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琉夏と夜の庭

作者: 太田龍子

同じ場所で眺めた出来事も、見えているもの、記憶される内容は人によってまったく違う。さらに、記憶は取り出すたびに微妙に形を変え、時とともにそのぶれは拡大していく。共有していたはずの大切な思い出はいつの間にか変質し、繰り返し見る夢はやがて記憶の一部となる。自分の記憶と感覚に対する信頼は年々失われていく。記憶はそれ自体が創作物かもしれない。私の記憶を創作しているのは私? だろうか。

琉夏(るか)たちを乗せたタクシーは砂色の長いがずっとつづいてる所にさしかかりました。

琉夏は

「あっ」

と思いました。

石なのにつるっとしていなくてざらざらと砂をかためたみたいな感じでふしぎな木目みたいなもようのあるそのは、たしかに見た事がありましたし、さわったかんじもおぼえています。


----木のふしみたいな穴に指をつっこんだらぼろぼろと砂がおちたっけ。

----そうだ。ここがおばあちゃまの家だ。


琉夏ははっきりと思い出しました。

琉夏がここに来たのは二回目です。

今日はおばあちゃまの家のお墓のあるお寺に来た帰りなのです。

その前は今から三年前、琉夏の三年生の夏休みにおかあちゃまといっしょにこのおばあちゃまの家にとまりに来たのでした。

おばあちゃまのところにはじめて来た時、琉夏はおばあちゃまに言いました。

「へんなの。このへい、砂でできてるみたい」

おばあちゃまは笑ってこたえました。

「るーちゃんはかしこいね。その塀はもとは砂だったのよ。砂岩(さがん)ていうの。砂が川をずーっと流されて海までいって海の底にたまってね、それが長い間に重なってかたまって石になったの。その石を切ってきて塀を作ったのよ。」

「海の底から?」

琉夏はききました。

「むかし海だった所からね。いまは陸になっているのよ、きっと」

おばあちゃまはおしえてくれましたっけ。

琉夏は砂が石になったり、海が陸になったりするということをその時はじめて知りました。「山の木は切られて材木になるでしょう。そして大工さんが家を作ったり、工場で家具になったりするでしょう。なんでも最初から最後まで変わらないものってないのよ」

とおばあちゃまが言うのをきいてとても感心した事を思い出しました。



「おばあちゃまの家は去年火事でもえてしまったってきいたけれど塀はのこっていたんだ」

琉夏は思いました。

そしたらほかにもなにかのこっているものがあるかも知れません。

おばあちゃまの家はとても広くって古かったので、おもしろいもの、ふしぎなもの、ちょっとこわいようなものなど琉夏がそれまでに見た事のないようなものがいっぱいありました。

とくにおばあちゃまが「お(くら)」とよんでいたところに。

お蔵はおばあちゃまのすんでいるお家とつながっていましたけれど色や形がぜんぜんちがっていました。

おばあちゃまのすんでいるところは灰色の木でできているのに、お蔵は上のほうがまっ白で下の方は黒地に白の大きなチェックもようがついているののでした。

「お蔵は土とかわらでできているのよ。火事にあっても燃えないように」

とおばあちゃまはいっていました。

だからお蔵はのこっているかもしれません。

琉夏はおばあちゃまの家がどうなっているかとても見たいと思いました。


「ね、ここ、おばあちゃまんちの…」

と言いかけた時、となりにのっていたおかあちゃまは

「この先の門のところでとめてください」

と運転手さんに言いました。

「そしてちょっとの間まっていてください」

「はい、わかりました」

運転手さんはこたえました。


琉夏とおかあちゃまはタクシーをおりました。

「おかあちゃまもお家を見たいんだ」

琉夏は思いました。それはそうです。琉夏は三年前に一度来ただけですが、おかあちゃまはこの家で生まれて大きくなるまで住んでいたのです。

門には(かわら)ののった屋根があって大きな両開きの扉がついています。テレビの時代劇にでてくるお屋敷のようです。木でできていましたが燃えないで前と同じにそこにありました。

