第三話 満洲編 新京
新京新道の料亭「あきの」で昼の賄いを終え、私は中央通りから大同大街を走り抜ける路面電車中央線を利用して、終点の建国大学前迄向かう。沿線は街路樹で彩られており、壮大な古典様式建築や帝冠様式建築で囲まれた大同広場、静謐な大同公園、そこから官庁街を抜けると、白亜の文化施設群が見えた。
終点の建国大学前で降りると、大学敷地内には赤煉瓦を外装に用いた校舎が軒を連ねている。欧米で流行した国際様式と旧校舎との建築的調和が映える。新京緑化都市構想のお陰もあり、ここはまるで公園の中にいる様な心地がする。
私は四大国成立の経緯に興味があったので、大学で近代満日史を学んでいた。教室は昭和初期に作られた蔦の絡まる煉瓦造りの校舎内にあった。教室には十数名の生徒達が既にいた。新京は満洲国の首都だけあり、白系露西亜人、猶太人、支那人、朝鮮人、満洲人、蒙古人、土耳古人と多様な民族構成になっており、この国の縮図のように映った。五族協和を建前にすれど、いつの間にか五族の定義が曖昧に成り、今では誰も細かい事は気にしない。それは、ある意味大陸的な大らかさなのだろう。私は後ろの方の席を選んで座り、携帯端末を起動すると同時に、クラタ教授は教室に現れた。小柄でずんぐりとした体格と、汚れた洋式袴が目立つ。
「えぇ、皆さん。こんにちは。クラタです。先日は満洲事変前夜の事をお話し致しましたが、復習出来ていますか?繰り返しますが、事前に通知した通り私の授業は全て日本語で行われます。母語が日本語、もしくは日本語検定準一級以上の生徒が対象となっておりますのであしからず」
部屋が暗くなり、クラタの背後に映写機の光が灯った。
「また、毎回授業の始めに申してますが、満日近現代史は近い時代だからこそ、資料も沢山あり、我々の研究次第では歴史の定説が変わるかも知れません。歴史学の基本は先行研究の整理と、一次史料による事実特定であります。特に皆様には机上の研究のみに限らず、現場で学んで実感をして下さい」
そう言うと、クラタは電脳の電源を入れ、満洲を中心とした極東亜細亜地図が映し出された。
「前回の繰り返しですが、満洲事変前夜の満洲は正に無秩序でした。その中で横暴を働く匪賊から、在留邦人や資産を保護するのは喫緊の課題でした。この時期に日系人殺傷事件も多発しております。特に朝鮮併合以降は当時臣民でもあった朝鮮人の保護は大変でした。何故ならば、朝鮮族は朝鮮半島のみならず、満洲各地に散らばっておりました。故に朝鮮人の保護をする為に大いに労力が割かれました。その様な状態の中で満洲地域に影響力を持つ匪賊の長であるチョウ・サクリンが爆殺されました。この事件は近年では共産主義者が仕組んだ事件というのが定説となっております。が、真相は闇の中です。蘇維埃や北支那が崩壊でもすれば資料が出て来て真相が分かりましょうが・・・」
映写機は爆破された列車を映した。よく見ると確かに何者かにより「内部」から爆破されたようにも見える。共産主義者の陰謀説も頷ける。
「えぇ、この事件後、満洲の秩序は取り返しの付かないほどに乱れました。ここまでが前回までの大まかな流れです。さて、その混乱を収めるべく柳条湖事件を契機として昭和六年九月十八日に満洲事変が起こりました。事変とは、宣戦布告の行われていない戦闘行為の事です。さてぇ、イシワラ・カンジを中心とした関東軍は天才的な軍事作戦で、満洲地域の領有権を主張しており数十倍の兵力を有する爆殺されたチョウ・サクリンの息子、チョウ・ガクリョウが指揮する支那国民党を蹴散らし満洲全域を五ヶ月で平定致しました。この作戦を詳しく研究したい人は最初に渡した参考文献を参照するように。えぇ、ですがぁ、日本の行動は国際的に擦り合わせをしてなかった為、支那大陸に利権を持つ欧米諸国に不信感を与えました。更に満洲を失った国民党は国際的に宣伝工作を強めました。まあ、関東軍の一将校の起こした軍事行動ゆえ、他国との擦り合わせは無理筋だったとも言えます。満洲地域の治安が悪化する迄放置した日本国政府も悪いですが・・・支那に利権を持つ欧州は口では批判しながらも、支那及び満洲の混沌と出鱈目さは理解していたので、頭の中ではしてやられた!と考えたのが実態でしょう」
満洲事変での軍事行動を写した映像が流れた。
