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帝都モダン  作者: 藤堂高直
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第六話 帝都編 浅草 丸の内

私はサヤカの手をゆっくり、力強く握っていた。この不安定な世界で離れ離れにならぬように。サヤカも手を握り返した。彼女の手は地上三十間に吹く風で冷えていた。次第に両の手は熱を伝え合い、滲み出る体液が混じり合う。

「不思議ね・・・同じ東京に住み。帝室博物館で偶然会ったのがこの間・・・」

「そうだよね。昔は伝えられなかったけど、尋常小学校の頃からサヤカの事が好きだ」

「有難う・・・私も好きよ。タチバナ君」

互いに指を絡ませながら、橙色の言葉が風に溶けた。全てが在るべき場所に収まった。私はここにいるべきなのだ。長い事、自分の中で欠けていた部品が埋まる・・・私達はどちらともなく、体を寄せ合い凌雲閣の手すりにもたれた。サヤカの豊かな胸の膨らみが当る。丸い瞳に吸い寄せられる。サヤカはその眼を閉じた。私はサヤカを抱き寄せ、軽くぎこちない紅色の口づけを交わした。


私達は手を握りながら、人気の少なくなった六区を適当に歩きいた。

「飲み直そうか?」

「・・・ごめんね。明日は早いの」

「そうか・・・駅迄送るよ」

「有難う」

名残惜しい心持ちもあったが、また会えるという未来への展望が私の心を晴れやかなものにした。我々は次に会う約束を交わし浅草駅でそれぞれの方向に分かれた。今では彼女の水色の発光色を愛おしいものに感じられた。



私は組織との規約を破り、後戻りの出来ない所まで来た。しかし、その緊張感は日々の生きる目的を与え、サヤカと次に会う約束の日まで妙に浮かれた心持ちが続いた。同時に「彼ら」に抱いていた恐怖のようなものはいつの間にか消滅した事に気が付いた。

サヤカと会う場所は最近改装された鹿鳴館に決まった。調査をする地域は事前に組織に希望をすればある程度融通される。トモコを通じて丸の内を調査地区に希望したら、無事にそこで調査をする事が決まった。


丸の内へ調査に行く日の朝、電脳を起動すると組織より電子郵便が届いていた。今日の任務に関してだ。開封しトモコに読んでもらうことにした。

 「お早うございます。御機嫌は如何でしょうか?脳波は安定しておりますね。何か良い事でもありましたか?さて、本日の調査地域はタチバナ様のご希望通り、東京市麹町区丸ノ内、旧皇居及び江戸城周辺と成ります。昨年再建が完了致しました本丸御殿と秋の特別公開がされております明治宮殿を重点的に調査せよとの指令が組織より来ております。丸ノ内は金融街ですので、洋式の勤め人姿で調査を為さるのがお勧めです。お仕事中に疲労を感じましたら昭和初期の内装が残る、純喫茶『miratiss』で珈琲でも如何でしょうか?」

「有難う。休憩には久し振りに『miratiss』に寄るよ。懐かしい場所だな」

「お店の写真を私も拝見致しましたが良い雰囲気ですよね。あと、鹿鳴館西洋食堂「キハチ」にて二名分の予約も出来ております。今日も一日頑張りましょう!」


 国鉄五反田駅から山手線内回りに乗り、新橋駅を過ぎた辺りから景色ががらりと変わる。丸の内高層建築群だ。この特別区だけは様々な規制緩和がされており、欧州連合、亜米利加大陸同盟、蘇維埃連邦、亜細亜連邦内の優秀な建築家達による作品が野外美術館の如く林立している。中でも仏蘭西の建築家が設計した亜細亜銀行本店は天空に向け建物が消えて行くような錯覚を覚える意匠で、視線がそこに固定されてしまう。

 昔、教科書で読んだことがある。丸の内一帯の高層化が始まった切欠は京都遷都からだ。その結果、宮城を仰ぎ見る心配がなくなり高層化が可能になったという。何にしろ、高層化の結果、首都と言う名目を失った東京は亜細亜連邦の金融中心地として復活した事に違いはない。


 国鉄東京駅に着いた。駅の内装は大正以来の意匠を残しつつも上手に近代化されており、玉ねぎ状の天蓋内部は人でごった返していた。特に平日の朝は洋装をした勤め人姿の人達の行き来が激しい。私も銀座で仕立た仕事着を着込み風景に紛れた。駅周辺は恐怖行為警戒の為か至る所に武装警官が見受けられる。東京は蘇維埃や北支那に隣接した満洲程の緊張感はないが、恐怖行為の標的である事には変わりなく、常に警戒態勢が敷かれている。


 駅を出ても、流石にここでは物乞いの類は見受けられない。駅前の広場は、背後に聳え立つ摩天楼の高さを際立たせている。私も一瞬その建築群に眼を奪われてしまう。駅前には四大国を含めた亜細亜連邦内の異なる肌の色、服装と顔立ちの民族達が行き来をしていた。調査をするのには些か人が多いが、旧皇居と江戸城公園に行くまで私はここで「彼ら」を探す事にした。