おかあちゃまは大きな扉の横の小さな戸を開けて中に入りました。

琉夏もつづいて入りました。


塀の内がわはがらんとしていました。

門のそばや庭に植わっていた木もほとんどのこっていません。

池だった所は水がなくなって石のしきつめられた大きなくぼみになっています。

池に泳いでいたこいや金魚やかめはみんなどうなったのでしょうか。

もちろん家そのものもなんにもありません。

そして前は家のかげにかくれて門のところからは見えなかったはずのお蔵が、むこうにぽつんと建っていました。

入り口はこちらを向いています。

その入り口は真っ黒でした。

扉が燃えてしまったのでしょうか。

おばあちゃまのお蔵に入っていたものはみんな燃えてしまったようです。お蔵の内がわも真っ黒になっているのがわかりました。

まるで洞くつの入り口のようです。

「お蔵、もえちゃったんだ」

琉夏は黙っているのが恐いような気がして言いました。

「そう、扉が開いていたのよ、きっと」

おかあちゃまがこたえました。

「お蔵はね、窓も扉もすっかりしまっていれば火事でもだいじょうぶなの。でも一ケ所でも開いていて火が入ったらもえちゃうんですって」

「おばあちゃまは扉を閉めたはずなのに」と琉夏は思いました。



おばあちゃまの家はお蔵の入り口とつながっていました。おばあちゃまの寝る部屋にはお蔵の扉がありました。

夜になるとおばあちゃまはいつもお蔵の扉の前にお布団をしいて寝ていました。

お蔵の扉はいつもきちんとしまっていたのです。

琉夏はおばあちゃまにねだってお蔵の中を見せてもらった事があります。

扉をあけるのは大変そうでした。

おばあちゃまは大きな黒い鉄のかぎをがっちんとはずしました。そして両開きの扉を重そうに開けました。

扉はとてもぶあつくて、ふちが階段みたいにだんだんになっているのです。

内がわにはもうひとつ木でできた引き戸がありました。

それをあけてのぞくと、中にはかべぎわにずうっとたながあり、いろんな大きさの箱やがのっています。床にもいろいろな物がつんであって、まん中へんにおいてある箱なんかは琉夏が三人くらい入れそうなほど大きく見えました。古そうなスキーの道具なんかもありました。お蔵の一階のてんじょうは木で、まん中のところが格子になっていて二階がすけて見えていました。二階にもたんすや箱やいろいろなものが見えました。格子のすき間からは上におかれたたんすの底が見えました。なんだか読めないくねくねした黒い文字が書いてあります。てんじょうの格子にはいろんな形の新聞紙でつつまれたものや、ざるなんかがぶるさがっていました。

「おばあちゃまは中にあるものをみんな知ってるの?」

琉夏はききました。ちょっと見ただけでも百個よりもっともっとたくさんの箱や包がありそうだと思ったのでした。

「ううん、知らないもののほうがおおいでしょ。ほとんどはおじいちゃまのそのまたおとうちゃまかおじいちゃまのころからここにあるものばかりよ。るーちゃんのおかあちゃまがいた頃はお正月やお客さまのときにはいいお(わん)やお皿をここから出して使ったりしていたけれどね。入ってみる?」

おばあちゃまは言いましたが、琉夏は

「ううん、いい」

とことわりました。

ぶるさがっている変な形の包みが、かさこそとうごきだしそうな気がしたのです。

おばあちゃまはお蔵の中の電気を消して重い扉をしめると、またがっちんとかぎをかけました。


あれっきりおばあちゃまはお蔵をあけませんでした。そしてそのあと琉夏とおかあちゃまといっしょに琉夏たちの町にひっこしたのです。

でも町で暮らすようになってから一年ほどでおばあちゃまは亡くなってしまったのでした。今日はおばあちゃまのお骨をお墓に入れてもらうためにお寺に来たのです。

琉夏はお蔵の中の物がみんな燃えてなくなってしまったと思うとなんだかかわいそうなような、でもちょっとほっとしたような変な気分になりました。


「あら」

とおかあちゃまがつぶやきました。

「あんなところに桐の木があったかしら」

敷地のまん中へん、横長の石の前に大きな木があります。

きれいなうすい紫色の花がいっぱい咲いています。

藤の花にちょっとにているけれど花は上を向いているし葉っぱも大きいのです。

「あれは桐の花なの」

琉夏はおかあちゃまにききました。

「そうよ。でもこの庭に桐の木なんかなかったはずなのに。」

おかあちゃまは言いました。

そういえばなんだか変です。

桐の木のそばの石は よく見ると縁側(えんがわ)の前にあった沓脱(くつぬ)ぎ石です。

家が火事になった時にいっしょにこげたのでしょう、真っ黒になっています。

庭の木はみんな火にあぶられたせいか、こげたりかれたりしているのに、その桐の木だけはみずみずしい葉をつけていきいきとしているのです。

それに沓脱ぎ石の前にあんな大きな木があったはずはありません。

庭に出るのにはきものをはく所なのですからあんな大きな木があったらじゃまでしょうがありません。琉夏が三年前にとまった時にはしょっちゅうあの縁側から庭に出ていたのですからぜったい気がついたはずです。

「でも…」

琉夏はなんだかその木を知っているような気がしました。

名前は知らなかったけれどあの紫色の花は見た覚えがあるのです。

「前に来た時に見たよ。あの花、きっと」

「まさか」

おかあちゃまは言いました。

「だってこの前来たのは八月だもの。

桐の花はね、今頃咲くのよ。

夏には咲かないわ。よそで別の時に見たんでしょう。

桐の木は育つのが速いって言うからおかあちゃまの子供の頃にはなかったのかも知れないわね。

この前に来た時には花が咲いてないから気がつかなかったんだわ。」

今日、琉夏たちは五月のゴールデンウィークを利用してお寺に来ているのです。五月に咲く花を八月に見られたはずはありません。

でも琉夏はあの紫色の花をおばあちゃまの家の縁側からたしかに見上げたことがあるような気がしてしょうがありませんでした。


「あの…」

その時タクシーの運転手さんがやってきました。

「もう行かないと今度の電車にまにあわなくなりますよ。つぎのは二時間半待ちですけど」

「あらたいへん。」

琉夏とおかあちゃまはあわてて車にもどりました。

運転手さんはすぐに出発しました。

タクシーはどんどん走ります。

砂岩の塀はじきに見えなくなりました。


タクシーはときどきゴトゴトとゆれました。道が舗装(ほそう)されていない所があるのです。

琉夏は三年前に来た時にここではじめてアスファルトやセメントで鋪装されていない道路を歩いたことを思い出しました。

他にもはじめてのことがいっぱいで毎日びっくりすることがありました。

道のまん中の大きな水たまりに空を飛んでいるトンビが映ったこと。

道ばたの大きな機械がジュースかお茶の自動販売機だと思ったらコイン式の精米機だったこと。

暗くなると庭から「うぉーっうぉーっ」と大きな声がきこえてきて、それがなんとかえるの鳴き声だったこと。

夜にはものすごく大きな()がとんできて電気の笠にとまったこと。その蛾の目が真っ赤にひかっていたこと。

夜は暗くてお手洗いに行くのが恐かったこと。

そう、おばあちゃまの家は琉夏の家や近所のお友だちの家といろいろちがったところがあったけれど、一番ちがっていたのは夜でした。

昼間の景色も琉夏の住んでる町とはずいぶんちがいましたが、夜になると本当に別の世界のようにちがっていたのです。


お婆ちゃまの家とそのまわりは夜になるととっても暗かったのでした。

家の前の道もコンビニやお店がないから明かりがないのです。

門の所には電気がありましたが、庭はお月さまがないとまっくらでした。

茶の間のかべの高い所にははく製のしかの頭がかかっていてくらい所で見るととてもこわいのです。琉夏は夜お手洗いに行く時はぜったい茶の間を通らないようにしていました。それに夜、琉夏がおふとんに入ったあとでおかあちゃまとおばあちゃまはずっーと話をしているのです。

