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帝都モダン  作者: 藤堂高直
2/11

第二話 帝都編 渋谷・赤坂・浅草

 それから暫く、私は黙々と仕事をした。その間、サヤカに直ぐ電子郵便で連絡をしようとしたが手紙の内容が定まらず、文章を書いては消し、という作業を何度も繰り返す内に時間が過ぎて行った。

渋谷の中心、百軒店地区での仕事が終わった後、私は名曲喫茶獅子に入った。店の中は日光が遮られており暗い。昭和初期から使われ続けている巨大な木製の蓄音機からは大音量の古典音楽が流れている。その旋律は疲れた私の神経に心地よく響いた。聞いた事がある演奏だと思い意識を巡らせると、それがヤマダ・コウサクが指揮するベートベンの交響曲五番だと分かった。私は気分が良くなり、珈琲を飲みながら、音に合わせてサヤカへ電子郵送の文章を書き始めた。文章が七割書けた辺りで、桃色の電子郵便受信音が聞こえた。サヤカからの連絡だ。


タチバナ君

この間は、十二年ぶりに再開出來て驚きました。小學校からの知合ひが殆どゐないので、色々な事が思ひ出せて仕合せでした。餘りお話出來なかつたので、良ければ今度ゆつくり會へれば良いな、と思ひました。ご都合の良い時間があれば食事でも如何でせうか。

サヤカ


 文章自体が短い為、サヤカの感情を読み取る事は出来なかったが、檸檬色の温もりが文章から観じられた。私は何度もサヤカから届いた文章を読み直した。今週の金曜日は調整出来そうだ、調査場所も幸い事前に決まっている。私は早速返事をした。


サヤカ

連絡有難う。僕も丁度連絡しやうとしてゐた処でした。僕もサヤカと再開出來て嬉しかつたです。今週の金曜日は空いてをります。淺草で仕事があるので、良ければその後に今半御殿で食事でも如何でせうか?

タチバナ


サヤカもその日の夜は空いており、我々は会う約束を交わした。店を出ると外はまだ明るい。私は舞い上がり、交響曲五番を口ずさみながら軽い足取りでサヤカへのお土産でも買おうと思い立った。渋谷駅から地下鉄銀座線に揺られ青山一丁目駅で降り、日本財政の守り神と言われたタカハシ・コレキヨ記念館の脇を曲がる。そこから緩やかな坂を下り切ると商店街がある。昔、住んでいた家もここの裏手にあり、友人らとはそこでよく遊んだ。住宅の裏道を隠し通路と言い練り歩いたり、武家屋敷跡の庭に侵入して勝手に基地を作り戦争ごっこをした。私の母校である桧町小学校が見えた。古い木造校舎を改装し、内部を近代化したもので機能を更新しつつも、古い外観を保存する心意気は、白紙の上に作られた満洲とは正反対だ。学校の前を通ると妙に背中が疼いた。昔、鏡で自分の背中を見たらサヤカに突かれた場所がほくろの様になっていた。校庭で朝礼を聞いていた時も退屈でうつらうつらしていたらば背中を捻られた。気が付いたらば私は一人、通りで微笑んでいた。学校の角に古い二階建の木造店舗が見えた。和菓子屋だ。サヤカの家に遊びに行くついでにここで赤坂餅を買った。それはきな粉と黒蜜を混ぜてから、中に埋まった餅を食べるものだが、食べる時に、きな粉が舞い、それが目によく入った。私は暖簾を潜り赤坂餅の十二個入りを購入した。店を出ると足は半ば無意識の内に一ツ木通りの方に向いていた。古い料亭の前を横切ると洋風煮物の良い香りが漂って来た。洋食屋津つ井だ。ここの出前を祝事の時によく取った。サヤカの家でご馳走になった事もある。焼牛丼の上で溶ける牛酪が思い出された。気がつくと、私はサヤカが昔住んでいた家の前にいた。前に一度確認した時と同じ雑貨屋がそこにはあった。まだ、夕暮れ時で通りを往来する人は少ない。この夕陽が障子窓を通して二階の子供部屋に差し込んでいた。そこで私達は建築雑誌を眺めた。たまに目が合うとサヤカは私に微笑みを返してくれた。サヤカの家には建築や骨董以外にも沢山の図解書籍もあった。大きな棚が二つ、そこに色取り取りの本があって・・・背後に視線を感じた。振り返るが、周囲にそれらしい人物は誰もいなかった。気のせいだろうか・・・