 街を行き来する人達の色合いは鮮やかだ。うこん色、韓紅、京紫、常盤色・・・その中で、未報告の青緑色に発光する日本人勤め人を一人見つける事が出来た。唯、余りに人の往来が多く動きが早い為、調査には骨が折れた。加えて、昨晩はサヤカと会える期待からか睡眠が浅く成り、始業二時間程で錠剤の副作用が出て来た。急いでも余り良い結果が出そうにないので、私は純喫茶「miratiss」で一旦休憩を取ることにした。


 純喫茶「miratiss」は丸の内建物の一階にあった。そこは昭和の初めに独逸人建築家ブルーノ・タウトが設計した家具を売る為に始まった店だ。文化的に多くの貢献をしたタウトが高崎で亡くなった後は家具や内装を活かし喫茶店として経営を続けた歴史のある店である。しかし、店の入る建物が老朽化の為に壊される運びとなり、銀座から丸の内に内装ごと移築された。

 青色の硝子の取っ手を開けて店に入ると焦茶色の高級煙草の匂いがした。内装はタウト特有の原色を用いた色彩感覚にあふれ、家具も手作りで味がある。これがタウトの言う所の「geschmack」かと思った。この店には文豪を中心に著名人がよく来る。私も「miratiss」が移設される前に一度、老齢の名俳優イトウ・カオルを見た事がある。

空いている席を探していると背後から「おい、タチバナ!」という聞き慣れた通る声が聞こえた。振り向くと、ハルオが丸眼鏡をかけながら分厚い専門書を開き、いかにも勉強をしているといった風でいた。私は注文を入口の付け台で終えると、ハルオが座る机に移動し、年季を感じる幾何学的な意匠の椅子に腰をかけた。形の割に座り心地がよい。

「よお、タチバナ!街で会うとは偶然だな。早目の休憩か?目のくまも酷いが・・・」

「ちょっと、睡眠が浅いせいか錠剤の副作用が出て来まして・・・」

「原因は女だな」

「え・・・!?」

「図星か。昔から親父の元に集まる色々な人間を見て来たから、結構そういう勘は当たる」

「まあ・・・」

「結構見かけによらずやり手だな」

「あ・・・ええと、ハルオさん。今日は非番ですか?」

「今日は非番だ、こうして余り仕事の役に立たない勉強をしている」

ハルオの読んでいる本が目に入った。ヴィトゲンシュタインの赤色本だ。本には付箋が多く引いてあり、ハルオの注記が書いてある。傍らには携帯端末が辞書代わりに使われていた。

「ヴィトゲンシュタインを読んでいるのですか?」

「ああ、咀嚼するのに時間がかかる類の本だな。人間的には酷い奴みたいだが、書いてある事は美しい」

「僕も大学時代、齧り読みしましたけど、彼の『論理哲学論考』は最初と最後しか分かりませんでした。それも何となくですけど」

「ヴィトゲンシュタインは相当詰まっているからな。特に『論理哲学論考』は一行に数時間はかけて咀嚼しないと読解は難しい」

「今日はずっとここで勉強ですか?」

「いや、これから組織の人間と会う予定だ。お前にも良い機会だから紹介しようか?」

「勤務中なので、余りここには長居する予定はありませんが・・・」

「十分後に来る予定だから大丈夫だろう」

「では、ハルオさんのお言葉に甘えて、挨拶だけでも」

サヤカに会う前に何か、彼らについて分かりそうな気がした。

「ハルオさんはよく、この店に来るのですか?」

「そうだな親父に連れられて、移築される前からよく来たよ。親父はここを打合せ場所に使っていた。胡散臭い骨董屋、政治家を利用しようとする官僚、政治家を使い利益拡大を目指す企業家、そういう私利私欲の塊が来た。俺は、そういった連中を親父の後ろから観察するのが何よりの楽しみだった。ある時、そいつらから俺は色を観じ始めた。親父に色を観じる事を相談したら、奇遇な事に、親父は俺らの所属する組織に関する立法に関係していたらしく、その繋がりで俺は共感覚検査を受けた。結果、政府公認の特別共感覚者第一号になってしまった」

「そうだったのですか!」

「大した事ではない。まあ、特別共感覚は以前からいたし、組織でも働いていた。そう言えば、実際に組織で働き始めたのは随分、後になってからのことだな」

「それまでは、どうしてたのですか?」

「まあ、色々とな・・・余裕だけはたっぷりとあったから。まあ、俗に言う高等遊民という奴だ。それはまた別の機会にでも話すか・・・」

華族の人間は政府から保護されてる事もあり大概が時間と金を持て余している。それが研究、政治、芸術、風流や文化の発展に向かえば良いのだが、往々にして屈折する場合が多い。建国大学の同期に葵の御紋の血族がいた。彼は女装と拳闘が趣味であった。某と女装した本人が合成写真で写っているものをさり気なく机上に飾るような人であった。それに比べるとハルオの人間観察は風流でも文化の発展にも余り寄与していないが健全に思えた。


珈琲と麦餅挟みが運ばれて来た。珈琲茶碗もブルーノ・タウトの意匠だ。酸味の少ない珈琲からは地中海の青を観じた。肉体の疲労感が解れる。麦餅包みは伊太利亜風で麦餅の両面に付いた焦げ目の食感が良く、挟まれた乾酪が蕩けて美味しい。互い会話もなく、ハルオは勉強に、私は食事に集中をした。ぼんやりとした頭に血が巡り始めた。

