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帝都モダン  作者: 藤堂高直
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第一話 帝都編 上野・谷中・有楽町

 先ず始めに暖かな熱を感じた。次いで、睫毛の間に白い光が差し込んで来た。障子硝子の遮光機能が自動で切となり、桜色の和音が耳元で聴こえ、私は片手で音の聴こえて来る辺りに手を伸ばした。その先にある携帯端末の操作盤を弄ると音は止み、トモコが話し始めた。

「タチバナ様、お早うございます。今日も一日頑張りましょう。昨晩はよく眠れましたか?」薄紫色の湿り気を含んだ口調が耳に優しい。

「ああ、おはよう。お陰でぐっすり眠れたよ」

「今朝も、タチバナ様の脳波は安定しておりますね。本日の調査地域が決まりましたのでお伝え致します。東京市下谷区上野と成ります」

「上野か。久しぶりで良いな」

「はい。今回はタチバナ様が先週、携帯端末で調べておられました東京帝室博物館での特別展示も調査地域の対象に入ってります。詳しい情報は添付された三次元情報を参照にして下さい。調査時間は朝十時から午後四時迄となっております」

「分かった。他に留意すべき事項はあるか?」

「はい。お疲れに成りましたらば、博物館近くの南山西洋珈琲で休憩等如何でしょうか?」

「ありがとう。そうさせて貰うよ」

 私は布団から這い出て、顔を洗い、髭をそり、歯を磨いてから、電子釜で昨日の味噌汁の残りと五穀米を簡単に温め、納豆、焼き海苔と共に食べた。食後は台所で自動濾過式珈琲を仕事用の魔法瓶に注いだ。電波放送の電源を入れると新疆国境における亜細亜連邦軍と蘇維埃軍の紛争や満洲国内で北支那による日本人拉致の新聞報道がされている。それ以外新聞は特にないようだ。食べ終えた食器を洗浄機に突っ込み、私は博物館に行くのに適切な服装を箪笥の中から選んだ。青い縦縞が細かく入ったカワクボ洋服が良いだろう。

 部屋を出て、木調の鉄戸を閉め、自動昇降機で一階迄降り、高層集合住宅を出ると、外は晴天。心地の良い山吹色の風が吹いている。今日の風は先の新聞で報道されていた満洲辺りから吹いてきたものだろうか。私は大陸の何処までも続く広大な平原を想像した。それは海拉爾辺りで昔に見た光景だろう。遠くに家畜を追う遊牧民がいて・・・支子色の金木犀の香りが私の意識を現実に戻した。もう少し冷えると、ここから富士を望む事も出来る。


 島津邸のある高台の高層集合住宅から徒歩五分で国鉄五反田駅に着いた。駅前には焦げ茶色の汗と屎尿の匂いのする、越南辺りの物乞い達が退屈そうに地べたに座っている。駅構内はいつもより少し遅い時間の為か、左程混んではいなかった。外回りの車両に乗り、乗客を観回した。霞色に観える印象の薄い萎れた男。鳶色に観える和服を着た中年女。若竹色に観える読書熱心な同年代の勤め人。桃色に観える女学生。だが、乗客の中に「彼ら」はいなかった。錠剤なしの状態で「彼ら」はそうそう見つかるものではない。空いている座席を見つけた。そこに腰掛け、私は携帯端末内のアクタガワ・タカシによる紅色の戦記ものの小説を開いた。


 始業時間の十五分前に国鉄上野駅に到着した。私は駅の便所に入り仕事の準備を始める。作業用の鞄から、電子接眼入れと錠剤入れを取り出した。先ず、接眼を両目に装着する。視界にはトモコが取り込んだ調査地域の三次元情報が映っていた。今回の調査地域は上野の御山周辺が行動範囲だ。調査地域を効率的に巡る道順がトモコにより書き込まれていた。視力調整もされ視界が広がる。私は誤操作をしないように右目の視線を上下に動かして作業画面を施錠した。次いで錠剤入れを開けた。内包されている小さな紫色の錠剤を魔法瓶に入れてある濃いめの珈琲で飲み込む。いかにも薬品といった、錠剤の色同様の苦味が珈琲の味で相殺された。私は錠剤服用後に来る極度の疲労を考え、少し気が滅入った。まあ、この疲労に耐えるからこそ、不況の最中でも一般職より短時間の労働で高収入を得られるのだ。

仕事の準備が整ったので、トモコの提案した道順に随い、上野駅から東京帝室博物館へと向かう。錠剤のお陰か神経が過敏になり、街の雑音、街路樹のさざめき、銀杏の香り、公園を歩く人達から鮮明な色彩が観じられた。

 帝室博物館の入口は平日だというのに、入場券を買うべく長蛇の列が出来ている。落ち着いた色合いの中高年が中心だ。確認をしてみたが、列の中にも「彼ら」はいない。これだけ人数が集まっているのも昭和館にて、ソガ・ショウハクの特別展示会が数日前より始まった為であろう。この展示は非番の時に訪れようと予定していたので少し気分が高揚した。呼び込みの広告には「米國より、歸つて来た雲龍図に會へる!伊勢縣内より發見されたシヨウハクの未發表作品多數!」と記載されている。