 約束の金曜日。朝早く目が覚めた。障子硝子の遮光機能を切ると外は未だに薄暗い。電子郵便は一通も届いておらず、何となく間が抜けたので、思い出したように腹筋を始めた。まだ時間は随分とあったので、私は部屋を出て川沿いを軽く走った。

空が茜色に染まる頃、部屋に戻ると、程よく空腹になっていた。冷蔵庫にあるご飯を解凍して卵と醤油を和えて食べた。色彩の欠けた食事だ。食後は南山西洋珈琲で購入した焙煎豆を透過式で淹れた。濃厚な黒い液体を飲むと頭に血が巡り始めた。サヤカに会える。少し先に起こりうる未来を想像した。思考を巡らす度に多幸感が湧いてくる。服は私が気に入りのミヤケ呉服の黒い立襟の洋服を選んだ。

 今日の調査地域は浅草。そこは昭和中期より始まる復古運動の結果、新築の建造物は震災後の外装の保存もしくは模倣が義務付けられていた。そのお陰か、下町の情緒が未だに色濃く感じられた。近年は免震構造で再建された凌雲閣が話題となり、地下鉄銀座線の終点に相応しい賑わいがある。

ここ数年は南支那の成金観光客が目立つ。彼らは日本の電子端末や家電製品をこれでもかと買い漁り、甲高い声で頭に響くような話し方をするので直ぐ分かった。彼らは派手な電飾の如き、赤や翡翠色を観じさせる。その脇に地味な色合いの南洋諸島出身風の物乞どもが散見された。


 調査では報告済みの「彼ら」を二人見つけた以外に大した収穫もなく、業務時間が過ぎた。私は国宝五重塔の近くにある自動販売機で一杯の缶珈琲を買い、長椅子の上で携帯端末に落とした小説を読み始めた。ミシマ・ユキオが晩年に執筆したフジワラ・テイカに関する作品だ。柿色の風が心地良い。伝通院の塀向こうには紅葉した楓が見える。空は藍色だ。五重塔も照明で照らされた。その先に大きな月が浮かんでいる。乾燥した空気がその輪郭を鋭いものにしていた。


 約束の時刻に少し遅れ、サヤカは水色の発光色と共に洋装で現れた。洋装を着たサヤカは体の線が明確に現れ、より魅力的に見えた。サヤカが近づくと薄紫色の香りが漂った。

「タチバナ君、待った?」

「そんなに待ってないよ」

「良かった。ごめんなさいね、少し面倒なお得意様との話が長引いてしまったの」

「どういう話?」

「台湾に新しく建設される旅館に入れる器の話よ。結構大きな案件で民芸関係のものを中心にお客様が揃えたいから、お店で扱ってるものとかを中心に紹介していたの」

「民芸だと、ムナカタ・シコウとかカワイ・カンジロウの作品だよね」

「流石、タチバナ君。彼らの作品の価値は世界的だから沢山揃えるのは難しいけれども、頑張るわ。と言っても主に、彼らの孫弟子筋のものが中心ね。でね、向こうの新しい担当者のシラカワという男がケチで、げんなりしちゃった。だってね、シラカワって美術品の事を何も知らない癖に口出しをするのよ。大量生産されてる改良磁器に模様を付ければ民芸みたいなものじゃないか、もっと安くしろ!なんて言うものだから、ちゃんと民芸の事を教えてあげたの、そうしたら、シラカワが激して頭を降ってね、鬘がずれちゃってたのよね。で、打ち合わせは仕切り直し。もう散々よ」

「シラカワの馬鹿野郎だね」

「本当ね」


サヤカと再会してから調べて分かった事だが、彼女が執筆した骨董に関する記事は頻繁に専門雑誌から一般大衆雑誌などで掲載されており、骨董への眼識は勿論の事、内装の調整にも定評がある事を知った。彼女の事を気にしておりながら、活躍を知らなかった私の眼は節穴だった。


正法院通りを抜けると男が二人、かん高い支那語で喧嘩をしていた。この辺りは北部東京市最大の貧民街を近郊に抱えている為か柄が悪い。特に物価下降不況に突入以降は失業者が増え界隈には一部立入禁止区域もある。サヤカが少しだけ、私に近付き、体が一瞬触れた。

「もう少しで着くよ、ごめんね物騒な道で」

「・・・こういう雰囲気にあまり慣れてなくて」

電光掲示板が賑やかな六区を抜けると、その先に密度の濃い木彫りの彫刻が目立つ古建築が見えた。今半御殿だ。唐破風の門を潜ると、広い座敷玄関にはナガイ・カフウの署名入り色紙や民芸の皿が展示されていた。二階の座敷に案内された。階段を登ると、その先には和洋折衷の独特な様式で設計された広い空間があり、窓の装飾や欄間が富士や蜘蛛の巣などと凝った造りで目を楽しませる。先客達は薄明かりの中で鈍く輝く黄金色の鍋ですき焼きをつついていた。