ひそひそ声ですけれど、ときにはけんかしているように聞こえることがありました。

おかあちゃまは

「足だってずいぶん悪いのに…」とか

「いつまでも一人で住んでいられないでしょ。」

とかいっているようでした。

おばあちゃまの声はひくくてなんていっているのかわかりませんでした。

夏休みの前にはおかあちゃまはおばあちゃまを琉夏たちの家につれてきていっしょに住むのだといっていました。

琉夏たちはおばあちゃまをむかえにきたのでした。

でも、毎晩おかあちゃまとおばあちゃまが言い争っているようすをみるとおばあちゃまは琉夏たちの町へ移るのをいやがっているのかもしれないと琉夏は思ったものでした。

おばあちゃまは琉夏のことをとても可愛がってくれて話しかけるといつもうれしそうに返事をしてくれます。でも琉夏といっしょに住むのはいやなんでしょうか。

「きっとお友だちやこのお家とはなれるのがいやなんだ。」

そのとき琉夏は思いました。琉夏は二年生の時に引っ越して転校したことがありました。

仲好しのお友だちと別れるのは悲しかったし、新しい学校でお友だちができるまではとても心細かったのをおぼえていました。

おばあちゃまはこの家にもう五十年も住んでいるのだそうですからきっとここを離れたくないにちがいないと琉夏は思いました。

「ひっこししてもじきにおともだちができるよ。」

って言ったらおばあちゃまは安心するでしょうか。

でもおばあちゃまが町に来てしまったら、自分もここにはもうこられなくなってしまうかも知れません。

いろいろおもしろいこともあるのにそれではつまらないような気がします。

そんなことを考えているいちにいつも眠くなってしまうのでした。

そしてお手洗いに行きたくなって目がさめると、もう話声はしなくておかあちゃまとおばあちゃまもねてしまっているのでした。

おかあちゃまをおこすとしかられそうなので琉夏は一人でろうかのずっと向こうのお手洗いに行きました。

夏だったのでろうかの雨戸がところどころ開けてあって、お月さまの出ている時には庭からの月明かりで少し明るかったのです。

でも、庭の木がざわざわがさがさする音や、うしがえるの「うぉーっ」ていうなき声がすごいし、庭からぬーっとなにかが入ってきそうで琉夏はいつも外を見ないようにして大急ぎで通るのでした。

ある晩、お手洗いからのかえりに庭からばさばさと大きな鳥のはばたく音みたいなすごい音がしました。

琉夏はびっくりしておばあちゃまの部屋にとびこみました。

おばあちゃまの部屋には小さな明かりがついていたのです。

「おばあちゃまっ」

いいかけて琉夏は声がでなくなりました。

おばあちゃまの部屋の鏡台の前にはしらない女の人がすわっていたのです。

女の人は髪が長くてゆかたをきていました。

琉夏が立ちすくんでいると女の人が振り返りました。

「どうしたの、るーちゃん。」

それはおばあちゃまの声でした。

顔もおばあちゃまの顔でした。

おばあちゃまは昼間はいつもズボンをはいて髪も首のあたりできゅっとひっつめにしてとめているので別の人みたいに見えたのです。

白髪まじりでも長い髪を三つ編みにしてたらしたおばあちゃまのうしろ姿はは昼間よりなんだか若く女っぽくみえたのでした。

「ちがう人かとおもった。」

琉夏はたたみのうえにぺったりすわってしまいました。

「前は昼間も着物をきてたけれど、近ごろは肩が痛くて帯がめんどうでね。でも寝巻きはゆかたでないとおちつかないのよ。

で、どうしたの。恐い夢でも見た」

「ううん。お手洗いにいったらね。庭に何かいてばさばさって大きな音がしたの。」

「鳥よ、きっと。ふくろうかヨタカかわからないけど夜に飛ぶ鳥もいるのよ。ねずみでもつかまえたのかもしれないね。」

おばあちゃまは言いました。

でも琉夏はやっぱりあの長いろうかを自分の部屋までもどるのがいやでした。

夜に飛んで野ねずみをつかまえるなんてきっと大きくて恐ろしい鳥です。

いつかの大きな蛾みたいに目が光っているかも知れないと思いました。

もじもじしている琉夏におばあちゃまは言いました。

「今日はおばあちゃまといっしょにここでねようか。」

「うん。」

琉夏はほっとしました。

おばあちゃまも昼間とはちょっとちがっていて変な感じでしたけれど、ねずみをとるような恐い鳥が飛んで入ってくるかもしれないろうかをずーっと歩いていくよりはましです。

おばあちゃまは押し入れからまくらをもう一つだしてくれました。

お蔵の入り口の前にしかれたおふとんにねるとおばあちゃまがききょうの花のもようのうすい夏がけふとんをかけてくれました。

おばあちゃまのおふとんは知っているにおいがしました。おとうさんのとよくにたにおい、そうたばこのにおいです。

まくらもとには灰皿まであるではありませんか。琉夏はおばあちゃまがたばこをすっているところなんか見たことがありませんでした。

「おばあちゃまはたばこを吸うの?」

琉夏は思わずききました。

「おやおや、みつかっちゃったね。日にほんの二?三本だけね。」

おばあちゃまは灰皿をまくらもとからたんすの上に置きなおしました。

「おばあちゃまがお嫁に来た頃はこの家は材木屋さんでね、それほど大きな商売ではなかったけれどおばあちゃまもいろいろ役目があったのよ。」

おばあちゃまは言いました。そんな話はまえにおかあちゃまにきいたような気もしました。

帳簿(ちょうぼ)つけをおぼえるようにいわれたんだけれどむずかしくてねえ。人も多くて台所もいそがしかったし、夜に売り上げを計算して帳簿づけをするころにはくたびれてしまって眠いし、なかなかおぼえられなかったのよ。そしたらおじいちゃまのおとうさんが『これでも吸って目をさましなさい。』ってね、たばこをくれたの。