私は組織の発行する特別国民証を係員に提示し無料で入場した。正面には帝冠様式を代表する本館、左手には青銅が軽やかな大正館、右手には安定成長期を代表する昭和館がある。昭和館は混凝土梁が東大寺の南大門、浄土寺や醍醐寺経蔵に代表される大仏様を連想させるように組まれており、構造が視覚的に理解出来る。これら三つの建築物が並ぶ姿は日本建築史そのものだ。

どの館から巡っても良いのだが、行き成り混雑した昭和館で開催されている特別展に行くと官能が刺激され過ぎ、結果として共感覚の精度が落ちる。私は徐々に官能を馴らすべく、先ずは比較的閑散とした本館の常設展を巡る事にした。


 本館の中は石州瓦を濃くした色合いの重厚さと静謐が共存していた。調査を始めるのに理想的な環境だ。館内は程々の賑わいで欧州連邦出身者や、大東亜連邦の富裕層などがおり色彩に溢れている。大袈裟な吹抜けの中央階段を上り二階の展示室に入ると、縄文土器から年代順に日本芸術を代表する作品が長い回廊に沿って展示されていた。個々の作品は異なる色を発してる。早い時代の作品ほど色彩が明瞭に観え、時代が下るにつれ作品は中間色に向かって行く。作品単体から目を離して全体を観ると、今度は似た色調を保ちつつも変化する階色が観えた。

 常設展示室の奥には国宝特別展示室があった。そこでは身を崩した華族から寄贈された金の茶釜を中心に英雄ヒデヨシ公の愛用していた茶道具一式が展示されていた。室内には数人の鑑賞者がいる。彼らの色合いは鶯色、辛子色、藤色と展示室の雰囲気に寄り添っている。違和感がある。一人、微かだが麦藁色の発光色を放つ鑑賞者がいた。「彼ら」だ。その鑑賞者は六十代前半の婦人の姿をしており、着物を綺麗に着こなしていた。

 私は対象の老婦人に勘付かれないよう、さりげなく脇に寄り、茶釜を眺めるふりを暫くした。一。ニ。三。よし、接眼に情報が入り、対象の国民番号は読み込めた。老婦人は私の存在に気が付き、こちらを向いてから軽い会釈をして去って行った。一瞬だったが対象の顔も確認出来た。十分だ。私は老婦人が歩き去るのを確認すると、電子接眼を解錠し、老婦人の国民番号と顔の一致を確認した。接眼の情報では未報告の「彼ら」だ。

「トモコ。対象者の国民番号を組織に送信してくれ」と私は呟いた。

接眼から情報が組織に送信された事が確認出来た。

その後、ゆっくりと作品を見つつ本館を一巡したが、老婦人以外「彼ら」に出会う機会はなかった。一旦、調査を終えると私は休憩室の椅子に腰掛け、魔法瓶に入った珈琲を飲み五分程度の休憩を取った。窓からは裏庭がちらりと見えた。紅葉にはまだ早そうだ。

 本館と昭和館を繋ぐ連絡通路を通ると、両側に米国の波士敦美術館より買い戻した、雲龍図の宣伝広告が掲示されていた。通路を抜けた先には巨大な吹き抜けが観える。本館とは異なり、混凝土の梁により構造体が剥き出しになっており、伊太利の文科相が、花都大聖堂の天蓋と並ぶ傑作と言った場所だ。確かに、何度見ても木の枝の如く伸びている梁には圧倒される。私はこの昭和安定成長期の雰囲気が好きだ。

 吹き抜けの下は、人で溢れていた。これだけ人が多いと色同士が混ざり、色酔いをする。その為に「彼ら」の色の特定が困難になり、同時に疲労も増大する。どの道、長居は難しいだろう。ここでは無駄な情報を遮断し、官能を研ぎ澄まさなくてはならない。私は耳栓をはめ、騒音除去機能を入れた。周りの雑音がすうと引いて行く。同時に、群衆の放つ色が鮮明に観え始めた。

会場内は薄暗い。私は接眼の照度設定を変更し、作品よりも鑑賞者を観やすい明るさに調整した。展示品を鑑賞するような仕草をしながら、適度な早さで鑑賞者に目配せをする。鑑賞者達の質が良い為か観える色は、本館の国宝室と同様に渋く、群青色、曙色、枯茶色が観えた。

 広い展示室に入った。そこには一枚の巨大な屏風絵が飾ってあった。雲龍図だ。展示会場の端から端までを占める龍は、海から現れたというよりも、既にそこに存在しており、波がその巨体を濡らしているかのようだ・・・じっと観ていると、龍が動いた。これから海に潜ろうとしているのか天に登ろうとしているのか判断が出来ない。厳しい冬の海が観じられた。一瞬職務を忘れ、私は集中する時の癖で顎を暫く左手で撫で始めた。

