木曜日 Ⅱ
授業中、先生が前の席から順にプリントを回していくよう指示した。私の前の席は露実ちゃん。プリントを渡すとき、露実ちゃんは私の顔を見なかった。
やっぱり怒ってる……? 私がおどおどとプリントを受け取った……そのとき。
露実ちゃんは私の手に、プリントに紛れさせてあるものを滑り込ませた。私はプリントを1枚取って後ろに回し、手の中に残ったものを見た。
ふたつ折りになったメモ用紙。そっと開くと、癖のある右上がりな文字が書かれている。うっすらと甘い香りがした。露実ちゃんがよく使ってるバニラの香りのボールペンだ。そしてこれは露実ちゃんの字。
『授業が終わったら廊下に出て』
文字からはなんの感情も読み取れなかった。露実ちゃんはどんな思いでこれを書いたんだろう。怒りの矛先はやっぱり私に向いてる?
露実ちゃんと砂良ちゃんの机の距離は相変わらずで、ふたりは朝から全く口をきいていない。不思議なことにあからさまな衝突は起こっていなくて、ただただ不穏な空気が漂っている。こういうのを冷戦っていうのかもしれない。
美歩ちゃんはいつもと変わらずマイペースを貫いている。誰と敵対するわけでもない中立の立場。
私は……よくわからない。でも自分で動くのは嫌。それだけは絶対に。
物心ついたときからずっと、人の顔色をうかがっては必死に気配を隠していた。だからたぶん、誰からも嫌われることはなかった。だって皆は私の存在を意識したことなんてないから。誰も私のことを覚えていないから。
私は人に好かれるより、人の記憶に残らないことを選んだ。
誰にも嫌われない代わりに、私は誰からも愛されない。
それでも私はどれだけ望んだって本物の空気になれるわけじゃないから、居場所がいる。私がいても誰も気にしない場所が。
中には私の努力を踏みにじるような人もいる。そういう人とは離れていたい。
居場所は慎重に選ばなくちゃいけない。
授業終了のチャイムが鳴り、起立礼の号令がかかる。
露実ちゃんがまだ席に着いているのを確認しながら、急いで教室を出た。
不安でいっぱいだ。何を言われるんだろう……。
廊下は冷える。ひんやりとした風が足元から入り込んでくる。
教室から出てくる人影が見えた。
「深和ちゃん」
露実ちゃんだった。ぎこちない笑みを浮かべて近づいてくる。
「ちょっと話したいんだ、こんな呼び出し方でごめん」
露実ちゃんに怒っている様子はなかった。それどころか露実ちゃんの表情はどことなく不安げだ。
「あのさ……深和ちゃんもしかして、山根になんか言われた?」
「……砂良ちゃんに?」
正直に答えてもいいんだろうか。私は迷ったけど、結局はうまい言い訳が見つからなくて正直に言った。
「露実ちゃんとは話さないでって」
「やっぱあいつ本気なんだ!」
露実ちゃんは顔を赤くして、大きな声を出した。
「ウチとは絶交だって昨日いきなりメールが来て。慌てて電話かけても出ないし、今日は朝からあんな調子だし……」
え……それは。
「絶交って、砂良ちゃんの方から?」
「そう、昨日いきなり! ウチ、昨日なんかした? マジで覚えないんだけど」
矛盾してる。
砂良ちゃんの言っていたことと露実ちゃんの言っていること。
「剣人を着拒したのに、しっぺ返し食らった気分だわ」
ぽつりと露実ちゃんがこぼした。
「……剣人くんと、喧嘩してるの?」
「喧嘩程度だったらいいんだけどね。残念ながら破局の危機」
「は……きょく」
「浮気してんの、あいつ」
露実ちゃんは吐き捨てるように言った。
「顔も見たくない。浮気調査のためにここ何週間は我慢してたけど、もう限界」
「浮気調査って……?」
「あ……」
露実ちゃんの顔にしまったと書いてある。
私は恐る恐る露実ちゃんを呼ぶ。
「あの、露実ちゃん……?」
「ごめん、深和ちゃん!」
突然露実ちゃんは両手を顔の前で合わせた。
「ウチ、深和ちゃんのこと疑ってたんだ。だからカマかけて」
「……それってもしかして」
「ホントごめん! でも、綾瀬を呼び出すよう剣人に頼んだらあいつ、普通に引き受けたから……。深和ちゃんがそんなことするはずないよね! ホントごめん! マジでごめん!」
私は目の前の景色がくらっと傾いた気がした。身体から力が抜けそうになるのを必死に止める。
それじゃあ、私、なんのためにあんなこと……?
「……あ、あの、綾瀬くん、は」
「綾瀬ってさ、前から深和ちゃんのこと好きって噂あったんだよね。ちょうどいいやーって思って。でもマジで両思いだとは知らなかった。結果的にはよかったのかな、うん」
……よく、ない。
全然よくない。
「そういえば。ウチ、山根にぶりっ子とか言っちゃったからなー、それで怒ってるのかも。あいつ、根に持つもんなー」
さらっと話題を流す露実ちゃん。対して私はまだショックから立ち直れない。
「なんかごめんね。深和ちゃんを板挟みにして。美歩はあれで厳しいとこあるから相談しにくいし。深和ちゃんに言ったらなんかすっきりした。剣人のことでウチ、ここ最近ずっとイライラしてたから」
「………………」
「まあ、山根もすぐ機嫌直るよ。基本単純だから、あの子」
露実ちゃんの言葉に何かが引っ掛かる。なんだろう。これで解決、なの?
露実ちゃんの機嫌は直ったし、あとは露実ちゃんがなんとかしてくれるだろう。私の出る幕はない。いつも通り、ただ彼女たちの側にいるだけでいい。
……本当に?
「次の授業始まるし、戻ろっか」
露実ちゃんに言われて教室に入る。ガラッ。扉を開けた途端、キッと強い視線を感じた。
砂良ちゃんが……こっちを睨んでる。
「あっ、深和ちゃーん! そんな奴と一緒にいたの? 無理やり連れ出されたんだよね? かわいそーお。こっち来て砂良と話そ?」
「……え、あの」
「ちょっと山根。話があるんだけど」
「わー、なんか雑音が聞こえるー。どうしよう、砂良、耳の病気になっちゃった?」
砂良ちゃんは「やだー、こわーい」と言いながら耳をふさいだ。
そこでちょうどチャイムが鳴って、私たちは慌てて席に着いた。
露実ちゃんが座ると、砂良ちゃんは更に机を動かして距離を空けた。
美歩ちゃんが何も言わずこっちを見ている。ドキッとした。どこか後ろめたい。
美歩ちゃんの視線を避けて反対側を向くと、その先には綾瀬くんがいた。窓側のいちばん前の席で、暇そうに窓の外を眺めている。どこか寂しげな横顔。物憂げでせつないその表情は子供離れしている。
ふと、綾瀬くんがよく笑うのは何かを隠そうとしているからなんじゃないかと思った。
学校の帰り以外で綾瀬くんが笑っているところを見たことがない。私たちが話すのは学校の帰りだけで、それ以外の綾瀬くんをよくは知らないけど、でも。
綾瀬くんが笑うのはきっと私の前でだけだ。
なぜかそう思った。