それから夜仕事の時に吸うくせになってね。

いまではもう帳簿はつけないけど寝る前の一服だけはやめられないのよ」

昔、この家が材木屋さんをしていた頃は、番頭さんやお手伝いさんがいて他にもたくさん人が出入りして、とてもににぎやかだったとおばあちゃまは話してくれました。

お嫁にきた時は覚えなければならないことがたくさんあって大変だったのだそうです。

「帳簿つけだけじゃなく、電話の受け方もあいさつのしかたもうまくできなくてね、悲しくなって生まれたお家にかえりたいとおもったこともあったけれどね」

おばあちゃまは言いました。

「いつのまにかこの家に住んだ方が長くなって、もうどこにも他に行く所はないと思うようになったのよ。夜、寝る前にこのお蔵の前にすわっているとね、ああ今日も一日無事にすごせたなってほっとするの。」

 梅干しの作り方でも、お裁縫でも、海の砂が長い間に石になることでも、何でもよく知っているおばあちゃま。がたぴしいう古い雨戸だっておかあちゃまよりもずっとじょうずに開け閉めできるおばあちゃま。おかあちゃまにないしょで塾の宿題の算数だってすらすらといてくれたおばあちゃまが帳簿がうまくつけられなくておじいちゃまにしかられていたなんて信じられません。

 お嫁に来たばかりのおばあちゃまはどんなふうだったのでしょうか。

「さっき鏡台の前で髪をとかしていたのは昔むかしのおばあちゃまかしらん」

眠いあたまでそんなことを考えているうちに琉夏は本当に眠ってしまったのでしょう。



 なんだかふしぎな夜だったとタクシーに揺られながら琉夏は思い出していました。

あんなにどきどきすることがあったのにどうして今まで思い出さなかったのかふしぎです。

そのほかにもおばあちゃまの所ではなにかきみょうなこと、ふしぎなことがあったような気がしました。

------おばあちゃまんちで他に何があったっけ…

琉夏は何かとっても気になることがあったのに思いだせないような変な気分になっていました。

おばあちゃまの家にいる間になにをしたか、どこにいったか琉夏はいっしょうけんめい考えました。


 鉄でできたすごく大きなかき氷機のハンドルをまわしておばあちゃまがかき氷を作ってくれたこと。

かけてくれたおばあちゃまの自家製のうめシロップがちょっと発酵していて、みんなよっぱらっていい気分なってしまったこと。

市場に買い物にいったこと。

大きな黄色いうりがおいしかつたこと。

おかあちゃまの子供のころのゆかたをおばあちゃまがだしてくれたこと…

「あれ…」

何かがひっかかりました。

「ゆかた着たっけ」

アサガオのもようのゆかたに金魚のしっぽみたいなふわふわした帯。

「もうじきお祭りだからこれを着ていらっしゃい」

おばあちゃまはそう言って縁側に針箱をおいて琉夏の背丈にあわせてゆかたをなおしてくれました。おばあちゃまの針さしは小さなお座ぶとんみたいに四角くて、紅いふさがついていました。

でもお祭りは行ったおぼえがありません。

「どうしたんだっけ、お祭り」

琉夏はいっしょうけんめい思い出そうとしました。


 そのときタクシーがキューッといって止まりました。

駅前についたのです。

「ほら、いそいで」

おかあちゃまにせかされて琉夏はあわててタクシーをおりました。

「おなかがすいちゃうわね、きっと。

なにか買っていきましょう。電車の中で食べられるもの」

おかあちゃまは駅の時計を見上げて言いました。まだ少し時間があるようです。

 駅前には小さい公園くらいの広場があって、そばに役場と何軒かのお店がありました。

琉夏たちは役場のとなりのお店に向かって広場をわたりました。

そのお店はなんでもやさんでコンビニエンスストアみたいにいろんなものを売っています。

コンビニにはあんまりないような新聞紙の袋に入ったどろんこの野菜とか麦わら帽子なんかもあります。

パンやおにぎりやゆでたまごもありました。お味噌をぬって焼いたおにぎりはいいにおいがしています。ゆで卵を買ったらお店のおばさんが五角形にたたんだ小さな紙の包みをつけてくれました。なかにはお塩が入っているのです。