「そういえば・・・ハルオさん、僕が仕事を始めたばかりの頃はよく珈琲を飲めと仰ってましたよね」

「ああ、錠剤による疲労は珈琲が中和してくれる。それに仕事中でも飲めるしな」

「この仕事をするまで僕は珈琲が少し苦手でした。今では、ハルオさんのお陰で調査の度に新しい珈琲店を探すのが半ば趣味になりました」

「そうか・・・何にせよ、お前とこうして珈琲屋で遭遇した訳だしな」

「そうですね」

「疲労の中和と言えば、俺は瞑想とたまに霊気治療も受けている。あれは悪くない。お前もきつくなったら色々と試してみると良い。他の調査員は、精神安定剤、栄養飲料、印度医療、中医療なんかも受けているみたいだな」

「珈琲屋巡りに飽きたら試してみますよ」

 他の休息方法も一瞬思い浮かべてみたが、東京中に散らばる趣味の良い珈琲屋を巡る方が好みに合った。ぼんやりと漆黒の液体を眺めていると、サヤカの顔が浮かんで見えた。雑念を払うべく、一気にそれを飲み干した。


扉が開く音がした。振り返ると懐かしい顔があった。満洲で私の共感覚検査をしたリン・シユウだ。満洲には余り良い思い出がなかったが、彼との再開は悪い心持はしなかった。仕事着の上に灰色の西洋羽織を着て、帽子を斜めに被っていた。以前会った時と印象が異なるのは口ひげを伸ばしたからだろうか。彼の色は仕事着と同じように中性的な鼠色をしていた。

「ああ、タチバナくん!満洲以来だね」

「お久しぶりです。まさか組織の人間として勤めているとは知りませんでした」

「私は最初から組織の人間だよ。タチバナ君の検査を終えた後、私は東京本部で勤める事になった。今も思い出すが、君の特別共感覚の官能はとても高い水準にある。それ自体がひとつの才能だ。組織の為・・・いや大東亜連邦の為にその力を活かしてくれて嬉しいよ」

「有難う御座います」

「それに陰険と粘着質だけが取り柄のような満洲国憲兵による監視も、我々が終わらせる事が出来て良かった。君は満洲国から継続的に監視されていた。我々による調査の結果、君の潔癖は証明され、憲兵の監視対象から外す事が出来た」

私は新京から離れた後も憲兵の監視が続いていたとは気が付かなかった。

「お前・・・満洲でやんちゃしてたんだな。反政府運動か?それにしても、吃驚しましたよ。リン局長がタチバナをご存知だったとは」

「うむ、いかにも。組織と言っても、何とも狭いものじゃないか!」

と言いリンは豪快に笑った。

「タチバナ君も組織入って、確か二年近くになるのかな?機密事項が多くてやきもきすると思うが、君も必要な情報は順次知るようになる。あぁ、それと君に良い知らせだ。二年に及ぶ勤労と成果により、君を調査員から上級調査員へと昇格する事が昨日、組織の委員会で決まったよ」

「有難う御座います!」

「努力と才能に報いる。組織として当然の行いだ。肩書は変わるが職務内容や権限は殆ど変わらない。詳しい詳細は近い内に連絡がくるだろうから、引続き頑張ってくれ!」

と言い、リン・シユウは私の肩を軽く叩いた。

「はい!ですが・・・組織の一員として働くからには、自分の役割を自覚的に行いたいのです」

「自覚的に・・・とは具体的にどういう意味だね?」

リン・シユウの口調は穏やかだ。目つきも変わらない。が、空気が凝固し始めた。相変わらず彼の色彩は鼠色にしか見えない。何か色彩の変調でもがあれば、相手の感情の起伏も読み取れそうなものだが・・・

「『彼ら』とは何者なのでしょうか?」

「『彼ら』に関してはタチバナ君もご存知の通り組織の極秘事項だから、君が知っている以上の事は言えない。が、こういう言い方は出来るだろう。『彼ら』の存在は特殊な色彩として認識されるが、それはその対象の持つ資質に起因している。そして、その資質は亜細亜連邦の国益に叶っている」

「有難う御座います」

結局、何も分からなかったが、「国益」と聞き焦点は定まったような気がした。ハルオが私に眼で促した。私は軽く挨拶をして、「miratiss」を去った。店の中ではハルオとリン・シユウが何やら真剣そうに話している。


丸の内から歩いて、江戸城公園へと向かう。松は凛として濃い緑だが、石垣の向こうは葉が落ちて冬景色だ。クスノキ・マサシゲ像を片方に眺めつつ、正門石橋前へ進むと、明治宮殿入場用の拝観券売り場には戦勝世代を中心に長蛇の列が出来ていた。彼らは哀提伯戦争、第二次欧州大戦、支那戦争や第二次太平洋戦争の後に内地へ服役した兵隊らの次世代に辺り、安定性長期に就職した。学生時代にイシワラ・カンジの「国民の常識」に感化された世代でもあり、右寄りは「大東亜主義」を掲げ、全体主義的政策と生存圏の確立を叫んだ。自由主義者は玄洋社や黒龍会の掲げる「大亜細亜主義」を合言葉に亜細亜の連帯を主張し、亜細亜植民地の独立運動に関わった。その一方で、北支那や蘇維埃に共感し共産主義暴力革命軍を組織する連中もいた。彼らは乱闘を繰り返し、死者も随分出た。だが、安定成長の中、経済が上向くと皆就職をして、騒ぎも静まった。定年後も妙に脂ぎっており、毎年雪山を無理な軽装備で登山しては遭難し救難部隊に迷惑をかけたり、自動車暴走事故を頻繁に起こしている。彼らの色彩も、服装と同様に派手な天然色なのだが、何処となく紋切型にも観えた。彼らの中に『彼ら』は認められなかった。