ちくっ

頓に背中に鋭い痛みが走った。我に返り、痛みの元を確認した。操出鉛筆だ。私はそれを掴み、視線をそこから、細く繊細そうな指、白く滑らかな手、袖へと這わせる。視線の移動に合わせて次第に強烈な水色の発光色を私は観じた。背筋に硬質な悪寒が走る。「彼ら」だ。見つかった。胸の鼓動が高まる。一度落とした視線を恐る恐る上げて行く。黒く滑らかな漆塗りの下駄、白い足袋、抽象的な波模様の和服、そこから伺える綺麗な骨格の両足、豊かな臀部と胸部の膨らみ、白く細い首筋、水気を含んだ黒髪そして向日葵のような笑顔。

 誰だ?私はその女の顔を凝視した。その顔は最初は笑っていたが、私が真剣に見つめるからか、表情が曇った。その表情を私は知っている。頭の中で記憶のひだを探る。するとゆっくりと点と点が線で結びついた。

サヤカだ!


 サヤカは私が尋常小学校高学年の頃に外地の台湾国から転校して来た同級生だ。始めの内は口数が少ないが可愛い子だなと思ったが、それ以外の深い印象は抱かなかった。サヤカが転校してから数ヶ月後、席替で彼女は私の真後ろに座るようになった。それでも特にお互いの間に会話はなかった。ある日、地理の授業が余りにもつまらなくて意識が遠のき、うつらうつらとしていると、ちくっと背中に鋭い痛みが走った。最初は何事か分からず、再び、うとうとすると同じ痛みが走った。後ろを振り返ると、そこには向日葵のような笑顔をしたサヤカがいた。彼女が操出鉛筆の先で私の背中を突いたのだ。

 それ以来サヤカは、私がうつらうつらし始めると、繰出鉛筆で背中を突いた。最初の内は怒りを感じたが、サヤカの笑顔を見る度に、その笑顔が頭から離れなくなった。次第に私は彼女のことを想い続けるだけで幸せな心持ちになった。それは初恋だった。気が付くと、背中を操出鉛筆で軽く突つかれる事が何よりの楽しみになっていた。

 それから半年近くが過ぎた。私とサヤカはお互いに簡単な会話を交わすようになっていた。話をすると、他の生徒達と異なり彼女は電波放送を一切見ない事が判明した。私も電波放送は余り好きではなく、特に父親が食後に野球中継を見ている時は自室に戻り漫画や小説を読んだりした。サヤカも電波放送の代わりに、建築や骨董雑誌を読んでおり、私の知らない世界の事を話してくれた。

彼女の実家は江戸情緒を残す赤坂の古い料亭が立ち並ぶ一角にある骨董屋だった。彼女は何度か私をそこに案内してくれた。骨董品の価値はいまいち理解出来なかったが、彼女の両親がさりげなく淹れてくれる台湾烏龍茶の味や器の飲み心地は格別だった。今考えてみると結構価値のある器だったのかも知れない。サヤカの部屋で読んだ雑誌は、何故か私を強く惹き付けるものがあり、項を捲る事をやめられなかった。私達の間の会話は少なかった。それでも、夕陽の射し込む部屋でサヤカと一緒に過ごせるだけで私はささやかな幸せを感じた。


 そのような淡い想いは卒業前の席替えと共に終焉へと向った。それはどこにでもあるようなささいな出来事が切欠であった。同級生の男子同士で気になる女子の事をお互いに話した際に、私はサヤカの事が好きだと告白した。誰にも言わないという約束だった。にも関わらず、それは忽ちに教室中に拡がってしまった。以来、サヤカもその事を気にして、私にちょっかいを出す事はなくなった。その直ぐ後、私は両親の都合で外地の満洲国奉天へ引越したので、サヤカとはそれきりになってしまった。数年後、内地に戻った際、私は赤坂の骨董屋へ寄ってみた。建物は残っていたのだが、中はお洒落な雑貨屋になっていた。


 外地に渡っても、私はサヤカの事を忘れなかった、中等学校、高等学校と進んでも私は彼女の面影を追い求めた。高等学校に入り、好きになった相手も、今思えば、少しサヤカに似ていた。私の求める女性像の中心軸があるとしたら、サヤカは間違いなく常にそこにいた。だが、何故サヤカが「彼ら」なのだ?


「サヤカ!」

と、どれだけ私は叫び、再開を喜びたかったか・・・私は嘘を付いた。

「あの、すみません、どなたでしょうか?」

サヤカは、はっとした表情になった。

「ごめんなさい、尋常小学校の同級生にそっくりだったもので・・・顎を左手で撫でる仕草がその人と瓜二つだったの・・・もしかして、タチバナ君ですか?」

私は改めてサヤカを見つめた、十年以上の歳月がお互いの間で流れていた。サヤカは記憶より美しくなっていた。こういう他ない・・・魔がさした。

「あっ・・・あっ、あれ、もしかしてサヤカ?サヤカだよね!久しぶり!」

「やっぱり!良かったあ、関係ない人を操出鉛筆で突ついたりしなくて」

「そうだね、関係ない人を突つくのはいけない。ところで、僕に顎を左手で撫でる仕草があるとは気がつかなかったよ」

「ああ、それはね・・・」

「博物館内での私語は謹んで下さい」

展示室の監視員が会話を遮った。

私はサヤカの耳元で「昭和館の前で三十分後に会おう!」と言い、サヤカは時計を見て「分かったわ」と言った。私達は頷いて、一旦別れた。

 私は別れ際に仕事の癖でサヤカの国民番号を控えた。顔認証も接眼を通じて行った。仕事を始めて以来、一度も対象である「彼ら」に情を移した事はない。が、今回は組織への報告を保留する事にした。