お茶とおにぎりも買って琉夏とおかあちゃまは急いでお店を出ました。

もうすぐ電車がきてしまいます。

駅にもどるのに広場をつっきるとき、琉夏は反対側にあるトタン屋根の古そうなお店に気がつきました。

「篩田履物店」

かんばんにはきえそうにうすくなった字でそう書いてあります。中は暗くて人がいるのかどうかわかりません。なんだか空家のようにも見えました。

「あのお店しってる。あそこで 三年前来た時に下駄(げた)をなおしてもらったんだ」

琉夏はふいに思い出しました。



かんばんの「篩田」という字がむずかしくておばあちゃまにきいたっけ。

「ふるいだはきものてん、ていうのよ」

おばあちゃまは教えてくれました。

琉夏はおばあちゃまとおかあちゃまが引っ越しの手続きの事で役場に行くので一緒に出かけてきたのでした。

琉夏はおばあちゃまにいただいた下駄(げた)をもってきていました。

前の日にお蔵を開けてのぞかせてもらった時に出てきたのです。

お蔵を閉める時におばあちゃまが横のたなにのっているのをみつけたのです。

「あら、おろしていない下駄がある。小さそうよ。るーちゃんはけるかもしれんね」

箱はには「會津桐下駄(あいづぎりげた)・小」と書いてありました。

あけてみると白木の子供用の下駄です。はなおは親指ではさむところだけが紅くて半分が黄色、半分が紫色のビロードでした。

箱はホコリっぽくなっていましたが下駄はきれいです。

「はいてごらんな。なおしてあげたゆかたを着る時にいいかもしれないから」

おばあちゃまはいいました。

琉夏ははいてみました。

鼻緒の色がくっきりしていてにはくととてもきれいです。

かかとがちょとはみだしました。

「小さいよ。かかとがでちゃう」

琉夏は言いました。

「下駄はね、かかとがちょっと出るくらいでかっこうがいいの。でも気に入らないならいいのよ」

おばあちゃまはいいました。

「ううん、このはなおの色、好き」

琉夏は言いました。

「そう、じゃ歩いてごらん」

琉夏は庭におりて土の上を歩いてみました。

きしきしと音がして下駄の歯がちょっと湿った土にめりこみます。

飛石の上を歩くとからんころんといい音がしました。

「親指がちょっと痛い。きついよ」

琉夏は言いました。

「はなおをかげんしてもらえばいいのよ。明日、駅前に行く時 持っていって下駄屋さんでみてもらいましょ」

おばあちゃまは言いました。

そして昔の日本のはきものは靴みたいに細かいサイズがないかわりにはなおをはきもの屋さんでちょうせつしてもらって足にあわせるのだということをおしえてくれました。

琉夏は沓脱ぎ石の上に下駄をぬいてはだしの足をぶらぶらさせながらおばあちゃまの話をききました。

おばあちゃまの家はが敷居(しきい)とても高いのです。

沓脱ぎ石の上の下駄は暗いお蔵の中から急に明るい外に出てきてなんだかまぶしがっているように見えました。

その晩、琉夏は夢を見たような気がします。

恐いようななんだかふしぎな夢、思いだせない夢です。



「どんな夢だったかしら。」

琉夏はおかあちゃまと列車にのってからも考えていました。

かたんかたんと電車は走っています。

「はい、めしあがれ。」

おかあちゃまがさっき買ったおにぎりをわたしてくれました。

おにぎりはのりでなくてこいみどり色のお漬物(つけもの)の葉っぱでつつまれています。

琉夏はこんなみどり色をした大きな葉っぱがお月さまの下でざわざわとゆれているのをたしかに見たと思いました。

------あっ……

琉夏は思い出しました。

------あの木だ、さっきの桐の木。



 下駄をお蔵から出してもらった日の夜、お手洗いに行った時に琉夏はいつものように庭に面したろうかをとおりました。

開いている雨戸のところでざわざわと音がするのでふとみると、そこには大きな葉っぱをいっぱいつけた大きな木が立っていたのでした。

てっぺんの方にはむらさき色の花がつんつんと上を向いて、うす黄色いお月さまの光をあびていたのです。

---あんな花の咲く木があったかなあ…

確か、昼間には沓脱石と、それに続く丸い踏み石があるだけの場所でした。

その時は眠いし、長いろうかがこわくって はやくもどりたかったのであんまり考えなかったのです。

朝にはもう忘れてしまったのでしょう。夢だったような気もします。

でも、桐の木がお月さまの光をあびて立っていたのは下駄をおいた沓脱ぎ石のところだったような気がしました。

暑い晩にはおばあちやまはいつもそこの雨戸をあけて風を通していたのです。

あれは夢だったのでしょうか。

でも琉夏はざわざわと葉っぱが風に鳴る音をはっきりと思い出しました。

あんなにはっきり音がする夢があるでしょうか。

それに桐の花なんて今日三年ぶりにおばあちゃまの家に来てはじめてみたのです。

知らない花の夢を見るなんてことがあるでしょうか。

でも桐の花は五月の今頃咲くのです。三年前の八月に咲いていたはずはありません。

琉夏はますますふしぎな気がしてきました。


琉夏がおにぎりをにらんで変な顔をしているので

「どうしたの」

とおかあちゃまはききました。

「なんでもない」

琉夏はこたえてあわてておにぎりをほおばりました。

かんちがいか夢かもしれないこんなへんてこな話をおかあちゃまに説明することなんて無理だと思いました。



 夜の庭で桐の花を見た翌日、琉夏はおばあちゃまとおかあちゃまと駅前に行ったのでした。そう、沓脱ぎ石の上においた下駄をもってです。

 おかあちゃまは先に役場にはいっていきました。おばあちゃまは琉夏を連れて篩田履物店によりました。

入口のガラス戸はが木でできていてとても古そうでした。ガラスもなんだかゆがんでいるみたいで琉夏の顔が横に流れたみたいにへんな映り方をするのでした。

おばあちゃまがガラス戸をあけるとがたがた音がしました。

お店の中にはだれも見えません。

