零話 終わりの始まり
僕は今から、自分を殺す。
大凡のタイムリミットは夕日が沈むまで――
そう決意してから、20分ぐらい経ったかな? 空は薄っすら橙色に染まってきている。
時間が無い……だけど、勇気も無い。覚悟を決めたはずなのに、死の恐怖が体を硬直させている。
額からまた汗が流れ落ちる。鉄柵を握りしめる手も汗でべとべとだ。
手をパーカーの袖で拭うと、灰色の生地に赤褐色の汚れが染みつく。汗ばんだ手に、錆びた鉄柵の汚れがついていたのだろう。
そう思い、手のひらを視認しようとしたとき、視線がさらに下へ向く――真下のコンクリートまで隔てるものは何もなく、死を再び実感させられた。
さらに恐怖心を煽るような突風が吹く。全身が一瞬で冷える。
――途端に血の気が引き、鉄柵にへばりついてしゃがみ込む。気温のせいか、体温のせいかな? 鉄柵が生暖かく感じる。
「はぁぁ……姉ちゃん」
僕は情けないため息を吐いて、夕空を見上げた。雲ひとつない空は、一面朱色に染まっている。
とても綺麗な夕焼けだろう。だけど今の僕の瞳には、とても悍ましく映った。
「もうすぐ日が沈む。
神はどうして僕に、力と命令を……」
頭のどこかでは神を信じている自分もいるけど……
「早く帰らないと、姉ちゃんに心配かけちゃうよね」
やっぱり僕には勇気がない、でもこれが正しい。
鉄柵を握りしめ立ち上がろうとしたとき、気持ち悪い浮遊感を感じた。
――背中に強風が押し寄せ、ボサボサの黒髪が激しく乱れる。横目にうつる廃墟の校舎が空へと伸びて、勢いよく風を切る音が聞こえる。
「ああァーー!!」
ジェットコースターに乗らされたときのような、掠れた声で悲鳴をあげた。叫び声は裏返り、乱れた髪が口に入る。
僕は必死に、両手両足をばたつかせていた。
ガッシャーン!
ガラスが割れる高い音が響き、バットで硬いボールを打ったときのような振動が腕に伝わった。とっさに手を開くと、鉄の棒が宙に舞った――鉄柵の掴んでいた部分の棒だった。
割れたガラスも空に飛び出し、僕は体を丸くして目を瞑る。
真っ暗な視界、激しい風の音が響く中、ドクドクと脈を打つ心臓の鼓動を感じていた。
僕は死ぬのか、痛いのは嫌だなぁ……
いや、もう死んだのかな?
――音が止まった。
真っ暗な世界、遠くの方から幼い頃の姉ちゃんが走ってくる。
小さな手で僕の手を握る――その瞬間、真っ暗だった世界に幼い頃の景色が、白黒で浮かびあがる。
白黒の景色はコマ送りで動き出していく――
……幼い頃の僕と姉ちゃんが公園で遊んでいる。
転けて泣いている僕。
姉ちゃんが優しく撫でている。
姉ちゃんの手を握って嬉しそうに笑っている僕。
まるで走馬灯のように、生まれてからの景色がコマ送りで流れていく――
……黒曜 悠翔、0点のテスト用紙。
からかいに来る友達。
カラオケで馬鹿騒ぎしている僕たち。
父さんと母さんに怒られている僕。
母さんの顔がとても懐かしく感じる……どうせなら笑っている顔が見たかったなぁ――
……母さんが居なくなった日。
ずっと泣いている僕。
その隣で泣いている姉ちゃん。
「ハルちゃんは、ずっとそばにいてね」
そのときの姉ちゃんが、優しく言葉を零していたのを思い出した。
すると、心の奥から熱い想いが込み上がる。
――その瞬間、世界が七色で輝く。
不安と恐怖の白黒が、安心感に塗り替えられたみたいだ。
姉ちゃん、ごめん……ありがとう――
両手を握りしめて強く目を瞑る。すると、瞳から涙が滝のように溢れでた。
「生きたい……」
風を切る音が再び耳に響く。
すぐにその瞬間はやってきた。
――想像を絶する衝撃が背中から全身に轟く。
全身の骨という骨が、一瞬で粉々に砕け散るような衝撃。
だけど、不思議と痛みを感じなかった。
僕はなんの取り柄もない。
世界に必要とされていない。
だけど、姉ちゃんには必要とされていたんだ。