「どうか致しましたか?脳波が乱れておりますが・・・」

と、トモコが耳栓を通じて尋ねて来た。

「いや、古い知人と偶然会っただけだ」

とだけ私は答えた。幾らトモコが接眼や耳栓を通じて私の調査情報を取り入れても、心の中迄は覗けまい・・・


 サヤカと別れて以降、「彼ら」の気配を会場で観じる事はなかった。観じるのは鑑賞者の発する落ち着いた色合だけだ。他の展示品の内容は全くと言っていいほど頭に入らない。何だか作品が発する色彩もどこか薄ぼんやりとして観じられる。多分、原因としては色酔や、錠剤の副作用により官能が鈍った事もあるだろう。それよりもサヤカとの再開、そしてその直前に観た、雲龍図の衝撃が強過ぎた事が主な原因に思える。

私の頭の中は混沌としていた。サヤカが何故「彼ら」だったのか?確かに尋常小学生の頃、私は特別共感覚に覚醒していなかった。あれは外地の大学以降の事だ。彼女に何か特別な兆候があった記憶はない・・・

 私はサヤカを組織に報告しなかった。それは「意図的な報告漏れ」という組織の規範を初めて破る事を意味していた。誤魔化す事は出来る。が、これまで過ごして来たささやかな生活に何か致命的なひびが入ったような不穏な心持ちがした。同時にサヤカとの再会は、乾涸びた大地に潤いをもたらす雫のようにも感じられた。私は繰り返される平穏な日常が壊される事を心のどこかで望んでいたのかも知れない。


 約束の五分前に昭和館に着いた。サヤカはまだいない。葉が微かに散っている。夏と秋の斑ら模様だ。約束の時間丁度に彼女は現れた。離れていても観じる事が出来る水色の発光色が視界を占有した。彼女が近づくに連れて色彩が鮮やかになる。改めて己の官能の不思議さを思った。彼女は笑顔で手を振っている。乾いた太陽の下でサヤカを観ると、その着こなし、立ち振る舞い、仕草も感じが良く、「彼ら」と遭遇する際に感じる緊張感は和らいだ。服装はミヤケ呉服のものと思われる。波模様に見えたのは立体的な折り目で、体の曲線が綺麗に見える。髪は柔らかく肩にかかっている。化粧は薄いが、猫類を連想させる丸顔の特徴を引き立てており、好感が持てた。仄かに紫の香りがする。

「おーい、タチバナ君」

「サヤカ。まさか、帝室博物館で会えるとは思わなかったよ。ここでの用事はもう済んだの?」

「ええ、無事済んだわ。ねえ、タチバナ君。あたし、お腹空いちゃった。ちょっと早いけど何か食べない?」

「僕もお腹が空いていた所だからそうしよう。この近くによく行く喫茶店があるからどうだろう?」

サヤカは腕時計をチラリと観た。

「次の予定まで一時間半あるから、それまでなら大丈夫よ」

 私達は落葉で彩られた歩道を歩き始めた。音楽堂からは現代唱歌の歌声が聴こえた。演奏会の練習でもしているのであろうか?帝都環状緑地帯の中にある小金井公園の情景を歌っているようだ。思えばこうやって二人で歩くことを私はずっと夢見ていた。私は彼女と歩く際の距離が妙に近いことに気が付き、どきりとした。

「本当に久し振り!タチバナ君が満洲に引越して以来よね」

「そうだよね。十年以上も前の事だから信じられないよ」

「タチバナ君、身長伸びたね!」

「そうだね。今は六尺近いかなぁ?サヤカも綺麗になったね」

「有難う・・・あの頃はよく家に来て一緒に本を読んだよね」

「そうだね。サヤカの家には建築や骨董の雑誌が沢山あった」

「小学生の読む本ではないよね」

「でも、僕は項を捲る度に異なる世界が広がる感じがしたよ。家でも借りた本をずっと読んでいたんだ」

「学校ではよく寝てたけど、まさかそれが原因?」

「算術や地理より、サヤカの本の方が面白いから熱中して読んでいたんだ」

「私の本を読んでうつらうつらしてたのを、突いて起こしてた。何か不思議な感じね」

私達は手探りで小学生の思い出話をした。気が付いたらば、あっという間に南山西洋珈琲店に着いた。明治期の町屋を改装した店の入り口には「ここは珈琲専門店です。食事と會話は二階席で」と書いてある。扉を開けると、からころと音がした。「いらっしゃい」の一言もないが、拒絶している感じもない。店の中は薄暗く、付け台の上には棚があり、棚の高さは店主の禿げ頭まであった。狭い階段を上がると風景が開け、谷中の五重塔が窓越しに垣間見れた。