正門石橋を渡り、旧皇居正門を抜け、左手に江戸城の代用天守閣である富士見櫓を見つつ正門鉄橋を渡ると、明治宮殿が見えて来た。宮殿の銅葺の屋根が重厚な印象を与える。宮中御車寄が拝観入口らしく、再び列が出来ていた。並ぶと戦勝世代は私を見て、平日の日中に何をしているのだ、とでも言いたいような視線を寄越して来た。こちとら仕事なのだ、と言いたくなる。

列はゆっくりと宮殿内へと向かう。ここに来るのは、そう言えば尋常小学生で受けた国史の課外授業以来だ。廊下を歩くと、十五年前も同じ場所で隣にサヤカがいた事を思い出した。薄暗い宮殿内には明治を代表する日本画家の作品が一同に集まっていた。明治カノウ派を中心に襖絵が描かれている。私が襖絵を模写していると、サヤカが後ろから覗いてきた。彼女の甘く柔らかい吐息が首筋に当たった。帝国憲法発布が行われた正殿に近づいて来た。国史の教員が帝国憲法に関して説明をしている。憲法と憲法典の違い、イトウ・ヒロブミとシュタイン博士の交流、古事記より受け継がれた「しらす」などの価値観・・・私はその話よりも直ぐ隣にいるサヤカと肩が触れている事が心地よく、時が止まれば良いと思った・・・

「おい、あんた!ぼおっとしてないで、さっさと進めよ」

はっとなると、前の列との間に随分と距離が出来ていた。声をかけた相手は私をじっと睨んでいる。取敢えず頭を下げて列に戻った。豊明殿、千種間では、記憶が蘇る事はなかつた。


 明治宮殿を後にした私は二重橋前に出て、お堀を一周する路面電車に乗り、今日の最終目的地である江戸城本丸御殿に向かう。平日の路面電車利用客は先の老人達以外に勤め人が多くいた。車両は二重橋前を離れ、お堀沿いに出ると、散歩をする人々とその背後に見事な塀が見えた。昭和三十年代から明治期に失われた塀や櫓の殆どが木造再建され始めた。その結果、文思の始めには江戸城は往時の姿を取り戻していた。但し、天守台は議論の結果、史跡的価値から天守閣は設けないという保守派の方針が通った。お陰で今も昔のままの美しい御影石の姿で天守台は保存されている。革新派の意見が仮に通り天守閣が設けられていたならば、その美しい天守台は破壊され、俗悪な天守閣が建っていたであろう。

電車は大手門前に着いた。大手門を抜け下乗橋を渡ると二の丸庭園が見えた。そこでは江戸初期のコホリ・エンシュウが作庭した鋭角な形の庭園への復元が進んでいる。二の丸御殿の再建も決まっており完成が楽しみだ。市民に無料公開をされている江戸城公園には余り観光客はいなかった。公園内の長椅子には遅い昼休みを取る勤め人が日向ぼっこをしている。

中之門を抜け、坂を上ると本丸御殿が見えた。再建された御書院大門の先に表玄関がある。表玄関脇の入場券売り場で国民証を提示して無料の入場券を手に入れ、表玄関から御殿へと入る。御殿は大規模な建造物で再現に二十年近くかかった。流石に時間をかけただけあり細部まで見事に再現されている。御殿の内部には江戸城由来の展示品がある。全体的には常設展示よりも、企画展示が多い。季節は晩秋という事もあり、散逸していた江戸城の屏風が展示してあった。季節限定公開しかされない明治御殿とは異なり、本丸御殿は常に開いている事もあってか、閲覧する人も疎らだ。ぶらぶらと展示品を観て回る内に、大奥に入った。案内の矢印は天守台を指している。案内に従い奥を抜けて行くと、視界が開け天守台が見えた。大振りの御影石が美しい。階段を登り天守台の上に立った。そこからは本丸御殿の屋根と、遠くに丸の内摩天楼群が見えた。長椅子に腰掛けると、とみに一日の疲れが出た。

落ち着いて思考を巡らすと、サヤカと仕事との折り合いの難しさに心が巡った。組織はサヤカを含む「彼ら」に利用価値があると考えている。私はサヤカと平穏な生活をしたい。組織とサヤカの両方を選ぶ事は出来ない。サヤカと一緒にいれる時間がいつまで続くのか。そして、いつ終わりが来るのか・・・兎に角、私は「彼ら」が何者で、組織の目的を知り、自分の行動の自覚が必要な気がした。私は余りにも、自身の行動に無自覚過ぎるのだ。

「お疲れのようですが、大丈夫ですか?」

トモコが、鼓膜にどこか懐かしく感じる声で話しかけて来た。彼女とはこれ迄一度も会った事がない。が、いつも声を聞いているから心安いものを感じるように成っていた。そう言えば、トモコと仕事以外の話をこれまでした事がなかった。

