第五話 満洲編 奉天
初夏の恐怖行為事件以来、本来色のない筈の音楽、食事、触覚、概念、人柄などに色が観じられるようになった。面白いので私はその新しい官能を試して歩いた。商店で購入した異なる産地の天然水を飲んだ際に観じる色の違いを比べたり、人集りを長時間眺めたり、音盤屋で手当り次第にあらゆる種類の音楽を視聴したり、そうする毎に最初はぼんやりとしか浮かんで来なかった色彩は、日に日に鮮やかに観じられるようになった。最初の内は、空を眺める時に目の中に映る飛蚊症のような誰にでも大なり小なり見える現象なのかと思っていた。だが、知人に私の感覚の事を話してみても共感してもらえなかった。網際で検索をすると、共感覚という名の感覚である事が判明した。
共感覚を知ってすぐの時期、吉野町へ行く途中に私は樺色を観じる骨董屋を見つけた。店内には雑然と器が店先に置いてある。早速、集中をして観ると器はそれぞれに異なる色が観じられた。中でも隅にある赤茶けた肌の器に目が行った。よく見るとその器からはとても深い瑠璃色が観じられ、吸い込まれそうになった。値段を店主から聞いて、血の気が引いた。が、諦める事も出来ず、以来「あきの」に行く前にその器に一礼をしてから行くのが習慣となった。店主もそんな私を見ていたのか、結局折れて、半額に近い値段で器を譲ってくれる提案をしてくれた。是非もなく私は少ない貯金を下ろしてその器を購入した。
器で満たされていた時に、校舎内で共感覚検査という内容の張り紙を見つけた。曰く、亜細亜連邦の住人は無料で共感覚の度合を測る検査を受けられるそうだ。記載されている連絡先に電子郵便を送ってみると、直ぐに返事が来た。私はその日の内に検査の日程を調整した。
数日後、試験会場への行き方を再確認すると、大学から徒歩十分程度の場所にある事が分かった。建物は新築の十階建てで、硝子張りの中層建築だ。建物自体は、目立ちはしないが見る相手にその透明感から真摯な印象を与えた。五階の指定された部屋に行くと、建物の印象に近い透明な藍色を観じさせる受付嬢が丁寧に対応をしてくれて待合室まで案内してくれた。五分程待つと四十近い鼠色を観じさせる、ちょび髭の勤め人姿の男が入って来た。長身で体付きは立派であり、その男が日常的に鍛えている事が服の上からでも分かった。
「本日は、当法人の検査に協力して頂き有難う御座います。調査員のリン・シユウと申します。当法人は亜細亜連邦機関という以上は機密の為に言えません。我々は毎年、亜細亜連邦内で定期的に共感覚の検査を行っております。はじめに、調査に協力して頂く同意書と幾つか質問に答えて頂きますが宜しいでしょうか」
リン・シユウは名刺を渡した後、軽い台湾訛の日本語で話した。次いで一枚の同意書を渡された。同意書の内容はありふれたものなので印鑑を押した。同意書をリン・シユウは受取り、私を検査室へ案内した。最初の試験は机上に用意された画面に映る文字、写真、音楽などで観じる色を調べた。それが終ると次に鏡硝子の部屋に通された。そこで私は一人づつ、合計八名の人物の色を観て行った。その中で三番目に観た中年男性と、五番目に観た三十代の女性から発光色が見えた。爆破恐怖行為事件以来、街を歩くと極稀に、発光色を観せる人がいた。これ迄は特に気にはしていなかったが、発光する人を間近で観るのはこれが初めてであった。私は観じたままそれぞれの人物の色を書くと、後ろに待機していたリン・シユウは、その結果を見ながら静かに頷いていた。
翌週、組織より試験結果を報告する連絡が電子郵便で送られて来た。内容は、調査の結果、私には高度な共感覚があり、中でもそれは特別共感覚という非常に稀な官能を持ち合わせているとの内容であった。手紙の最後には、貴方の特性を活かして、共に亜細亜連邦の為に働かないかという勧誘の内容が書かれていた。だが、私は当時、奉天にある大手出版社で内定が既に決まっていたのでそれを丁寧に断った。