「わあ、こんな眺めの良い場所があるなんて知らなかったわ」

「うん。この辺りは高台だからね。この店は珈琲好きの知り合いから教えて貰ったのだけれども、珈琲だけじゃなくて、景色も良かったから、気に入ったんだ。博物館で作品を見た帰り道によく寄るよ」

「素敵ね・・・あ、御品書き、咖喱飯しかないわね」

「ごめん言い忘れた、ここのお店、珈琲は充実しているのだけれども、軽食は咖喱飯しかないんだ」

料理の品書きには、太い筆で「咖喱飯珈琲付き七圓」とだけ書いてあった。選択肢は他にない。少し開いた窓から優しさと寂しさを内包した小麦色の風が吹いた。ヤマガラの鳴き声が聞こえる。

「ねえ、タチバナ君。お仕事は何をしているの?」

「僕は今、執筆家をしているんだ。あまり有名ではない雑誌を中心にね。地域の情報に関して寄稿をしているよ」

 私は嘘をついた。調査員の存在は公に知られてはいけない。鞄から防錆鉄製の名刺入れを取り出し、偽の肩書が記載されているものを渡した。執筆家という肩書きは、平日に街を徘徊する事が主な仕事な私にとって都合が良い。実際に匿名で雑誌に寄稿もしているので完全な嘘ではないのだが・・・

「タチバナ君は昔から小説家になるって言ってたものね。夢が叶ったのね。おめでとう!でも、作品は一度も私に見せてはくれなかった」

「あの頃は、何か気恥ずかしかったんだ。今読んでも、昔の文章は恥ずかしいよ・・・サヤカは今、何をしているの?」

「私はね、親の跡をついでお道具屋・・・ええと骨董屋をしているの。土ものが中心ね。今日、博物館に来たのは、いつも頑張っている自分へのご褒美よ」と言い、サヤカは笑顔を浮かべた。

「そうなんだ。この間、赤坂を歩いていたらサヤカのお店がなくなっていたけども、ちゃんと続けていたんだ。それに、土ものか・・・僕も一つ良い酒器が欲しいから今度相談出来るかな?」

「勿論!お店は目白にあるから是非遊びに来て!」

と言ってから、サヤカは私の事を怪訝そうに見て言った。

「タチバナ君、すごい汗だけど大丈夫?」

私は気が付かない内に凄い汗をかいていたようだ。それは暑さのせいではない。サヤカであれども「彼ら」と長時間近距離で接しているために出た冷汗であろう。

「僕はほら、昔から暑がりだったからかな?」

「そうだったかしら?細かい事は大体覚えているのだけれど・・・ほら、タチバナ君の顎を撫でる仕草とか。でも、確かにこの部屋は一寸暑いわね」

そう言って、サヤカは羽織を脱いだ。羽織を着ている時よりも、胸の膨らみが際立ち、目のやりどころに困ってしまった。

間の悪さを繕うように、咖喱飯が運ばれて来た。全体的に小振りで具も多くはないが、味は簡単ながらも濃厚に作られており、米も水が良いからか、炊き方の工夫なのかしらんが、歯応えがよく、噛むと旨味と共に甘みが広がった。サヤカも気に入っている様子だ。

「そう言えばタチバナ君、カツヤ先生に咖喱飯の事で怒られた事あったよね」

「そんな事あったかな?」

「ほら、ヨシモト君の書いた下手な絵の上に落書きをして、先生が給食が終わったら職員室迄来なさいというから、タチバナ君、給食の咖喱飯を食べ終わらず、わざとゆっくり一粒一粒味わいながら食べていた。それが何とも私には上品に見えたの。あの後家に帰ってから、一人で思い出し笑いをしていたのよ」

「よく、覚えているね。僕は小学校の頃の事なんて殆ど覚えていないんだ」

「そうね、何でだろう。小学校時代が今考えると一番楽しかったからかしら。タチバナ君は外地での生活はどうだったの?」

「外地か・・・親が満洲国へ転勤になったから、一緒に向こうに行ったのだけれども、満洲へ行って直ぐに親元を離れて、全寮制の中等学校に入ったんだ。学校の周りは草原で何もない。地平線に草と空だけ。蒙古人が多い地域で、遠過ぎて見えない時もあったけど、たまに彼らが手を振っていた。夜は星が本当によく見えた。寮の屋上にいると、海の底にいる様な夜空だったんだ。生徒も亜細亜連邦内外から集まっていて、何というか内地の人達よりもませていた。先生に隠れて、支那人の行商から買った大麻を吸ってる白系露西亜人や蘇維埃から亡命して来た連中もいた。彼らはいつも徒党を組み怖かった。女子寮に忍び込んだ朝鮮人も結構いた。彼らは直情的で血が登ると言葉よりも先に手が出る。暴れ出したら大変なんだ。大騒ぎを起こしては色々な主張を無理に通そうとする。でも、先生達もそこら辺は心得ていて、結局、彼らの主張で通ったのは朝鮮漬け用の冷蔵庫を一つ増やす事しか出来なかったけどね。支那人とも馬が合わなかった。何というか食べる事とお金の話しかしない。外地迄行って日本人と一緒にいるのもつまらないから、何かと一人でいることが多かったんだ。数少ない友人もいた。猶太人、蒙古人、満洲人と台湾人だった。彼らとは波長が不思議と合った。何にしろ、日本国内と違い色々な価値観があっても構わないんだ、って思えるようになったのは良かったな」