「大丈夫だ。色々と考え事をしていたんだ。仕事の事ではないけれども、相談出来るかな?」

「ええ勿論!私で答えられる事であれば何でも聞いて下さい」

「抽象的な質問に成るけれども、危険を伴い、終わる可能性のある幸福と、危険のない平坦な生活。二つの選択肢がある場合、トモコは何方を選ぶ?」

「難しい質問ですね。但し、何も危険はあると思います。何の選択をするにせよ慎重に危険を回避する努力を続けるに越した事はないと思います・・・」

「トモコらしい答えだ。少しすっきりしたよ。ありがとう」

「いえいえ、何時でも聞いて下さい!」

 接眼で時間を確認すると、就業の時間はとっくに過ぎていた。空の色が寂しくなり始めた。私はサヤカに会うべく電子接眼を外し、待ち合わせをしている帝国旅館ライト館前広場まで急いだ。


サヤカの発光色は遠くからでも視認出来る鮮やかな水色だった。まだ錠剤の効果が残っているのか、彼女の照れたような表情がそうさせてるのかしらんが色が強く観じられた。彼女は笑顔で大きく手を振った。最初に帝室博物館で会った時よりも寒えている為か彼女は厚手の羽織を着ており、吐く息は白い。

「やっほ。タチバナくん!寒くなったね!」

「寒いね。雪でも降りそうな冷気だ」

「ふふ、そうね。いっそ降ってくれた方が、東京もすっきりするのにね」

「そうだね。で、今日は取材の下調べも兼ねてで申し訳ないけど、改装を終えたばかり鹿鳴館に予約を入れておいたよ」

「有難う、私もどのように改装されたのか興味があったの。予約大変じゃなかった?」

「執筆業の特権を使ったんだ!」

正確には組織の特権である。幾つかの公共施設は組織の人間だと優待される。私達は待ち合わせたライト館前を抜けて隣接した西洋式の柵沿いに歩き、日比谷通りに出た。サヤカとの間には温かな距離があった。東京三大門として名高い葡萄色の印象のある薩摩藩邸黒門が見えた。ここが鹿鳴館の入り口だ。門を抜けると対照的に発光半導体素子で照らされた小綺麗な鹿鳴館公園が見えた。鹿鳴館の所有者は転々としたが、最終的には再び国に戻り、明治期の建築物としては明治御殿に次いで国宝指定され保存が決まった。改装の際、昭和期に建てられた周囲の建築物が撤去され、鹿鳴館も明治東京地震以前の意匠に戻り、当初の計画に近い形に公園は戻されていた。街頭の照明も瓦斯灯のような柔らかい光に調整されている。それらは葉の落ちた木々を優しく照らしている。

「わあ。綺麗ね」

「そうだね。この間までの放置されていた状態から比べると可也良くなったと思うよ。隣の帝国旅館も低層だから、空も広くてこの辺りは好きだな」

「確かに府心では見られない開放感があって、私も好きよ」

「東京って大きな街だから、いまいち纏りがないし、全部が好きになれる訳でもないけど、最近は自分の好きな場所を繋げて行くと自分だけの東京出来る感じがするんだ」

「その気持ち分かるわ。私もブルーノ・タウトが批判した銀座辺りの煩い街並みは嫌いだけれど、下町情緒の残る浅草は好きだし、この辺りの整理された街並みや現代建築も好きよ。自分だけの東京って良いわね。何だか私の夢で観た東京みたい」

「夢の中の東京はどんな場所なの?」

「そうねえ。夢の中の東京かあ・・・最近はタチバナ君と会った日の夜に浅草にいる夢を観たわ。向こうも活気があるけれど、こっちと違ってもっと猥雑な感じね。雷門の前は規制をしてないから車の往来が激しいし、凌雲閣もなかった。驚いたのは五重塔の位置がずれてるの。不思議に思ってそれを触ると混凝土製で、他の建物も全て混凝土で出来てるの。形はそっくりなだけに不気味だったわ」

「不思議なものだね。もう一つの東京がこことは別にある感じなのかな?」

「あると言っても私の夢の中にしかないけどね。でも夢の中なのにこっちよりも味気ないなんて、残念だわ」

「確かに残念だ。もっと、魅力的な東京ならば良いのにね。全部、シラカワが悪い」

「そうよ!シラカワが悪い!」

ここは日比谷公園と共に会社を終えた勤め人達の憩いの場でもあった。所々に街灯に照らされ、中央の噴水沿いに歩く恋人達が見受けられた。吐く息が白い。サヤカは私の手を軽く引き寄せ肩を寄せ合った。

鹿鳴館が見えた。西洋古典様式建築の持つ凹凸が照明で浮かび上がる。正面の迫持窓の合間から時代の目撃者である古風な吊り照明が見えた。教科書でよく見る建物ではあるが、何度見ても記憶の印象よりも小さくて驚く。中に入ると、中央階段の上から、がやがやと声が聞こえる。二階で宴会があるらしく、平日の夜なのに凄い人気だ。地階は博物館として使われており、奥の食堂は現在、鹿鳴館食堂「キハチ」という西洋料理屋として経営している。雰囲気が良い割に安くて美味しいと評判の店だ。店の扉を開けると、中から葡萄酒と肉の芳ばしい香りが漂った。席は殆ど埋まっている。私達は予約をしていた窓際の席に案内された。