「もしかして、一階にあった器はハマダ・ショウジの作品?」

「大当たり。内緒にしてた訳ではないけど、この器は以前、私のお店で扱っていたものなの」

「驚いた。サヤカは凄く活躍しているね」

「うふふ。ここはいつ来ても古風で良い感じのお店ね。予約有難う、結構大変だったでしょう?」

「執筆業をしていると、自由な時間が結構あるから問題ないよ」

「うふふ」

店員より品書きを渡された。

「ねえタチバナくん、どたばたしていると、無性にお肉が食べたくなる事ってない?」

「ある。僕はどちらかと言うと、忙しい時に米風挽肉焼が食べたくなるなあ」

「その気持ち分かるわ。私、少し疲れてたから、お肉を食べたい気分だったの。米風挽肉焼も体に悪いけどたまに食べたくなる時あるわ」

「そうだよね。体に悪くて不味いものはとっくの昔に淘汰されている」

「それもそうね」

「あ、そうだ忘れる前に。これは僕の執筆した雑誌と小さなお土産」

簡単な市松模様の風呂敷に東京の情報誌と赤坂餅を包みサヤカに渡した。

「あ、この雑誌知ってる。これ迄気がつかなかったけど、この雑誌の記事はタチバナくんが書いていたんだね。お土産も有難う。もしかして、これ赤坂餅?」

「そう、当たり。サヤカの家に遊びに行く度に美味しいお茶と、赤坂餅頂いたから、そのお礼」

「タチバナくんのことを考えていたら、赤坂餅を食べたくなっていたの。私の心読めるの?」サヤカの色は観えるが、心までは読めない。

「たまたま、昨日赤坂近辺で仕事があったから思いついたんだ」

私達はすき焼きの上を二つと、『萬樂』という岩代県会津の原産地呼称統制された山廃特級酒を頼んだ。酒米は定番の雄町を五割磨きにしたものだ。甘みと旨味の均衡が取れた素晴らしい酒だ。私は鞄から巾着に入った備前焼の酒器を取り出した。

「サヤカの家で読んでいた骨董雑誌の影響か器を自分でも集める様になったんだ。どうかなこれ?骨董ではないけれど昭和中期頃の作家さんのものらしいんだ。満洲の古道具屋で見つけて、小遣いを稼いで買ったんだ」

器を見るサヤカの眼差が真剣になった。

「なかなか・・・素朴で良いわね。形も肌も優しさが感じられる。刻印は・・・あら。可也有名な作家さんの作品よ!よく見つけたわね。彼の作品は数が少ない事もあって、余り流通してないのよ。タチバナ君、良い眼してるわ。じゃあ・・・私も器を出そうかな」

サヤカに眼を褒めて貰えて嬉しかった。サヤカも同様に手提げ鞄から巾着袋を取り出し、中から薄手の酒器を取り出した。

「これは・・・飲み口が薄くてするりと呑めそうだ。中央には漢字が書かれてるけど、『羅』の字かな?字に癖がある。橙色を観じるなあ」

癖で共感覚が出た。サヤカの表情に変化はない。

「あれ、タチバナ君、共感覚持っていたの?」

「うん。満洲に行ってから覚醒したけど、まあ官能自体は弱いから意識しないと分からない程度だよ」

「ふうん。私の色も観てくれる?」

「勿論!ちょっと待ってね・・・水色だね」こうとしか言いようがない。

「へえ、水色かあ。有難う。そうそう、この器は骨董ではないけれど、欧州連合内、英国出身の陶芸家ルーシー・リーの作品なの。これも民芸運動の繋がりね。作家の親族向けに作ったもので、漢字も自分で書いたみたいなの。正直上手ではないわ。自分の名前を当て字で書こうとしたみたいね。でも羅だとラの音だからルーにも、リーにもならない、惜しいわ」

「確かに・・・少し間抜けてるけど愛嬌があるね」

「そうなの!何だか一所懸命な感じが好き。ほら、最近は名前の漢字表記を使わないでしょ。何だか良いのよね、こういう泥臭いの・・・ところで話は変わるけど、タチバナ君は満洲弁話せる?」