「ふむふむ。料理は美味しかった?」

「基本的に美味しかったよ。満洲料理、支那料理、朝鮮料理、蒙古料理、露西亜料理、猶太料理と色々な料理が食べられたんだ。特に満洲名物の焼餃子と豆腐は美味しい。他にも日本人の舌に合う料理が結構あって、炸醤麺、山羊肉のしゃぶしゃぶ、地三鮮も好んで食べた。内地でも最近話題のつけ支那蕎麦も好きだな。残念なのは和食。和食の殆どは支那人、朝鮮人と越南人が作っていて、味覚が違うんだ。内地では和食認定制度があるけれど、僕がいた頃の満洲国では、その辺りが適当で、和食の味を知らない人が多いから、真面目に料理を作る我が国の料理人はお手上げだったみたい」

「そうなんだ、私は満洲国に行った事がないから、よく分からないけれど良い経験をしたのね」

「そうだね。勝手が違うから苦労もしたけど、内地にずっといたらば見えない景色、会えない人、思いがけない出来事を体験出来たのは良かったよ。それに、祖国を客観的に見られるように成った。大学を卒業した後も暫くは満洲国にいた。大きな出版社に就職をしたけれども、就職して直ぐ恐慌の影響で仕事を失い、内地に戻って来て、今はささやかな執筆業をしている。サヤカはあの後内地での生活はどうだったの?」

「私もタチバナ君が転校した後、家族で台湾に戻ったわ。それから色々と大変な時期もあったけれども、何とか自分のお店を目白に持てるまでになった」

「凄いね!」

珈琲が運ばれて来た。器は大正期のノリタケで、Art Decoの幾何学的な意匠が美しい。器を手に取ると少し熱かった。中の液体を口にすると、舌が火傷しない程度の漆黒が喉を伝う。それは官能的な接吻を連想させる。味は濃く、上等な葡萄酒の様に時間の経過と共に幾重もの味が開花する。

「タチバナ君、ここの珈琲は凄いね」

「うん、いつ飲んでも圧倒される」

ちゃぶ台の上に珈琲が二つ、私達の間を繋いでいる。

「ここ・・・とても良い場所ね。タチバナ君って、昔から眈眈とした所があったけど、頭の中はどんなものが詰まってるのかしら」

「大したものは入ってないよ。仕事柄色々な街を歩くから、それでいつの間にか詳しくなったのだと思う。そうする内に東京中に自分が自分らしくいられる、何というかしっくりくる場所が増えて来た感じかな」

「そういうの私も好きよ」一瞬どきりとした。

「タチバナ君はこれからどうするの?」

「僕はこれから寛永寺の徳川家霊廟に関する記事を書く為に、また御山に戻るよ」

「そう。私はそろそろお客様に会いにいかないと」

「また、会えるかな?」

「ええ、勿論!これが私の連絡先」

サヤカは腕輪型の携帯端末を出して来た。私は私生活用の旧型の携帯端末を取り出して、連絡先の情報を無線で交換した。


 上野寛永寺、徳川家霊廟の入口付近には外国人観光客が溢れていた。外国人観光客といっても、欧州連合出身者が中心だ。主に仏語、次いで独語が聞こえる。亜細亜連邦遺産の日光東照宮まで行く時間のない観光客が、同じく遺産指定を受けている増上寺の徳川家霊廟と合わせて寛永寺徳川家霊廟の過剰な装飾とヒダリ・ジンゴロウ作と伝わる彫刻を見に集まるのだ。私も尋常小学校の頃に一度、国史の授業でここに訪れた事がある。サヤカが転校してくる前の事だ。だが、仕事として訪れるのは今回が初めてだ。

国民証を提示し、朱色の威厳ある常憲院勅額門より霊廟内に入る。水盤舎にて、手と口を清め、奥に進むと装飾密度と色彩の対比が鮮やかな透塀と中門が見えた。その先にある本殿の周りには再び人集りが出来ていた。外国人観光客の色合いは育った環境が我々と異なる為か何処となく、異国の雰囲気があった。仏蘭西系は葡萄酒色、洋緑色、乳白色が多く、独逸系は黄土色がかった黄色、赤、それに緑と仏蘭西系よりも色がはっきりしている。

拝殿に入る為の列にいた一人の仏蘭西系男は黒い中折れ帽を被り何か複雑な風味のものを噛んだ様な顔付きをしていた、その男からは、サヤカの実家に置いてあった建築雑誌で見た大聖堂の色硝子さながら、黄色い発光色を出していた。日本人以外で「彼ら」を見つける事は珍しい。私はヒダリ・ジンゴロウの波と兎が彫られた作品の前に出来た人集りに混じり対象に接近する。対象は辺りをきょろきょろと見回していた為、容易に外国籍の国民番号と対象の顔を確認出来た。名前が日本風なので、日本人との混血かも知れない。