「ふるいたさぁん」

おばあちゃまは奥にむかって呼びました。

「はあい」

奥からおじいさんの声がしました。

「いままいりますよ」

でも、なかなか姿が見えません。

「孫の下駄をみてやってくださいな。あしたお祭りにはいていくのに、はなおがきついのよ。おねがいしますよ」

おばあちゃまは奥に向かって大きな声で言いました。

そして琉夏に

「役場の用事をすませちゃうから、ここで下駄を見てもらってまってらっしゃい」

と言いました。

おばあちゃまが役場の方にいってからようやくお店の奥からおじいさんが顔を出しました。

おじいさんは足が悪いらしくて奥の部屋から半分坐ったままはうようにのれんをくぐって出てきました。

「はい、いらっしゃい。おそくなって悪いね。足がだめなもんだから」

おじいさんは正座して言いました。

ごま塩頭でしっかりしたあつい生地の前掛(まえか)けをかけた小柄なおじいさんでした。

お店の奥は40センチくらい高くなっていてそこだけたたみがしいてあるのです。たたみのところは奥の部屋とつながっていてあいだにのれんがさがっていました。たたみのまわりにはペンチのお化けみたいな道具やはなおのついていないのっぺらぼうの下駄や、はなおだけがいっぱい入った箱なんかがおいてあります。それ以外のまわりはコンクリートの土間になっていていくつもたながあって学校の上履きやゴムのサンダルやおとうさんのみたいな革靴や長靴なんかがいっぱいのっていました。

「どれ、見てみようね」

おじいさんは琉夏の下駄をうけとりました。

おじいさんはひざの前掛けの上に琉夏の下駄をそろえておきました。

おじいさんのまわりには売り物の女の子用の下駄もおいてありました。ぴかぴかに赤くぬってあってちょうちょや金魚がかいてあるのもありました。

琉夏のは木のままで、それも古いのですこし色がくすんでいます。きのうおばあちゃまにもらった時はとてもすてきだと思ったのに、お店の新しいのとくらべると古ぼけてちょっとさびしいように琉夏には見えました。

おじいさんは琉夏の下駄をひっくり返したり、左右をそろえてたてて前から後ろからのぞきこんだりとたんねんにながめています。

よく見るとおじいさんの目は片方がうごかないみたいでした。足だけでなく目も悪いのかも知れません。

「いい下駄だねえ。さすがはやまき屋さんだ。おとなのでもこんな良いの下駄はめったにないよ」

おじいさんは言いました。『やまき屋』というのはおばあちゃまの家の事です。昔、材木屋をしていたときの屋号なのです。

おばあちゃまの近所のお年寄りの人たちはいまでもおばあちやまのことを『やまき屋の大奥さん』とよぶのでした。

お店には琉夏のと同じようなぬっていない木の下駄もいくつもありました。

どちらかというとお店の下駄の方が白くてきれいです。

なのにどうしておじいさんはそんなに琉夏の下駄をほめるのでしょうか。

「おじょうちゃん、ごらんな」

おじいさんは下駄の足ののるところを指さしました。

「ずぅーっとまっすぐに細かく木目(もくめ)がとおっているでしょう。これがまっすぐで細かいほどいい下駄なんだよ。」

たしかに琉夏の下駄はつま先からかかとまでまっすぐに細かい木目のすじがついています。

「どうして細かくてまっすぐだといいの」

琉夏はききました。

「そのほうがじょうぶでこわれないし、きれいだからさ」

おじいさんの坐っているたたみの上の他の下駄にはたしかに木目のまがったのやふしのあるのもあります。

「じゃ、これなんかいい下駄ね」

琉夏は一つを指差しました。

木目がきれいにまっすぐです。

「いいや、ごらん。」

おじいさんは琉夏の指した下駄をひっくりかえしました。

見ると裏側は全然ちがいます。木目があらくてしかもまがっています。

「これはね、上の所にだけきれいな木目の木をうすく紙みたいにけずったものをはってあるのさ。見た目がいいように。それに歯も別のを接着剤でついであるんだよ。ほら」

おじいさんは下駄を横にしてみせました。

よく見ると、たしかに下駄の足ののる所の板と下にでっぱった歯の間にうっすら線があります。別々の木をはり合わせているのです。

「どうしてそんなことをするの?」

琉夏はききました。

「そのほうがかんたんで安上がりに作れるからさ。でもはった所ははいてる間にとれちゃうかもしれない。問屋は今の接着剤は昔とちがうから大丈夫って言うけどね」

おじいさんはいかにも信用できないという風にまゆをしかめていいました。

「さて、はなおがきついんだって」

おじいさんは手のひらを下にむけて黄色とむらさき色のはなおに指をいれて、手のこうではなおを持ち上げるようにしながらききました。

「そう、はくと指がいたいの」

琉夏はこたえました。

おじいさんははなおに指をとおしたまま、琉夏をじろじろと足の先から頭のてっぺんまで見ました。

おじいさんの目は動いている方も白くにごっているみたいでじっと見られるとちょっと気味が悪いのです。

「そんなはずはなさそうだけどねぇ。ちょっと手を見せてごらん」

おじいさんは言いました。

占いじゃあるまいし、はなおをなおすのにどうして手を見るんでしょうか。

琉夏は変な気がしましたけれど、なんだかさからうのがこわいので右手をさしだしました。

「ふーん…」

おじいさんは目を近づけるようにして琉夏の手を三秒間くらいながめました。

「下駄もぞうりもはいたことがないのかな」

「はい」

琉夏はびくびくしながらこたえました。

「じゃ、しょうがないね。すこしゆるくしよう」

少し優しい顔になっておじいさんは言いました。

「体つきや、とくに手を見ればその人の足の様子がだいたいわかるのさ。六十年以上も下駄屋をしているからね。でも今の子は、いんやおとなでも、はなおのついたはきものをはいたことがあんまりないからぎゅうぎゅう足をつっこんですぐに痛い痛いっていうんだよ。ちょっとなれればはき方がわかるんだけどね。