「えぇ、昭和七年という年は日本と満洲にとって運命の年でした。満洲事変とは直接関係ありませんがぁ、事変が収束に向かう中、支那国民党が天皇陛下に対する不敬記事を掲載したことが切欠となり、一月に上海事件が起こりました。これは帝国陸海軍の連携で解決しました。これが契機となり後に軍内部の予算などを巡る軋轢は解消に向かい、空軍の設立や陸海空軍を指揮する統合参謀創出の契機ともなります。さて、上海事件の講和に代議士のマツオカ・ヨウスケが活躍します。この人物は満日史で重要ですので覚えておきましょう。同年の三月一日には愛新覚羅溥儀を執政とする満洲国が誕生致しました。執政とは大統領の様なものと考えて頂ければ良いでしょう。当初は満洲を日本国に領有しようとの案もあり、国際法的に見れば無主の地との解釈も可能でしたが、結局、イシワラ・カンジらの提案する、国防を日本国が担い、溥儀を首班とする独立国の形で落ち着きました。ですが、この時点では満洲国は日本国を含む何の国からも国家承認をされておりませんでした。生まれたての国が信頼を得る為には国家承認は必要不可欠であり、満洲国存続の為に喫緊の課題でした」
執政就任式典の画像が見えた。
「五月には欧州大戦以降の長引く不況による不満から極端な国家社会主義思想を持つもの達が五・十五事件を起こしました。彼らは日本国を思う強い気持ちから行動を致しましたが、同時に共産主義の強い影響も受けておりました。事件の結果、暗殺されたイヌカイ総理大臣に代わり軍閥からサイトウ・マコトが総理大臣となります。これは挙国一致内閣と当時は言いましたが、実態は二大政党制で動き始めた憲政の常道の終焉、もしくは憲政の変態、変態政治という言い方もし、以降憲政の常道が戻るまで暫くこの変態政治は続きます・・・そこ!笑わない。変態政治と言っても褌一丁で政治を行うという意味ではありませんよ」
私は変態という語を連続で聞き聴き吹き出してしまった。クラタ教授に指摘をされ、教室の生徒から笑い者にされてしまった。
「ええ、では気を取り直して。八月にはウチダ・ヤスヤ外相が『焦土演説』を国会で行い、国が焦土になっても満洲の権益を保持する必要性を訴えました。五・一五の後の潮流やウチダの演説もあり九月十五日に日本国は満洲を国家承認し、満日議定書を締結致します」
ウチダ・ヤスヤによる、焦土演説が流れた。結果を知ってる私からすると、ウチダは本気で日本を焦土にしようとしていた様に聞こえた。
「同時期に英国人であるリットンを中心とした調査団は満洲に三月から六月迄入り報告書を十月二日に国際連盟に提出致しました。この報告書が公表される前に日本国は満洲国国家承認致しましたが、内容をよく理解すれば実を日本に、名を国民党に与えるという日本側が有利なものでした。日英同盟がある意味生きていたとの解釈も可能です。また、英国は小国を緩衝地帯にする勃牙利の先例もある事から満洲国の存在意義を理解していた節があります。もう一つの読み方としては満州事変により日本国が国際連盟で初めて紛争当事国となったという事です。これまで国際連盟は小国同士の紛争解決はして参りましたが、大国と小国による紛争問題は初めてであり、紛争事例を解決する試金石としたかった狙いが伺えます。その報告書に対して、上海事件で活躍をしたマツオカは日本の立場を説明するべく国際連盟で十二月に『十字架上の日本』という名演説をし、満洲国の正統性と日本の置かれた地政学的苦境、そして支那による偽情報拡散の結果生じた誤解を伝えました。この演説は各国から絶賛されます。同時にこれ迄、日本が世界に対して宣伝が不足していることが露呈しました。マツオカの提案で日本の積極的な情報発信が以降進められるように成りました。その後に、大量に作成された国策映画や動画は満日大衆文化の基礎となりました」
マツオカの演説の様子や、国策動画が映る。動画は米国製動画、特にディズニーの影響が伺えた。
