火曜日 Ⅲ
校門に人影を見つけた。
あ、れ……?
息が止まるかと思った。
彼が私の方を見て、口を開く。
「……どーも」
自分が話しかけられているのだと気づくのに、数秒かかった。ごくん、と喉が鳴る。
「こんにち、は」
今から帰るところなのに、私の口から出たのは場違いな挨拶だった。私が足を止めると彼の方が近寄ってきて、そして言う。
「お迎えに上がりました、姫」
その言葉は私の耳をわずかにかすめ、そのまま通りすぎてしまった。耳が遠くなったみたいだと思った。ぽわんと音が滲む。
「家まで護衛いたします……」
そこまで言うと、彼は突然雰囲気を解いて、くすくす笑いだした。
「深和さん、こういうの嫌い? ちょっとからかっただけだから、許してよ」
笑っている綾瀬くんを見たら、なぜだかほっとした。安心したと思ったら、今度は急に心臓がドキドキしてきて慌てる。何か言おうとするんだけど、少しも言葉にならない。
「あ、あの……っ、なんで」
やっと口にできた言葉。
「俺、地獄耳だから」
彼が答えた。でも私の頭の中には疑問がいっぱいで、綾瀬くんがそのどれに対して答えたのかさっぱりわからなかった。
地獄耳って……耳がすごくいいってこと? 綾瀬くんが何を言いたいのかよくわからない。
「今朝、深和さんたちの会話が廊下まで聞こえてたから」
朝の会話……もしかして、露実ちゃんたちとの?
「それらしく振る舞うのって大切かなと思って」
「……どういうこと、ですか?」
綾瀬くんが身体の向きを変えた。私からはちょうど彼の横顔が見えて、彼が視線の端で私を捉えるのがわかった。
「一緒に帰るのは許容範囲内」
「えっ?」
「って俺は判断したんだけど」
君はどうなの、と言外に尋ねられているような気がして、私はこくこくとうなずいた。
しばらくして気づく。綾瀬くんが、一緒に帰ってもいいよって言っていることに。
私は彼の正面に回り込んだ。
「あの……!」
勢いをなくして途中からもごもごしていると、
「オプションも付ける?」
綾瀬くんがいたずらっぽく微笑んだ。
オプション……?
「荷物をお持ちしましょうか?」
「……じ、自分で持ちます」
ちょっと嬉しかった。私たちの関係は“仮”でしかないのに、綾瀬くんがここまで気を遣ってくれたこと。
そして同時に戸惑ってもいた。誰かと1対1で話すことに慣れてなかったし、ましてその相手は男の子。彼の全てが私にとって未知の域にある。
綾瀬くんが数歩進んでからこっちを振り返り、
「おいで」
と言った。
私がちょこちょこ歩き出すのを見て、綾瀬くんが笑う。
「なんか面白い歩き方するんだね」
私より頭ひとつ分背が高い綾瀬くんは、長い脚をもて余すようにゆっくりと歩いている。
「歩幅小さくて、リスみたい」
置いていかれないように必死で追いかける。脚の長さの違いかな。
「あんましゃべんないね、深和さん。緊張してる?」
「緊張、してない」
とっさに答えたけど本心はバレバレみたいで、ますます笑われた。綾瀬くんは自然体だ。思っていたよりもよく笑う。クールな目元がふわっと優しくなる。素敵な笑顔だな、と思った。
私は肩の力を抜く。
綾瀬くんは笑顔のまま、ふと私の顔をのぞきこんできた。
「なんかしゃべってよ」
途端に心臓が激しく鳴り出す。
「……え、えっと、その」
「高貴なお姫様は俺のことが嫌い?」
「か、からかわないで、ください」
ちょっとむっとした。私ばかりが翻弄されている。
私が黙りを決め込むと、
「もしかして、怒った?」
と、それまでと変わらない口調で尋ねてくる。
私は気まずくなって口を開いてしまう。
「怒ってない……でも、でも私、しゃべるの苦手だから……」
「苦手だから?」
「だから、あの……」
綾瀬くんの顔から笑みが消えた。
「深和さん」
「は……い」
綾瀬くんが足を止めて、真っ直ぐに私と向き合った。まともに目が合う。初めて、こんなにも真剣に誰かの瞳を見つめた。深い青が折り重なったような色。一瞬にして自分の中身を吸いとられてしまうような、変な感覚に陥った。目をそらしたくてもできない。
「今から俺の言うこと、うざいとか思わないで聞いてほしいんだけど……」
怒っているみたいに低い声。ううん、みたいじゃなくて、本当に怒っているのかも。
「嫌われたくないって……誰からも嫌われたくないって思ってる人がいちばん、嫌われる」
見透かされてる、と思った。
私があまり口数多く話さないのは、しゃべること自体が苦手なんじゃない……自分を誇張しないため、私の存在を空気に溶け込ませてそのまま浮上させないため。
「誰からも、とか思ってるわけじゃ……私はっ」
言いながらどんどん言い訳らしくなってしまうのを感じて、声がかすれた。
たしかに私は思っている。
嫌われるのはイヤ。私を嫌わないで……!