でもはじめてならしょうがない。ゆるめにしょうね」

おじいさんは琉夏の下駄をひっくり返しました。おじいさんの膝の前にはあちこちけずれて黒光りしている切株みたいな台がありました。その上に下駄をおいて、ねじ回しの先が割れたみたいな道具でつま先の裏がわの梅の花型の金具のくぎを抜いてはずしました。中からは ややこしくむすばったひものかたまりがでてきました。おじいさんはペンチの親玉(おやだま)みたいなのと目打ちとをつかってあっという間に結び目をほどき、またあっという間に結びました。

まるで手品のようです。

これで本当になおっているのでしょうか。

「ちよっとこれではいてごらん」

おじいさんは言いました。

琉夏は片方のスニーカーを脱ぐと受け取った下駄を土間において足を入れてみました。

最初と全然ちがって痛くありません。ぐらぐらもしないしちょうどいい感じてす。

「どうだい」

「いいみたい、痛くない」

「そうだろう。じゃ、いいね」

おじいさんは琉夏から下駄を受け取るともう片方もあっという間に同じようになおしました。それから両方の金具をくぎでつけなおしました。おじいさんがトンカチで打つあたりは切株の作業台がへこんでいます。きっとよほど長いこと使っているのでしょう。

猫背(ねこぜ)小柄(こがら)なおじいさんがすわったかっこうと切株の作業台はなんだかよくにていました。

「そらできた。ためしにはいてみるかね」

琉夏は少しおもしろくなってきて、たたみのはしにこしかけるとくつをぬいで下駄にはきかえました。

ほんとにちょうどいいようです。

琉夏はたちあがってとんとんと足ぶみしてみました。

「ああ、だめだめ」

おじいさんが大きな声でいいました。

「それじゃ、さかさだよ」

琉夏はびっくりしました。何がさかさなんでしょう。

「右と左がちがうよ。むらさき色の方が外になるようにはかなきゃ。」

おじいさんはいいました。また、まゆげの間にしわをよせています。

琉夏はまんなかから二色に別れているはなおの、親指がわがむらさき、小指がわが黄色になるようにはいていました。

でもおじいさんはそれがさかさまだといっているようです。

下駄はくつとちがってどちらも同じかたちです。右も左もないからどっちをどうはいてもいいはずなのです。

おじいさんは年をとり過ぎてすこしぼけているのでしょうか。

「どうして、私は黄色を外がわ にしたいんだもの。ぎゃくにしたら黄色が内がわになっちゃうでしょう」

琉夏は思わず言いました。言ってからしまったと思いました。おじいさんはおこるかもしれないと思いました。

「やれやれ」

おじいさんはためいきをつきました。おこる気は無さそうです。

「おじょうちゃんは、やまき屋の大奥様のお若いころにそっくりだね。

どれかしてごらん。黄色が外になるようになおしてあげよう」

「でも、下駄は右左がないんでしょう。どっちにはいてもいいんじゃないんですか」

琉夏はおそるおそるききました。

「そう、いいかげんなそこらの下駄ならそうだよ。でもこれはちがう。

柾目(まさめ)の通ったよい桐の木で、株の(しん)をまん中にして左右が造られているんだよ」

おじいさんは切株のような台の上にむらさき色のはなおを外がわにして下駄をそろえると、かかとを下にしてたてました。

「もとはこうして一本の木だったのさ。みてごらんな」

上からのぞくように見ると下駄の歯に木の年輪(ねんりん)がはっきりと見えました。

ちょうど左右の下駄のまんなかでつながってバームクーヘンを切った時みたいにきれいに半円になっています。

「ほんとだ。」

琉夏はびっくりしました。

「この下駄はね、昔の職人がいい桐の木を選んで、そのまたまん中のいいところをがそろうようにていねいに切り出して作ったものなのさ。だからこっちが右でこっちが左なんだよ。おわかりかい」

「うん」琉夏はうなずきました。

たしかにこれをさかさにはくのはへんかもしれないという気がしてきました。

「じゃ、黄色が外になるようにはなおをすげなおすから腰掛けておまちなさい」

おじいさんはほっとしたように言うともう一度道具を取り上げて金具をはずしはじめました。

今度ははなおの前だけでなく後ろの二ケ所もほどいて下駄とはなおをすっかりはなしてしまいました。

琉夏はたたみのへりにこしかけました。

まえよりも少し時間がかかりそうです。

おじいさんの手の動きはすばやいけれど、とてもていねいに下駄をあつかっていることに琉夏は気がつきました。


「やまき屋さんのある西の沢もここいらもすっかりさびれたが、大奥様の嫁入っていらした頃にはやまき屋さんはそりゃあ栄えていたもんだ」

おじいさんは手を動かしながら話しはじめました。

「人の出入りも多くてね。わしは下駄の事しかわからんが、こんな上等な下駄をまんましまっときなさるんだからお蔵にゃあそりゃありっぱなもんがいまでもいっぱいつまってるだろうて。やまき屋さんの家を代々守り守られしてきたお宝がね」

琉夏はしんとしたお蔵の中を思い出しました。

あれはみんな宝物かしらと琉夏はふしぎに思いました。

大事だからずっとしまってあるのでしょぅか。

いらないから出してもらえないのでしょうか。

おばあちゃまでさえ出して見たことがないというお蔵の中のいろんなものたちは、あの家からだれもいなくなったらどうなるのでしょう。

だれにも使い方がわからないようないろんなものたちはいつまであの中にいるのしでしょうか。

「じょうちゃんの代になったらお蔵のもの達もときどきは順番に出して使ってやりなさるといいよ。しまいっぱなしはいけないよ。しまい込んでおくととみんな自分がなんだったか忘れちまうからね」