「えぇ、同年十二月。国連脱退を強固に主張していたウチダ・ヤスヤ外相と共産主義者との繋がりが暴露され、そこから連動して、左派右派を問わず政府、官僚、陸海軍閥、報道機関、大学に属する人物の中に多数の共産主義者や工作員がいる事が発覚しました。これは欧州大戦以降の政府の経済政策の失敗による貧困と格差の拡大、右派による自由な言論への弾圧や自由主義者への攻撃が原因となり共産主義が広がる苗床となっておりました。また、当時の知識層は西洋的なものを是とし、経済への理解が疎かった為、当時最新の思想であった社会主義や共産主義に染まり易かったとも言われております。中枢の人材が一掃された事により日本国内は混乱状態に陥ります。中でも反英米の強硬な発言で人気を集めたコノエ・フミマロの逮捕は大きく報道されました。この事件は鎌倉時代の蒙古襲来という未曾有の国難を前に、先ず身内の裏切り者の粛清により国をまとめた英雄ホウジョウ・トキムネの二月騒動に習い、『十二月騒動』と呼びます。これは二重工作員としてウチダ・ヤスヤの近くにおり、革新官僚として活動をしていたカヤ・オキノリの功績です。彼は後にタカハシ・コレキヨの経済政策を継ぎ、イシバシ・タンザン、イケダ・ハヤトへと橋渡しをして長期安定成長を実現致しました。結局、右派左派の極端な主張は面白い事に好景気と共に静まり、自由な言論と二大政党による憲政の常道は昭和十年代中盤には戻って参りました。抑圧され始めていた、自由主義者達の発言が強まった事から、時代に合わせた憲法の一部改正の動きも始まり、イケダ・ハヤト政権の時に初改憲が成りました。共産主義という危険思想に打ち勝つ最善策は弾圧よりも好景気と考えて下さい。また、十二月騒動を政治的に収めたのは、軍への抑えが効き外交にも明るいウガキ・カズシゲでした。ウガキ内閣は世論と関東軍を沈静化し、満州事変の収束をすることにも成功します。また、第二次日英同盟は日本の安全保障上重要な要素とも成りました」
共産主義者として捕まった人物網の一覧を観て、私はカヤがいなかった場合の日満の未来を想像し背筋が寒くなった。同時に、経済と思想の関係性に興味を抱いた。
「翌年、リットン調査団報告書はマツオカの努力にも関わらず国連での賛否は半々となりました。新たに外相になったイシイ・キクジロウの指示を受けたマツオカは英国の顔を立て、後の第二次日英同盟の布石とする為、リットン報告書の採択を受理し附則条項をつけることで妥結致しました。因みに、この結果に激した国民の怒りを抑える為、イシイ・キクジロウは実家を放火に見立て燃やしたという話も残っております。因みにマツオカの家も焼かれましたがこれは本当に放火でした」
イシイ邸とマツオカ邸が燃える画像が映された。外交的に正しい判断をしても国民に受け入れられない事は往々にある。民意を調整する事も政治なのかと思った。
「これにより満洲は昭和八年五月頃より、国際連盟が組織する満洲管理委員の管理という名目の元に五つの自治区に別れ、それを関東軍が中心となった連合軍が匪賊らから防衛する事になりました。監理委員の長は日本国よりキシ・ノブスケが派遣されました。ご存知の様に彼は後に満洲国初代大統領となります。さて、ではそれぞれの地域を見て参りましょう。北部の哈爾賓を中心とした亡命猶太人・白系露西亜人自治区。奉天を中心とした漢人・満人自治区。西部は海拉爾を中心とした蒙古人自治区。東部は吉林を中心とした朝鮮人・日本人自治区。そして、中央の新京は満洲自治区全体の行政と金融の中心となり各民族が交差する街となりました。この民族毎の区分けは皆さんもご存知のように今でも強い名残があります。因みに、満洲自治区になっても『今直ぐ、清朝の避暑地である熱河を奪え』だの我儘を言い、第二次日英同盟を破壊しかねないアイシンカクラの一族は執政を馘首され大磯の方に移住をして、華族として今も末裔は平和に暮らしております」
各地域の代表的な景色が映った。哈爾賓の中心に聳える露西亜正教教会、奉天の中華街、海拉爾郊外の平原と蒙古天幕、吉林の古い街並み、見慣れた新京の近代的な街並みなどが見えた。
「今回はざっくりと満洲国建国から満洲自治区成立迄の流れをお話致しました。次回からは満洲自治区が哀提伯戦争解決を経て国際連盟より信任を取り戻し、再び満洲国になる迄のお話を致します。ここら辺は時代的には近い話でして、皆様もご存知、建国の父であるキシ・ノブスケが活躍致します。短な話ですと、私の祖父も哀提伯戦争や、第二次欧州大戦に出征しております。皆様も身内の方に伺えば、難しい時代の事に関する生の声が聴ける筈です。先ずは配布致しました用紙の課題を来週迄に提出して下さい」