建国大学卒業後、私は新京を離れた。恐怖行為に巻き込まれた事、憲兵の監視をたまに感じる事、人工的な計画都市に辟易としていた事、そして何よりもトモミとショウヘイの思い出と距離を取りたかった事など、離れる理由は幾らでもあった。
満洲全体は恐怖行為があったにも関わらず、五輪景気で沸いていた。恐怖行為への不安も、北支那への大規模な報復爆撃後は治った。そんな中、私は大した苦もせずに内定が決まった。元々、執筆業に関心があり、志望した職に付けた事は嬉しく、鬱々とした学生時代とおさらば出来る期待があった。会社の方では現場を重視する研究内容が評価された事が採用理由として大きかったみたいだ。クラタの紹介状も好評だった。当のクラタは研究室に恐怖行為の実行犯がいた事などから責任を問われたが、多くの卒業生や生徒からの支援もあり大学に残って研究を続けている。
誰も見送りのいない新京駅の構内を電車は離れた。車窓から色彩の欠けた冬の気配の残る広大な大地が観えた。新特急亜細亜ひかり号は一時間半で奉天に着いた。駅には微かに春の気配が漂っている。改札口には両親が車で迎えに来ており、浪速通りを抜け城内の先にある実家へと向かった。途中、奉天広場を通過する際、車窓から奉天神社境内にある開花を始めた桜が見えた。
四年ぶりに戻った実家から、地下鉄で三十分程行った浪速駅で私は下車し、浪速通り沿いの事務所街に新築された中層建築に入った。建物の外装は最近流行の木製格子で、意匠関係の出版をするのに相応しい設計のように思えた。会社は意匠関係以外にも様々な出版物を扱っていたが、私はここで建築雑誌の編集に携わった。仕事は出張が多く、満洲国中、特に五輪準備の進む新京や近年発展の目覚ましい朝鮮国の首都京城に赴いた。そこで完成したばかりの建築作品を写真家と巡り、満洲国を中心とした建築家の卵から巨匠迄手当たり次第に会っては話を聞き記事にして行った。
職場では同じ興味を持つ同僚に恵まれた為、私にとってはこれ迄で最も充実した日々と成った。締め切りの後は奉天銀座と呼ばれる、春日町の居酒屋に同僚と飲みに行った。何事にも金欠だった学生時代と異なり、肉体的にはきつい仕事であったが、好きな仕事をしてそれなりの収入を得て飲む酒は旨かった。次第に賑やかな奉天の街の雰囲気の中で私の交友関係は広がって行き、大学時代に感じていた孤独感から開放された心持ちがした。何人かの女性との付き合いもあった。微かに好意を感じたら、私は躊躇わずに告白をし、交際した。だが、私の心を圧倒的に占有していたのは、サヤカの面影であり、リ・トモミに対して感じた強い思いであった。それは交際が進み異性と肉体関係を持つに至り強く意識されるようになった。ここではないという意識。体臭のような生理的嫌悪感、立ち振る舞い、話し方、品格、性格、興味の相違など理由は毎回異なった。畢竟、自分が相手の女性達を深い所で求めていなかったのだ。私の心理を相手が察してたかどうかは分からないが、その関係の向かう所は破局であった。別れる際には毎回決まって「タチバナ君、貴方は優しいから相応しい人が見つかるわ」と言われた。多分、彼女らは仄暗い地下の底で馬鈴薯の如く繋がっているのだろう。ここではないという思いは次第に、ここにはいないという直感に変わって行った。私の中での諦めは、サヤカの存在を対照的に輝かせ、満洲国から、内地へ戻るべきだという思いに変わり始めた。
二年前、満洲の不動産泡経済が崩壊した。会社は事業縮小を決断し、社員に任意退職を勧めた。実際には思ったよりも不況は深刻で経験の浅い新米を中心に切る事は明白であり私の選択肢は早いか遅いかの違いしかなかった。出版の仕事は好きだが、私の中で内地の存在がいつの間にか大きくなっていた事もあり、私は転職先を考え始めた。以前、手に取った組織の名刺を私は探し当て、そこに連絡を取るとリン・シユウから返事があり、満洲国では足りているが、内地の東京で一人調査員が必要だという内容の返事を受け取った。私は快諾をし満洲国を発った。