動先の位置をハルオとリンコに伝える。ハルオとリンコは私達を追い別個に移動先の場所に潜入し、敵殲滅の補助をすると言うものだ。サヤカには作戦の内容を一切伝えない方が良いと言う結論になった。確かにサヤカに話したら色々とややこしくなりそうだ。巻き込む事に罪悪感を感じたが、この作戦が成功すれば我々は一緒にいられる。


サヤカとは目白にある彼女の経営する骨董屋で会う事にした。サヤカの店を訪れるのは初めてであり、嘘も含めて伝える事に対する緊張と、同時に店を訪れる楽しみがあった。サヤカは午後から別件の仕事があるという事もあり、開店直ぐの時間帯に訪れた。

目白駅前には華族御用達の学習院、少し離れた所には大正時代からの高級住宅街である文化村がある。そこから広大な徳川邸に挟まれた地域は気の利いた商店が軒を連ねる。その商店街裏手は旧街道の名残を残した骨董街があり、サヤカの店もそこにある。店は昭和期の木造商店を改装したもので、看板には「古道具 彩」とある。字体が現代風で洒脱だ。店の暖簾を潜り、硝子戸を開けると、らくだ色の鈴の音がした。

「いらっしゃいませ・・・あ、タチバナ君!来てくれて有難う」

「前から一度来たかったんだ。凄く良い空間だね!」

心からそう思った。中は北欧風とでも言えば良いのか、合板材の棚が幾つか設けられており、その上に小粒ながらも魅力的な器が置かれている。土ものの器が中心で、民芸風の器も多く見受けられる。残念なのは余りに空間と器の相性が良い為、器をここから動かしてはいけない、という心持ちにさせる事だ。サヤカは黒の振袖を着ており、髪が綺麗に束ねられている。錠剤を飲んでない事もあるが落ち着いた水色の発光色に見惚れてしまう。

「ちょっと待っててね。お茶を淹れてくるわ」

「有難う。混み行った話だけど大丈夫?」

「ええ、午前中はお休みにしておいたから心配しないで」

よく見ると戸に張り紙で「本日の営業は午後より」と書かれている。サヤカが奥でお茶を淹れている間、陳列されている器を見て回る事にした。器をよく見ると和物のみならず、欧州連合から仕入れたであろう、阿蘭陀焼、英米辺りの泥漿焼など充実している。奥からきび色のお湯が沸く音が聞こえる。

「お待たせ!」

サヤカが発光色とともに現れた。黒い漆器の盆の上に備前焼風の急須と白磁の茶碗が二つ乗っている。

「高山茶を淹れて来たわ!タチバナ君が赤坂の家に遊びに来た時に呑んでいたお茶よ」

急須から、厚手の茶碗にお茶が注がれると懐かしい青葉色の香りがした。当時は香りの色が見えていた訳ではないが、この感覚が昔からあったかのような心持ちになった。素朴な茶碗から一口呑むと縁が唇に優しく当たり、爽やかな甘みが広がった。サヤカの寝室で二人寝転がりながら、会話もなく骨董や建築の雑誌を捲っていた日々を思い出した。私とサヤカの間は以前と何も変わらずにあるのではないか、そう思えた。

「お茶は勿論だけど、器も素敵だね。とても優しい飲み口で、何だか、忘れてた記憶が思い出せたよ」

「ふふ、良かった。これは、李朝の民窯白磁ね。育ての親の形見なの。昔から愛用していて。多分赤坂でも使っていたから、タチバナ君もこの器で高山茶を飲んだかも知れないわね」

「そうだね・・・今日は、サヤカに大事な話があって来たんだ」

「うん」

「僕はサヤカの事が好きだ。小学校の時に出逢ってから、ずっとサヤカの影を追い続けて来た」

「うん」

「そして、巡り会えた!」

「うん」

「僕はもう、サヤカと離れ離れになりたくない」

「有難う・・・嬉しいわ。私も・・・」

「だけれども、僕らを囲む現実は厳しい。それはサヤカから聴いたユメミの事を調べて行く内に分かった事なんだ。驚く事も多いかも知れないから落ち着いて聞いて欲しい・・・」

「分かったわ」

それから私は貴族院図書館で発見したユメミの事、リ・トモミとの事を掻い摘んで、ある部分はぼやかしてサヤカに伝えた。自分が組織の人間である事、組織がユメミを保護している事に関しては伝えなかった。流石に話が組織の事や北支那の事に成ると驚いていたが、サヤカは話を全般的には飲み込んだ様だ。そして、北支那と亡命の交渉をしたいという事を伝えた。サヤカには嘘をつく事に成ったが、作戦が成功すれば万事上手く行く。