「中も綺麗に改装されてるわね。以前は古ぼけた印象だったけど、写真で見た往時の賑わいを取り戻した感じね」

「そうだよね。建物って作られた当時の姿が完成形の場合が多いみたいで、古くなった姿はあくまで結果的にその姿になったと思うんだ。鹿苑寺の金閣も最近金箔を張り替えたよね。巷では渋くないとか、安っぽいとか批判も多いけど、僕はあれで良いと思うんだ。あ、でも、仏像は色が禿げてる方が頑張ってる感じがあって好きだな」

「分かるわ。・・・ねえ、今度仏像でも見に上方辺りへ一緒に行きましょ!」

「そうだね」

「約束よ」

「約束だね!」

品の良い風味で定評の改良甲州種で作られた赤葡萄酒の小瓶を一つ、料理は本日の定食を注文した。耳を澄ませると基督誕生祭に纏わる曲を演奏者が鍵盤で弾く朱色の音が聴こえる。紅石色の液体が硝子に注がれた。

「今日は基督の誕生祭だね」

「あら、そう?」

「うん。じゃあ、向こうの言葉で祝いの意味を込めて、Joyeux Noel!」

「Joyeux Noel!」

僕らは葡萄酒を口に注いだ。しっかりとした酸味、苦味が舌の中程で広がり、群青色の天鵞絨の如き余韻が幾層も続く。

「日本の葡萄酒も美味しいわね!」

「案外、馬鹿に出来ない」そう言い、私達は微笑んだ。

「ねえタチバナ君。相談出来るかな?」

「勿論」

「・・・夢の話をしたでしょ。実はこの話を人にするのはタチバナ君が初めてで。何というか、貴方なら私の相談の意味を理解出来るかと思うの」

「うん。努力をするよ」

「ふふ。心強いわ。じゃあ、相談するわね。私ね、物心付いた時から同じ夢を何度も見て来たの。そこは東京なのだけれども此処とは色々と違うの。例えばこの前話したみたいに混凝土の建築しかなかったり、食器や買物袋も合成樹脂製品で、色合も妙にけばけばしくて、街の雰囲気も殺気立ってるわ。それと此方と違い外国語がそこら中に溢れているの。安定成長期に仏蘭西の国語政策に習って外国語規制が始まったけれど、彼方は何でもありね。年号も違っていたわ。調べると昭和天皇が昭和六十四年に崩御さているの!年号も文思ではなくて、平成。どうやら、私の頭の中にもう一つの東京・・・いいえ、世界があるみたい」

「驚いた・・・昭和は七十年迄続いた筈なのに。もしかしたら、僕らの世界と何処かで枝分かれしたのかな?僕は・・・信じるよ」

「有難う。そして、今更だけど、ごめんね。尋常小学校ではタチバナ君が別の世界に行ったら嫌だなと思って・・・それで、繰り出し鉛筆で貴方を突いていたの」

「え?あ、そうだったんだ。痛かったけど、案外突かれる事を期待してたりしたんだよ」

「嫌だ。貴方変態だわ・・・兎に角、夢の中の話だから確証はないけど、彼方の世界、ええ、彼方の世界では第二次世界大戦と言う聞きなれない戦争があったみたいなの。どうやら最初は第二次欧州大戦の間違いかと思ったけど、日本も巻き込まれていて、昭和十年代後半に英米と戦争に突入したの。それで大敗北。三百万人近い国民が犠牲になり、国中が焼け野が原・・・」

「大学で、その辺りの歴史は勉強して僕なりに思考を巡らせたけど、今の僕らがいる日本は薄氷の上の綱渡りの結果だという結論に達したんだ。それこそ、共産主義者の陰謀による敗戦革命や戦勝革命という状況も想定出来て・・・もしかして、夢の中には他の世界もあったりした?」

「うーん・・・他の世界は見てないわ」

「そうか・・・何だか、すごい話だね。俄に信じ難いけど可能性としては否定出来ないな」

「そう言って、貰えるだけで嬉しいわ」

「そういう世界の存在を把握してるのはサヤカだけなのかな?」

「どういう事?他にも私みたいな人がいるかも知れないという話?」

「僕みたいに共感覚を持っている人間がちらほらいるみたいに、サヤカと同じ特性を持った人が他にいても不思議ではないなあ・・・と思って」

「うーん、よく分からないわ。でも、一度だけ街を歩いていたら、知らない青年から『お前、ユメミだろ』と言われた事はあるわ。私気持ち悪くてその場を走り去ったけど、今考えると、ユメミって私の特性の名前っぽく聞こえると思うの。どうかしら?」

「ユメミかあ、僕も初めて聞くなあ。ちょっと調べて見るよ」

「有難う。共感覚みたいに、それが普通のある一定の人に起こり得る事と分かれば安心出来るわ」

「そういうのを調べるのも売文屋の仕事だから。少し時間をくれるかな?」

「ええ、何だか長い事つっかえていたしこりが解れた気分だわ」

私達は洋食屋の食事をゆっくりと食べた。味もさる事ながら雰囲気が素晴らしく食は進んだ。サヤカの不思議な夢の話は大学の研究と重ねると合点がいった。ユメミという言葉は初めて聞いた。もしかしたら、組織に所属しない特別共感覚の持ち主がサヤカに声をかけたのかも知れない。その先に「彼ら」の正体、組織の目的、それらが全てが繋がるような心持ちがした。