「真似事は出来るよ、ちょっと待って・・・今日、私公園に行く既に、そしたら既に公園閉まるらー。私とてもとても詰まらないほー」

「何それ、変なの」

私は思い出せる限り特徴的な話し方をした。サヤカは手で口を抑え笑いを堪えている。小学校の頃には見たこともない仕草を私はとても可愛いと思った。一瞬、サヤカと目が合った。彼女の瞳に私が映っている。いつ迄も見ていたいほど綺麗だ。妙に気恥かしくなり、誤魔化すかのように国酒を互いの器に注ぐ。我々は古風に「弥栄」と杯を交わし酒を口元に運ぶ。備前のぐい呑みは無骨な外見とは裏腹に国酒の味を柔らかな中間色にした。

「ねえ、タチバナ君の器で一口頂いても良いかしら?」

「勿論。僕もサヤカの器で呑みたいな」

互いの酒器を交換した、サヤカの器の淵にはほんのり薄紅色の口紅の痕が付いている。それを見て、急に小恥ずかしくなってしまった。酒器を口に当てると淵のざらついた釉薬から滑らかに酒が入り、先の器と比較出来ない複雑な味が感じられる。旨い。これならぐいぐい行けそうだ。

「サヤカ、この器でお酒を飲むと味が全然違うよ。しかも、するりと飲める。まるで滑り台だね」

「ふふ。面白い表現をするわね。『滑り台』・・・案外良い銘になりそう。この器の淵には満俺釉薬が施されていて、繊細なざらつきがあるの。タチバナ君の器で呑むと味が柔らかくなつて美味しいわ」


墨に火が点され、名物の黄金鍋が運ばれて来た。脂を鍋に溶かすとぐつぐつと音がし鍋の底が渋めに輝いた。昭和初期より大切に使い込んでいるものだ。脂が溶けると、店員はたれを流し、長葱を炒め始めた。葱が柔らかくなる辺りで牛肉を入れる。じゅうじゅうと音が立ち、良い香りが鍋の周りに漂う。肉は脂身がのっており、鍋で炒め、卵と和えて口に運ぶと豊潤な味がした。噛むごとに口内に鍋と同じ金色や楓色の風味が広がる。


「うん。美味しい。やっぱり、お肉は最高!元気が出てくる!」

「良かった!ここのお肉は脂身が多いからとろけるような味だよね」

「そうよね。因みにこれは何色かしら?」

「鍋と同じ金色と楓色かな?共感覚は案外食べ物自体の色とかにも影響受ける事があるんだ」

「ふうん。不思議なものね。でも、感覚なんてみんなそれぞれ違うものね。タチバナ君の眼から世界を見たら、さぞ色鮮やかでしょうね」

「実際に色が見えるというよりも、色を観じるという方が正確かな?大学時代に色が観え始めた時は他の人も同じ様に観じるものだと思っていたんだ。でも、実際に僕みたいに観える人はそんなにいる訳ではないと知った時は結構驚いたな。サヤカはそういう違和感を感じる事はある?」

「え、私?うーん、どうかな。色が観える訳でも絶対音感がある訳でもないし・・・敢えて言えば不思議な夢を観る事かしら」

夢?

「ふうん。どんな夢?」

「うーん、物心ついた時から観る夢で、気が付くと、こことは微妙に違う東京にいるの。でも街並みが凄く汚くて、混凝土の建物しかない。その夢を毎晩観る訳ではないわ。観る時は風邪を引いてる時とか、お酒を呑んだ後とかかな?・・・あ、今かかってる音楽、私の好み」

「東京楽園楽団だね。僕も好きだな。同じ系統で伯剌西爾のNUOVO TOKIOも聴くよ。郷愁漂う夕暮れを連想させてくれて良いよね」

「私もNUOVO TOKIOは好きよ。歌謡とBOSSA NOVAの間の感じが心地よいわね。台湾国でも流行してたわ」

 サヤカの夢の話は「彼ら」の正体を知る鍵だろうか?私達はそれから音楽の話や骨董の話などをした。サヤカは酔うと、頬があからんだ。酒はするりと進み一合空いたので、二本目には出雲の熟成酒「菊十字」を頼んだ。

「台湾国での生活はどうだった?」

「良かったわ。食事は美味しいし、人は優しい。温泉もある。唯一残念なのは季節感が少ない事ね。でも、今時本土にずっといる人も少ないから贅沢な悩みかも知れないわね」

「確かに。僕も外地にいると、日本の四季や温泉、純日本料理が恋しくなるな。この間の話の続きだけど、満洲には支那人や朝鮮人が経営している日本料理店が多くて味覚が外れているものが多いという話をしたよね」