「タチバナさん。もう大丈夫でしょう。動ける筈です。ハルオさんはあちらの廃墟の上で怪しい動きがないか確認をしております」

そう言うとリンコは私の肩に手をやり、起こしてくれた。彼女の柔らかな体が脇に触れた。そう言えば、サヤカは・・・視線の先には・・・いない。

「サヤカは?」

「気絶をしてましたが、外傷は特にないので放置していましたが・・・」

「いないぞ!」

私は接眼の照度設定を変更し、暗がりを見据えた。しかし、サヤカの倒れていたはずの場所に彼女はいない。工作船は既に沈んでおり、北支那工作員の屍が幾つか見えるのみだ。もう少し、視界を広げてみた。目を凝らし、移動する全ての物体を確認した。よく見ると僅かだが動く点が廃墟に向っている。

「リンコさん、武器はある?」

「私が護身用に持って来た、銃があります」

「借りるよ。後、ハルオにも連絡を取って援護をお願い出来るかな?」

「はい、勿論です」

銃を受け取ると、それはリンコ式だった。護身用とはよく言ったものだ。動き始めると体の自由が未だ効かない。無理をせずに一歩ずつ私は意識して歩き始めた。徐々に体が慣れてくるのが分かる。二つの点は未だ遠い。足に力を入れ、更に歩を進めた。点が止まった。何か言っている様だ。が、風と波の音でよく聞こえない。耳栓の音量を上げ、音声のみを摘出した。

「タチバナ、この距離からでもお前ならば私の声を聞く事が出来るだろう。これ以上、近寄るな!よし、聞こえたな。いいぞ。これ以上近付くとサヤカと共に私もここで自害する。もし、私達を見逃せばサヤカは私が責任を持ち安全を保障する。もし、サヤカの事を思うのならば私達を見逃してくれ・・・」

接眼にハルオより言伝が届いている。曰く、敵対象を補足した。これから駆逐する。とある。接眼の望遠を最大にした。よく見るとトモミがサヤカに拳銃を突き付けている。私は急いでハルオに連絡をした。「ぐたりとしている方はサヤカだ、傷を付けてはいけない」と伝えた。ハルオは「了解した」と、短い返事の後、銃声が響き影が二つ倒れた。よしっ。私は急ぎサヤカの元に急いだ。未だ呼吸がちゃんと出来ないのか、息が苦しい。小高く盛り上がった場所に二人が倒れている。一人は迷彩服を着て流血をしている、ハルオに狙撃されたトモミだ。サヤカはトモミの足にしがみつき、血で汚れている。

「サヤカ・・・ごめん、こんな事に巻き込んでしまって・・・」

ぱんっ

銃声が近くからした。腹部が熱い・・・

「・・・タチバナ君にとって、お姉ちゃんはただの北の工作員かも知れないけど、私にとっては掛け替えのない家族なの・・・」

サヤカの声は激情に震えている。銃声が再び響き肩を殴られた様な痛みを感じた。

「こっちに来ないで・・・」

そう言うと、サヤカは私に拳銃を向けながら、流血をしているトモミを抱擁した。

「何で全部壊したの?もう少しでみんな幸せになれたのに?」

私は言葉を失った。北支那の現状を伝えたところで、その言葉にどれだけの意味があるのか・・・

「私の平穏で静かだった日々が去り、貴方とお姉ちゃんが現れた。私は戸惑ったけど嬉しかったの・・・なのに・・・」

トモミがサヤカを利用していた様に私もサヤカを騙し利用した。

「さようなら。夢の世界で会いましょ」

サヤカの握る拳銃は私の眉間を捉えている。銃声が響いた。覚悟は出来ていた。が、痛みはない。最期はこんなものかと感じ、目を開けると、サヤカが倒れている。接眼にハルオからの言伝が届いてた。

「すまない。お前を見殺しには出来なかった」

私はサヤカに近寄った。懐かしい薄紫の香りがした。横を向いている顔の表情は長い髪で隠れており、髪を手で分けると、深い悲しみの表情が見えた。銃痕を探すと胸部が朱色に染まっている。サヤカの発光色が次第に薄らいで行くのが観じられた。上空から銀色の回転翼機による旋回音が聴こえる。音の方を振り向くと強い光が目を刺激した。その光は徐々に近付き、回転翼機の中から幾つかの影が降りてきた。閃光と影が交互に見える。身体中の力が抜けて、そのまま常闇に意識は沈んで行った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