窓硝子の先は優しく照明で照らされていた。サヤカは軽く酒が入ったからか血色も良くなった。多分、一人で夢の事を解決しようとずっと頑張っていたのだろう。私はサヤカの一助になれる事に良い心持がした。

会計は私が済ました。サヤカも支払おうとしたが、それは次会うときにして貰うことにした。鹿鳴館の扉を開けると強い風が吹いた。私が先に行こうとすると、サヤカは「寒いわ」と言い私の手を掴んだ。さっき迄店の中にいたはずなのに、彼女の指は冷たかった。彼女は沈黙する。私も沈黙する。お互いに言葉は必要なかった。過ぎ去った時間。別れ。再開。彼女は多分、私の事を思ってくれていてくれた。その実感が心を温めた。

私達は公園の中をゆっくりと歩いた。本当に静かだ。僕ら以外に人は見当たらない。彼女の手が温まり、水色の光が明るさを増した。二人は手を繋ぎながら、指を絡ませた。黒門が見えた。私達は自然に向き合い抱擁をした。そして、互いの柔らかな唇が触れ合い、サヤカの熱い粘液で覆われた舌が絡まる。彼女口膣からは上質な松露の味がした。

「帰りたくないの」

「僕の・・・家に来る?」

サヤカは恥じらいと共に軽く頷いた。日比谷通り沿いには多数の旅客車がおり、適当に一台を捕まえた。車窓の硝子越しに看板建築の光や新年の飾りが見える。途中の新築工事現場には南支那出身らしい作業員が働いている。先には豪勢な徳川家霊廟の二天門、続いて増上寺の三解脱門が見えた。向かいには近代的な障子硝子で改装された芝区役所がある。

昭和二十年代の終わり頃から発展の中心は日本国から独立間もない満洲国へと移った。その間日本は、タカハシ・コレキヨの経済政策路線を引き継いだ、イシバシ・タンザン、カヤ・オキノリ、そしてイケダ・ハヤトと経済に明るい総理大臣が日本国の安定成長を支えた。そのお陰もあり、関東大震災以降にゴトウ・シンペイの進めた東京の都市計画は完成した。昭和三十年代に成立した景観保全法成立以降は、今の東京に見られる江戸以来の連続性を感じつつも、斬新な建物が共存出来る都市景観が誕生した。

猥雑な五反田駅前を抜けた先の高台に特別条例で高層に建てられた我が住処が見えた。

「此処が僕の住んでる高層住宅なんだ」

「すごい・・・こんな立派な所に住んでたの!」

「うん。まあ、色々と縁があってね」

旅客車を降り入口玄関を抜け自動昇降機に向う。自動昇降機の扉が開き、私達は四階で降りた。廊下から山手線車両が、かたことと音をたてながら光の弧を描いている。鉄戸を開けて部屋にサヤカを招いた。室内はサヤカにいつ見られても恥かしくない様に整理はしておいた。彼女は化粧室へ行くと言うので私は鏡の前で簡単に髪を直し、顔と手を拭いて、棚に置いてある火酒の山崎と蒸留酒用に使う古唐津のぐい呑、そしてサヤカの為に江戸の吹き硝子を机の上に用意した。この古唐津は皮鯨と呼ばれており、淵の黒く滑らかな釉薬が琥珀色の液体と相性が良さそうだ。江戸の吹き硝子は淡黄色で鉛を多く含む為、叩くと澄んだ音がする。音楽は東京楽園楽団の中でも静かな音盤を選んだ。まだ、少し時間に余裕がありそうなので蝋燭に火を灯すと、サヤカが化粧室から発光色と共に出て来た。

「あら、素敵な音楽ね」

「多分、好きかと思ったんだ。何飲む?お酒?それともお茶にする?」

「じゃあ、その美味しいそうな火酒と炭酸水を頂けるかしら」

「勿論」

冷蔵庫より奥会津の天然炭酸水を取り出し、缶蓋を開け硝子杯に注いだ。次いで火酒を少量江戸硝子の器に注ぐ。琥珀色の甘い香りが広がる。私も同様に炭酸水を少量硝子杯に入れ、古唐津に火酒を多めに注いだ。

「タチバナ君の部屋って案外さっぱりしてるのね、もっとごった返してる印象を勝手に想像してたわ」

「そうかな?ものが少ないのはこれまで何度か引越しをしたからかも知れない。引越しをする度に荷物が不思議と少なくなる。多分、身軽に成ろうとしたからかな?」

「それは今も?」

「うん。荷物は少な目にしてる。けど引越は考えてないよ。サヤカのいる東京は好きだし。一緒にいたいな」

「ふふ、有難う」

私達の間に会話がなくなった。お互いに指先をゆっくりと絡め合い、人目を気にせず、ゆっくりと深く舌が溶け合った。私達は立ち上がり体をきつく寄せ合った。彼女から薄紫の香りがした。眼を開けると、私の体もサヤカと同じ青白い発光色に包まれていた・・・