クラタは軽く咳をして、映写機の電源を切った。まだ四十代前半だというのに白髪が目立つ人だ。外見は現場から最も程遠い人物のように見えるが、自分の足で現場を見て回ることが好きで、現場で得た直感と歴史の資料から導き出す独自の歴史解釈はクラタ史観とも言われ学会から一定の評価を受けている。個性豊かで国際色の強い教授陣を誇る建国大学でもクラタの存在は目立っていた。
教室には日本人は私の他に四人しかおらず、残りは露西亜人、支那人、満蒙人、朝鮮人と研究室の民族構成は多用であり、その半数が満洲国籍であった。中でも、リ・トモミという小柄の朝鮮人は顔は童顔で、声が朝鮮人にしては湿気があり、その響きは私の胸の深い所に届いた。当時は気が付かなかったのだが、今考えてみると、サヤカと声質が少し似ていたのだ。
授業が終わり、外に出るとまだ日は高かった。私は大学図書館で十二月騒動に関して書物を幾つか読む事にした。十二月騒動に興味を持ったのは、昨年亡くなったノーベル文学賞受賞者、ミシマ・ユキオが保守系言論雑誌に寄稿した小論文の中で「十二月騒動がなければその代わりに、無機的な、からっぽな、中間色の裕福な、抜け目のない経済大国が極東の一角に残るであろう」という警句に巡り合ってからだった。
「あら、さっきの変態さん。十二月騒動に興味があるの?」
という、声を聞き振り返るとリ・トモミが真後ろにいた。桃の良い香りがする。近くで見ると全体的に丸みがあり、私の趣向に訴えるものがあった。
「あ、トモミさん。そそそそうなんです。十二月騒動の与えた満日史への影響に興味があって、研究の対象にしようと考えていました」
私は中学より満洲に留学をしてから友達と呼べる人は周りに殆どおらず、何時の間にか会話が苦手になっていた。私はトモミと上手く話せたか些か不安になった。
「面白そうね。男子生徒は満蘇戦争とかに興味持つものかと思ったけど、良い着眼点ね」
彼女は教科書に出てくるような標準語を話す。
「トモミさんは、どの領域を調べているのですか?」
「私はその満蘇戦争よ。他の男子生徒達のように貴方も戦跡を調べるのかしらと思ったけど、別領域なら余り縁がないかもね」
「満洲内の現場なら、僕も満蘇戦争の現場である諾門罕を考えていますよ」
私はとっさに言った。
「本当!ならば一緒に情報交換出来そうね。良かった」
と言うなり、トモミは去ってしまった。課題であり現場調査は両親のいる奉天にする予定だったが、この瞬間、私の現場は諾門罕に変わってしまった。来月に奉天神社で花見をするのは難しそうだ。元々、現場に関しては深い拘りがなかったので成り行きに任せても構わないと思った。可愛気な女性と共に作業が進められるかも知らないという浮ついた期待に胸が膨らんだ。
私は十二月騒動と諾門罕関係の書物を数冊の借りた後、大学前にある行列の絶えない若伴という豆腐屋で、新京豆腐を二丁買った。新京は大豆が有名と言うだけあり豆腐の味は内地よりも濃厚で美味しい。建大前から環状路面電車に乗り東部の東盛大街沿いの満洲軍関係施設が多い地域にある下宿先に戻った。路面電車内では七カ国語で車内放送が流れた。最初に日本語、次いで支那語、満洲語、蒙古語、朝鮮語、露西亜語、英語の順番だった。車両内から耳元に妙な発音の日本語が聞こえてきた。語尾にラーとか、メーが付く。満洲弁だ。よく見ると太い黒縁の眼鏡をかけた支那人の学生達だ。同じ建大生だろうか?満洲人口の六割を占める支那人は器用に満州弁と支那語を使い分けるが、何が基準になっているのか、いつも私には理解出来なかった。
路面電車から見える街並みは夕闇に沈み、街灯が灯り始めた。街並みは第一次建設から第二次、第三次と多少の変更がありながらも当初の計画に沿って建てられており、秩序を保ちながらも、緩やかな変化のある景色は面白い。だがその街並みは同時に統制が取れ過ぎているきらいがある。新京城内や吉野町は風情があるのだが全体的にこの街が退屈なのは、ここが計画都市であり、政治、金融の中心である事による宿命みたいなものであろう。街としては両親が住む古都奉天、満洲京都と呼び名の高い吉林、露西亜人の多く住む欧州風の哈爾賓の方が生活感があり魅力的に感じた。車窓から伊通河が見えた、暗い川の両岸に無数の光源が見える。後十分もすれば我がぼろ宿の前に着く。