対象の情報をトモコに伝えると、接眼に映された時刻が終業になっていた。短時間で過度な集中と刺激を受けた為、私は激しい疲労と眠気を感じた。ふらふらと目の前にある長椅子に倒れる様に腰掛け、半ば放心状態になり空を見つめた。雲の動きが早い。強い風が吹いた。目を軽く閉じ、秋の風を感じた。


子供のはしゃぐ声が聞こえ、目が覚めた。疲れは随分取れている。時間は既に二十分程経過していた。私は魔法瓶に残った最後の珈琲を飲むと、今日の業務を口頭でトモコに報告した。これで、一日の仕事は終わった。後はトモコがまとめてくれる。一息つくとサヤカの事が妙に気になった。誰か相談出来そうな人間はいないものかと少し考えてみる・・・そうだ。ふと思い付きハルオに連絡を取った。



ハルオは約束の時間よりも少し早く、帝国旅館旧館の広間に座っていた。照明が大谷石の荒い表面と煉瓦に当たり陰影が美しい。ハルオは垢抜けた柄の和服に巴奈馬帽を被っていた。昔日の文豪風情である。大学では射撃部に属していた為か、健康的に焼けた肌と引き締まった長身が目立つ。ハルオからは根来漆器の赤漆色が観じられた。流石、華族だけあり市井とは雰囲気や色合いが異なる。

「よう、上野観光は楽しかったか?お前から呑みに誘って来るなんて珍しいな」

「急にすみません」

「いいって事よ。お前の色を観ると・・・悩みあり。というところか。お互い難儀な生業をしている仲だしな」


仕事を始めて間もない頃、私は現場を学ぶ為にハルオを組織から紹介され、彼の補佐をしていた。ハルオは私より年齢が一つだけ上だが、二年早く組織に入っていた。彼の補佐を終えてからも、ハルオは私をよく呑みに誘ってくれた。呑むと言っても大体の場合はハルオの仕事に関する愚痴だか笑い話だか分からない話を一方的に聞かされる場合が殆どだった。また、ハルオは私よりも組織に関して知っていることが多く、話せる範囲の情報は教えてくれた。


この日のハルオは、妙に上機嫌だった。私達はライト館裏の昭和初期に建てられた建物の地下にある行きつけの居酒屋に行った。店内は薄暗く、既に多くの客がいた。私達は一枚板の天然木が使われた付け台席に座り、枝豆と共に、西洋唐花草が効いた柑橘系の酸味と苦味が定評の上面発酵麦酒を頼んだ。

「最近、俺は色以外に『彼ら』を見つける方法を知った!知りたいか?」

「共感覚の官能以外に『彼ら』の識別方法はないはずですが・・・」

「甘いな。それはなあ・・・『彼ら』の放屁の匂いだ。」

「屁!?」

「そうだ。ある時、俺は電車の中でうとうとしていた。すると、鉄のような匂いが漂ってきた。妙な匂いだと思い眼を開けると、大当たり!隣の席の初老の男が『彼ら』だった!最初は匂いと『彼ら』の関係が定かじゃなかったが、何度か同じ事が繰り返される内に俺はそれが確信に変わった。以降、この匂いを嗅ぐと『彼ら』が見つかる」

「・・・ハルオさん。それは嘘でしょう。僕なりに『彼ら』の屁も含む体臭諸々の特徴を調べて来たつもりです。でも、屁の匂いによる差異は見つけられませんでした。ハルオさんが最初に言ったように、『彼ら』は我々のような特別共感覚を持つ人にしか見分けられません」

「合格だ!つまらないな。組織に入ったばかりの頃は騙せたが、もう騙せそうにない。俺も調べたが、矢張り『彼ら』を識別するには俺らの特別共感覚を通じた視認しかない。視認の方法はそれぞれと言うが・・・タチバナ、お前の視認方法は発光系だよな」