私は混凝土の建造物に囲まれた街の真ん中にいた。側面にはけばけばしい色合いの看板が所狭しとある。人も多い。彼らは皆、洋装をしており、和服を着ているものは一人もいない。彼らの顔は同胞の顔ではあるが、何処か気の抜けた炭酸水の様にしまりがない。ここは何処だ?何となく見憶えがあるのだが、定かではない。私自身も同様に洋装をしている。藍色の洋袴に襟付きの上着という出で立ちだ。

ちくっ。

背中を鋭利なもので突かれる感覚がした。

「見いつけた!」

後ろを振り返ると、サヤカが繰り出し鉛筆を持ち、同じく洋装でいた。胸元が大きく開いており目のやりどころに困った。

「ようこそ。こちら側へ!こうやって人を連れて来られたのは初めて!」

「それより・・・サヤカ、その服は・・・何というか刺激が強いよ」

「あら、こちらではこの格好が普通よ」

「こちら・・・僕も・・・来てしまったんだ・・・ここは東京?」

「ええ、東京よ。多分、五反田辺りじゃないのかしら?折角だし、デートでもしましょ?」

「デート?DATE・・・日付・・・いや違う・・・棗椰子?」

「ああ、御免なさいね。棗椰子ではないわ。逢引とか、逢瀬の意味だけれども、そこまでこそこそしてない感じかしら?」

「確かに便利な言葉だね。じゃあデートをしよう!でも、こちらの東京では何処の辺りがデートをするのに良い場所なのかな?」

「こちらの世界の代表的な地域なら、渋谷辺りはどうかしら?」

「渋谷かあ・・・行ってみようか?」

「まあ、色々と面白いものが見えるから驚くと思うわ」

私は渋谷が逢瀬をするのに最適な場所であるとの想像が中々出来なかった。改札口で乗車券を買おうとしたが、金額が大きくて驚いた。財布には近代の文豪や教育者の肖像が描かれた桁の大きなお札がある。それはまるで中世、近世が日本になかったかのような感じがした。少なくとも、近代ならば日露戦争の英雄トウゴウ・ヘイハチロウ、近世の基盤を築いたアシカガ・ヨシノリ、元寇から日本を防衛したホウジョウ・トキムネが辺りがいても良さそうなものだが・・・

山手線の車両自体は大きな違和感はなかった。車窓から見える街並みは、色の少ない冬の光に照らされると、灰色の沼にでも沈んでいるかのように観えた。灰色の景色は密度を増して来た。車両の中は混み出し、サヤカは私の服を掴む。車内放送によると、もう直ぐ渋谷駅に着くみたいだが、車両内の電光掲示板に表示された駅名が読めない。羅馬字で確認すると確かにSHIBUYAと書いてある。よく見ると、漢字が妙に簡略化されている。この妙な漢字は敗戦や占領を経た結果かも知れない。電車が駅に止まると車両からは物凄い数の人が降りた。私はサヤカと離れ離れに成らぬ様に手を握り、構内に出た。人の畝りの流れに乗り、屋外に出ると四方あらゆる場所に電光掲示板があり、そこから大音量で音が流れている。それに負けぬ勢いで両脇から政治主張も聞こえる。


「ブライト・フューチャーをクリエイトするためのインベストメント!」

「原発反対!」

「父に感謝♪母に感謝♪YEAH♪」

「スカパラの新境地!ニューアルバム!ナウオンセール!」

「憲法九条を守れ!」

「中国は尖閣の侵略をやめろ!」

「君の事を〜♪僕は忘れない〜♪」


「タチバナ君、大丈夫?」

「・・・うん。ただ、サヤカの胸元以上にここの刺激が強いなあと思って」

「ふふ、直ぐに慣れるわ」

信号の色が変わると、四角から人の波が動き始めた。色々な髪の色をした人が見える。異邦人ではない。邦人が髪を染めているみたいだ。色を観ると、赤、白、黄、青、緑、紫、黒、橙、赤紫、あらゆる色が津波の如く押し寄せてくる。

「顔色悪いわ、本当に大丈夫?」

「ごめん、刺激が強すぎたみたいだ・・・」

「少し休みましょ」

俄に人波が柔らかになって来た。見たことのある建物がある。ここは道玄坂だ。だが、それらの見慣れた建物も新築の建築に挟まれており、歯抜けな感じがした。百軒店の入口を示す看板が見えた。私が知っている百軒店とは異なり、此方ではHOTELと表記された建物が多く、雰囲気から推察するに連れ込み宿街のようだ。名曲喫茶獅子が見えた。が、名前は獅子ではなく、LIONとなっている。外装は殆ど同じなので安堵感を感じた。

「ごめんなさいね。私達の世界と共通の空間はここくらいしかないみたいなの」

「有難う。出来ればここで珈琲を一杯飲みたいな」

「ええ、あと中での会話は厳禁だから気を付けてね」

「分かった。気をつけるよ」

店内は薄暗く、奥の巨大な木製の蓄音機から古典音楽が聞こえる。演奏者は誰か判断が付かなかったが、モーツァルトの木星が演奏されている。机に座ると気分が落ち着いた。サヤカは小声で「貴方、此方の世界には向いてないのかもね。今度はもう少し落ち着いた所に行きましょ」という言葉が聴こえ、同時に強烈な眠気が襲って来た・・・

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