ぎゅっと強く唇を引き結んだ。どうしていいか、わからなかった。
ふいに綾瀬くんが手を伸ばして、私の頭をなでた。
「ごめん、深和さん。でもね、俺だけは違う。信じて、俺だけは絶対に……だから」
私は自分がすごく小さな子供のように思えた。綾瀬くんは私をあやす優しい大人。
「実験台にしてもいいよ」
ジッケン、ダイ……? それはなんだか異様な響きだった。
「約束するから。俺にならどんなことを言ってもいい。深和さんの言うことなら、全部受け止める」
「どう……して」
息をつめて、私はつぶやいた。
ゆっくりと、頭から綾瀬くんの手が離れていく。少しだけ綾瀬くんの表情が愁いを帯びた。
「俺ができることって、これぐらいしかないから。俺、深和さんを苦しめる提案をしちゃったよね。仮の制約なんて厄介なこと。その罪滅ぼしって言ったら変かな」
仮の制約。私たちを繋ぐ唯一のもの。1週間経ったら効果が切れる偽りの関係。
私は一生その嘘を貫き通さなきゃいけなくなるし、綾瀬くんも道連れになる。
それもこれも全部私のせい。悪いのは私だ……。
「……綾瀬くんに、そんな義務はないと思う」
思ったよりも硬い声が出た。
「嘘つきは、私だけで十分だもん。ねえ、今からでも遅くないよね。やっぱり嘘は駄目……嘘ついたの私だから、綾瀬くんは関係ないから……」
いたたまれなくなった。このままじゃ綾瀬くんまで巻き込んでしまう。
本当のことを話したら、露実ちゃんたちはきっと怒る。嘘つきの私なんてもう友達じゃないって思うはず。絶対に……嫌われる。
「契約は両者の合意に基づいて、だろ。深和さん」
意味深な笑みを残して、綾瀬くんは歩き出した。
どういうこと?
「ま、待って。話はまだ……」
急いで後を追いかける。私が追いつくのを待つようにゆっくりと歩を進めながら、彼が振り返った。
「俺たちは互いに納得して今の関係を手に入れた。覚えてる? 深和さんが無理を言ったからじゃないよ。むしろ提案したのは俺の方だし」
私は綾瀬くんの言葉を頭の中で繰り返しながら、必死に考えた。
「名前を借りただけで、その、一緒に帰ったりだとか、そういう約束はしてないです」
「ねえ、深和さん」
ちょうど私が綾瀬くんに並んだところで彼は微笑んだ。
「もしかして誰かに反論したのって初めてじゃないの」
「……え」
図星、だった。
「いい? 深和さん、俺は君の実験台」
「………………」
「だから俺には思ってること正直に話して」
私たちはお互いを見つめ合った。かなり長い間、私は彼の瞳に吸い込まれていた。彼の真剣な目に。
彼は言った。
君のありのままを受け止める。
だから怖がらなくていい。
私は約束した。
素直に、なります……。