おじいさんは琉夏たちがおばあちゃまの家にいっしょに住むために来たものと思い込んでいるようでした。

琉夏はなんと返事をしたらいいかわかりませんでした。

でもおじいさんは手を動かしながらひとりで話しています。

「この下駄をお祭りにははいていくのかい。それはいい。ぜひ連れていっておやり」

まるで下駄に心があって、お祭りに行きたがっているとでもいうようです。

「さあ、これでいい」

おじいさんはすげなおしたはなおをぴんぴんとひっぱってきれいな形にしました。

そして切株みたいな作業台の上に下駄をならべました。今度ははなおの黄色が外がわで年輪もぴったりあっています。

そのとき、作業台が平らでないからでしょうか、下駄の片方がうしろにすべって落ちそうになりました。

「おっと」

おじいさんが支えようとするともう片方もかかとのほうにころがりました。

ほんの一瞬、下駄はかかとを下にして立ち上がろうとしたように見えました。

「おやおや」

おじいさんは転がった下駄をひろいあげると、はなおをなでながらふしぎなことを言いました。

「お前さんはいまは下駄なんだよ。長くしまわれ過ぎて忘れちまったかね。はいてもらえばじき思い出すだろうよ」

そして琉夏の方にむきなおるとぶっきらぼうに

「さ、もっていらっしゃい」

と下駄を手わたしたのでした。


 琉夏はおばあちゃまの家にもどると、なおしてもらった下駄をまた沓脱ぎ石の上にそろえておきました。

 そしてそれきり忘れてしまったのでした。


 電車にかたんことんとゆられながら琉夏はやっと思い出しました。

三年前には結局ゆかたも着なかったしお祭りにもいけなかったのでした。

なぜならその晩から雨が降り出してお祭りは流れてしまったのです。

そしてそのまま琉夏とおかあちゃまはおばあちゃまといっしょに町にもどったのでした。

おばあちゃまは町に住むようになってから一年くらいするとだんだん元気がなくなってきて、どこといって病気も見つからないうちにとうとう亡くなってしまったのでした。

それからまもなくおばあちゃまの古い家は火事で燃えてしまったのです。

火元はおばあちゃまの部屋のあたりだと消防署の人は言いましたが、だれもいないし火の気もなかったはずでした。どうして火事になったのかは結局わかりませんでした。


 沓脱ぎ石のうえに忘れてきた下駄も火事で焼けてしまったのでしょうか。

 「この下駄はね、昔の職人がいい桐の木を選んで木目がきれいに左右おんなじになるようにていねいに切り出して作ったものなのさ」

琉夏はおじいさんの言葉を思い出しました。

「桐の木」っておじいさんは言っていました。

「この下駄は桐の木でできている」って。

「おかあちゃま」

琉夏はむかいのせきでうつらうつらしはじめていたおかあちゃまのひざを思わずゆさぶりました。

「ねえおかあちゃま、下駄って桐の木で作るの?」

琉夏はききました。

「何の話?

びっくりさせて。

そうよ、たぶん下駄は桐の木で作るのが一番多いと思うわ」

おかあちゃまはそれでもこたえてくれました。

「桐の木ってさっきおばあちゃまの庭で見たのと同じ木?」

「そうよ、あれが桐の木よ。大きくなるのがはやくってかるくてじょうぶでたんすなんかにもするのよ。昔は女の子がうまれるとお嫁さんになる時にたんすがつくれるように庭に桐の木をうえたんですって。

とても生命力の強い木でね、秋に様に雷様(かみなりさま)に打たれた桐の木を切り倒してねかしておいたら、翌年の春には根っこもないのに枝から新しい芽が出ていたって死んだおじいちゃまが言っていたわ。

でも家にはそれきり桐の木はなかったと思ったのにふしぎねえ。もういい?」

おかあちゃまはそういうとまた目をつぶってしまいました。


かたんことんと列車は走ります。

踏み切りを走り抜ける時、お祭りのお囃子(はやし)がきこえたような気がしました。

それとも踏み切りの警報(けいほうき)機の音だったでしょうか。

 琉夏は何年も、何十年も暗いお蔵の中にしまわれっぱなしですごした下駄のことを考えました。

下駄は自分がりっぱな大木で、きれいな葉っぱや花にお日さまの光や雨のしずくをあびていたころのことを思い出していたでしょうか。

お祭りにはいていってあげなかったから、あの下駄は自分が下駄だっていうことを忘れてしまったのかしらと琉夏は思いました。


 かたんことんとゆられるうちに琉夏も眠くなってきました。

電車にゆられて琉夏はいつのまにか夢を見ていました。

雨ふりの夢です。

夢のなかで、おばあちゃまの夜の庭に雨がふっていました。

琉夏はそれをろうかの一枚だけ開けた雨戸の所から見ているのでした。

沓脱ぎ石においた下駄も雨に打たれています。

琉夏が見ていると下駄のつま先からなにかみどり色のものが出てきたではありませんか。目の前でみどり色はするすると伸びて細い枝になりました。

枝はどんどん伸びてたちまちみきのように太くなり、また新しい枝がそこから生えていきます。

あっというまに見上げるほどの大木になりました。

枝にはまたどんどんみどりの芽がふいて、つぎつぎにふくらんだとおもうとぱらりと開いておとなの手のひらくらいもある大きな葉っぱになりました。

ぱらりぱらりと葉っぱがひらいて、木はみどりのあまがっぱを着たようになりました。

こんどははその葉っぱをおしのけるようにして小さな(とう)のようなつぼみが木のてっぺんに顔を出しました。

つぎからつぎへとたくさんのつぼみが、頭をふるようにしてかさなりあった葉っぱの上へと出てきます。

ざわざわと音をたてるようにしてつぼみの塔たちは天にむかって伸びあがりました。

そしてみるみる紫色になったかと思うと、いっせいに雨の夜空にむかって花開いたのでした。


おしまい


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