建大での授業も半年程過ぎると、私はトモミとショウヘイの三人で諾門罕の実地調査を始めていた。ショウヘイ・コンシタノフは長身でのんびりとした雰囲気の猶太系露西亜人で、私達三人は共に何度か実地調査という名目で諾門罕に行った。二人とも優秀で、必要な各種測量器具や撮影器具などを揃えてくれたお陰で要領良く調査に行けた。ショウヘイとトモミとは妙に会話が弾んだ。全安橋界隈の繁華街で何度か飲む内に親友と呼べるまでに私達の間柄は近くなった。特にトモミには何か友情以上の気持ちが芽生え始めた。
哈拉哈川の両岸には白銀の大地が広がっている。蒙古国との国境も近い為か、この辺りは未だに開発されておらず太古から時間が止まったようにも見える。満洲国政府は戦跡を保存したいという意思もあったようだが、どちらかと言えば諾門罕は放置されているという方が正確かも知れない。内地を出てより、どこ迄も続く大陸の大地に対峙すると不思議と自我も拡張されるような心持がした。ここに続く道路や遊歩道は途中まで綺麗に整備されており、哈爾賓から電車で近くの海拉爾に行けるので交通の便は悪くない。最初ここに訪れた時は満蘇戦争が七十年近く前に勃発した季節と重なる夏だった。今回の諾門罕は真冬の調査の為に一苦労する予感がした。その予感は的中し、借りた車が道の途中の溝に嵌り立ち往生した。運良く国境警備をしていた蒙古系兵士が通らなければ私達は凍死していたかも知れない。
零下二十度。吹きっ晒しの平原で我々三名は野営の準備を始めた。吹雪が吹く中で戦跡の上に天幕を張り、魔法瓶に入った露西亜煮込みと、魔法炊飯で炊いたご飯で簡単な夕飯を食べた。外に出ようにも吹雪が酷いので我々は天幕の中で、ショウヘイの露西亜火酒を飲みながら、手札遊びを始めた。遊びや馬鹿話に興じている内に外が静かになった。私は「様子を見る」と言い天幕を出た。外は一面の白、そこを黒く哈拉哈河が横断している。月明かりに照らされた大地は明るい。晴れ渡った夜空に無数の星々が浮かび、薄い緑がかった帯が見えた。最初は天の川かしらと思ったが、その帯は音を立てずに動き始め幅や帯の数、色彩が刻刻と姿を変えた。それは我々の想像を超えた存在が奏でる旋律のように見えた。私はトモミとショウヘイを呼び三人でそれを見た。澄んだ空気が心地良い。脇には親友が二人。人生最上の瞬間に思えた。
意識に一筋の光明が指す。微かな音が聴こえた。隣のショウヘイは寝相が悪く変な格好で寝ている。物音は彼の仕業かと思ったが違う。違和感がある。よく見るとトモミがいない。私は急いで防寒具を着た。何故かショウヘイを起こす気にはならなかった。天幕の外に出たがトモミは視界の内に見当たらない。足跡が見えたのでそれを追うと、暗い雑木林の中まで続いている。私は不安を感じた。十五分位歩いただろうか、雑木林を抜けると見晴らしの良い高台に空を眺めているトモミがいた。北極光はとうに消えている。彼女はこれまでに見たことのない形相で一瞬私を見た。が、私だと気付くと直ぐに何時もの童顔に戻った。
「驚いた、タチバナくんか」
「天幕内にいなかったから、心配して来たんだ」
「有難う、夜空が綺麗だったから、天幕を出て来たの」
空を見上げると無数の星の中に包まれるような浮遊感がある。だが、ここまで歩く必要があるのだろうか。
「空・・・凄いね」
星々を臨んだ後にトモミと眼が合った。彼女の丸い、何か小動物を連想させる顔から眼が離せない。胸が高鳴る。大声で「好きだ」と言いたかったが、伝える言葉をその当時の私は持ち合わせていなかった。互いに見つめ合ったまま沈黙は続く。胸が万力で締め付けられるような気がした。
「何故来たの?」トモミが沈黙を破った。
私はこの付かず離れずの心地よい三人の関係を維持したかった。トモミと気まずくなりたくもなかった。仮に自分の気持ちを伝えたとしても相手が受け止めてくれるとも限らない。何かが私を押し留めた。私は・・・恋に落ちる事が出来なかった。
「トモミが・・・心配だったから」
「そう・・・ねえ、タチバナくん。私達三人って、とても素敵な関係だと思わない?十年後もこの友情が続くと良いわね」
「そうだね」
と言いながら、壁があれば思い切り頭を何度も打ち付けたい程の惨めな気持ちに成った。だが、変化のない安寧な間柄が続くという安堵感も同時に感じた。