「はい。そうです。ハルオさんの視認方法は色が変わり続ける・・・」

「非定色系だ。兎に角。何か、俺に相談する事があるんだよな?だが、お前に教えられる事など今更殆どない。その前提で、何を知りたい?」

「実は、今日たまたま発見した『彼ら』の一人が昔の同級生でした」

「相手と話したのか?」

「いえ・・・」

「報告済みの対象か?」

「いいえ、未報告の対象でした」

ハルオと会う前に、携帯端末で報告済みの『彼ら』の番号と照合してみたが、サヤカは未だ報告されていなかった。

「知り合いや親類が『彼ら』だと、組織に入れないことは知っているだろう」

「はい」

「例外はある。今回のような場合がそうだ。組織はその対象を認識してなかったのだから、その場合は問題ない」

「僕が特別共感覚に目覚める前に知り合ったので、僕も同級生が『彼ら』だとは気が付きませんでした」

「まあ、お前の場合は後天性の特別共感覚だからな・・・で、組織には報告したのか?」

「国民番号と顔を控えました。ですが・・・報告はしていません」

「まあ、対象との接触を避ければ問題はない・・・か。組織には黙っておくよ」

「すみません・・・」気が付いたらば、顎を左手で撫でていた。自分の無自覚だった癖を知った。少し間を置いてから本題を切り出した。

「野暮な質問ですが、単刀直入に伺います。『彼ら』とは何者なのですか?」

「おいおい、唐突だな。同級生が『彼ら』だったということで気になったか。まあ、何も考えずにいる方が楽だろうが、この仕事をする限りにおいて、誰もがいつかは疑問に思うことだろう。疑問を持つのが早いか遅いかの違いしかない。さっきも言った通り、俺も組織から教わった以上の知識はない。それに組織が正しい情報を俺らに降ろしているとも限らない。だが、仕事をして行く内に分かったことが幾つかある、お前にまだ話していない話でこの程度は言える・・・」

ハルオは一瞬間を置いた。

「その前に。タチバナ、お前はこれ迄の限定された情報と経験から『彼ら』は何者だと考えている?」

「僕は・・・『彼ら』が何者なのか真剣に考えたことはこれ迄ありませんでした。見た目や行動様式は我々と差異は認められません。実際に軽く触れたこともありますが人間の皮膚でした。限りなく人間に近いけれども、我々と微妙に何かが異なる存在、という程度の認識です。ただ、肝心の何が違うのかが分からない。また、『彼ら』は我々と敵対する存在ではない。だが、組織にとっては何らかの利益がある。この程度の認識です」

「ほお・・・ちゃんと考えているようだな。俺の認識はこうだ。先ず、『彼ら』は人類だ。宇宙人説、機械説、吸血鬼説、幽霊説等、組織に属していない特別共感覚の奴らは好き勝手に言う。が、それらは根本的に間違っている。まあ、特別共感覚は高機能自閉症、多動、読字困難と想像力が豊かすぎる連中に多いから色々と勝手な事を宣うのだろうが・・・」

ハルオは何かを思い出す様に目を閉じた。

「俺は仕事を始めて間もない頃、一人の対象を延々と追い続けた事がある。勤務外での行動だから組織も把握していない。対象は若い女だ。俺はその対象を暫定的にキヨコと名付けた。俺の祖母の名前だ。深い意味はない。キヨコの行動原理は、俺らと何の違いもなかった。普通に食事をし、仕事をし、怪我をし、同じ色の血を流し、孤独を抱え生きている。ようは俺らと一緒ということだ」

ハルオは敷島の箱を取り出し、煙草を口に咥えに火を付けた。

「ある日、俺はキヨコが家族と会う光景を見た。俺は『彼ら』が遺伝によって引き継がれるものだと思っていたが違った。キヨコの家族は『彼ら』ではなかった。最初は偽装家族の可能性も疑った。が、俺の共感覚は観せた。これは血と心で繋がった家族だと。そこで確信した。つまり、キヨコは元々、俺らと同じ人間で何かの切欠で『彼ら』になった。もしくは普通の家族から変異して生まれつき『彼ら』であった。恐らくは、キヨコ自身も『彼ら』であると自覚をしていないはずだ。同様に『彼ら』の多くが『彼ら』であると自覚していない可能性も考えられる。そうなると組織のみが、『彼ら』の利用価値を知っているということになる」

「でも、それはまだ仮説じゃありませんか」

「仮説だ。が、考えてみろ。お前がお前自身の官能を信じて仕事をしているのと同じ位、それは説得力を持つことなんだ」

「仮に『彼ら』が人間だとして、『彼ら』は、僕らと一体何が違うのでしょうか?」

「それは分からない。組織は知っているだろうが、俺は『彼ら』が結局何者なのか、そして何が異なるのかは知らない。一つ言えることは、職務以上に『彼ら』と関わらない方が良い」

「どういう意味ですか?」

「お前が『彼ら』に興味を持ったのならば、遅かれ早かれ分かることだろう。さっ、仕事の話はやめだ。飲むぞ!」

これ以上、ハルオに聞いても何も引き出せないであろうことは明らかだった。会計は私が済まし、私達は飲み直した。ハルオは機嫌を取り戻し、終始陽気であった。ハルオと別れた私は、駆け足で終電に滑り込んだ。国鉄新橋駅の構内は赤茶けた殺気で満ちていた。首締姿の勤め人達はこの時間迄働いていたのであろう。電車が国鉄五反田駅に着くと、私はとみに気分が悪くなり、激しく嘔吐をした。嘔吐なんて大学時代以来の事だ。食べた魚介類の肉片が床に散らばっている。。


「彼ら」という存在は私にとってこれ迄、何ら気にする必要のない存在であった。それが私の人生に介入を始めた。ハルオの仮説は正しいだろう。ハルオの言うように、私の感覚を信じる以外に「彼ら」の正体を知る方法はない。駅周辺は終電が過ぎたにも関わらず、女衒が呼び込みをしていた。私はふらつきながら繁華街を抜け川沿いに出た。鞄の中に金鵄が入っていた事を思い出し火をつけた。口の中に嫌な酸味が残っている。ベンチに座り空を見上げると、街路樹は薄っすらと紅葉していた。


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