「ええ、覚えてるわ」

「ある時、朝鮮人の経営する『熊さん』という名前の回転寿司屋に行ったんだ。如何にも外れな感じの名前だよね。曲がりなりにも寿司屋を名乗りながら、寿司ネタは全部支那人好みの鮭しかない。他の皿の上には炸醤麺、焼餃子はまだ良い方で仕舞いには朝鮮漬けまで出てくる始末。揚げ物が皿に乗っていて、食べてみると中身は何と酢飯だった。これは何だ!と店員に聞くと和風炒飯だって言うんだ。幾ら英語で炒飯を「FRIED RICE」とは言っても本当に酢飯を揚げる何て信じられなかった。基督教徒ではないけれど心の中で聖書の言葉を思い出したんだ。『ああ、主よ彼らをお許し下さい、彼らは何をしているのかわからないのです』ってね」

サヤカは英国の発音でFRIED RICEと言いながらくすくすと笑った。私も釣られて笑った。思えば、ちゃんと笑うのは久しぶりだった。

「タチバナ君って、昔から真面目そうな顔をしてるけど、可笑しな人ね」

「僕は真面目というよりも、表情が少ないだけだと思うんだ」

「貴方の笑顔は素敵よ」

「有難う」少し照れた。


 すき焼きを食べ終わり、食後に柚子味の氷菓子とお茶が運ばれて来た。良い会話と食事に恵まれた際に訪れる至福感に私達は包まれた。会計は私が払い、夜の街に出た。金曜日という事もあり、六区は食事前よりも活気に包まれている。映画や商品の広告映像が流れ、舞台の張紙が見えた。酔払の声が各国語で街に響いている。隣にいるサヤカとの距離はさっきよりも心なしか近く感じた。

「ねえ、凌雲閣に登ってみない?私、一度も登ったことがないのよ」

「良いね。行こうか」凌雲閣には午前の調査で登ったとは言えない。

六区の角を曲がると塔の姿が目に入った。夜間に近くから見ると、思ったよりも大きく感じた。塔の前にはちょっとした列が出来ている。聞くと十五分程度の待ち時間で登れるらしい。凌雲閣は再建された際、中央に最新の自動昇降機が設けられていた。列が進み、私達の順番が来た。自動昇降機に乗る際、私の手がサヤカの手に軽く触れた。一瞬の事だったが胸がふわりとする心地がした。昇降機は地上三十間にある最上階で止まった。外に出ると目の前に浅草の夜景が広がっている。小さな光が忙しく動いている。手摺を掴む私の直ぐ隣にサヤカがいる。今度はサヤカの指先が私の手に一瞬触れた。彼女は指を引こうとしたが、私は引寄せ優しく手を握る。サヤカの手は一瞬驚いた様に反応した後、受け止めた。長いこと求めていた柔かさ、暖かさ、そして満たされる心持ちが広がる。


「素敵ね、いつも、ちょこまかと、下の方で動き回っているけど・・・こうやって帝都を眺めると、私もここに住んいでいるって実感が出来る」

「その感じ分かるな。帝都は何か巨大な生き物みたいだよね。光が脈動をみたいに見える。でも、こうやって距離を持って対峙すると、何だかほっとする。サヤカの言うとおり、僕はこの街で生きている実感がするよ」

一瞬の沈黙。

「シラカワの馬鹿野郎!」

と、行成サヤカは大声で街に向かって叫んだ。私も彼女に倣い、シラカワの馬鹿野郎と夜の街に吠えた。

「ふふ。何だかすっきりしたわ。今日は誘ってくれて有難う」

「僕も凄く楽しかった」

「タチバナ君に会えて良かった」

「僕もサヤカと会えて良かった」


 考えて見ると満洲から東京に戻りこの仕事を始めて、様々な人の色彩を観て来た。それらの色彩は私の前を通り過ぎ交差する事はなかった。そこにサヤカが再び現れた。私の小さくも、整理され、心地良い、完結した生き方に、彼女は一筋の光明を与えてくれた。それは誰もが抱える孤独、不安、不確定な未来という暗い場所を照らす。

だが、その光は私が想定した通りにそこを灯してくれるのだろうか?想定と現実は往々に符合しない。現実と対峙する度に私は打ちのめされて来た。それが現実であっても受け止めるか、それとも見たい世界だけを見続けるのか。サヤカの小さな手に触れながら、最初に私が共感覚を自覚するに至るきっかけを思い出した。その記憶は満洲国の首府新京にある建国大学に入学して間もない頃から始まる。

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