消える過去 Ⅱ
ある日、目覚めると違和感を感じた。
彼は自分の身体を見た。成長途中の不完全な身体。背ばかりが伸びて体重が伴っていないような……。
鏡の奥に映るのは、ずっと昔の彼の姿だった。
幼くて無力な、彼。
遠い記憶の中の彼女がそこにいた。同じ時間の中に。同じ空間の中に。同じ教室の中に。
彼はなんとも言えない感情に襲われ、それに呑み込まれないように必死だった。
これは……夢か?
夢だとしたら、すぐに覚めてしまうのか。
せっかく彼女が側にいるのに。
いや……これは夢じゃない。
ここはもしかして……。
彼は気づいた。
今なら彼女を守れる。
彼は自分を偽ることに決めた。彼女が偽りで自分を守っていたように、彼も自分を偽って彼女を守る。
「今日、頑張りなよ」
「砂良も応援してるっ」
彼女は数人の友達に囲まれていた。その友達が去ったあとも、彼女は椅子に座ったまま、ぼんやりとどこかを見つめていた。
彼女は純粋で、また儚かった。
彼はじっと彼女を見つめた。
ふと彼女が顔を上げる気配があり、慌てて視線をそらす。
これでは駄目だ。
彼は自分を偽ると決めた。
感情を押し殺せ。彼女を見るな。
今度はただ側にいるのではなくて。
彼女を守る。彼が存在する理由はそれだけだ。
彼は教室を出た。
「あっ、綾瀬!」
廊下で剣人に声をかけられた。
「やっと見つけたー。探したんだぜ。お前に言うことあったのにさぁ、朝練サボっただろ?」
「朝練……ああ、ごめん。言うことって何?」
「今日の放課後、教室で待ってろって。……からの伝言」
剣人は無意識なのかもしれないが、かなり早口だ。誰からの伝言なのかが聞き取れなかった。
「今回のところは負けたけど……うかうかしてると俺が奪うからな」
剣人が彼にささやいた。彼は思い出す。そうか、たしか剣人は……。
「じゃ」
授業後、彼は言われた通り教室に残っていた。騒がしかった教室もしばらくすると人がはけて、しんと静まりかえる。
そんな中、彼の他にもうひとり。ぽつんと椅子に座ったまま動かない彼女。
やがて教室は彼と彼女のふたりっきりになった。
ふらっと彼女が立ち上がった。そのまま頼りない足取りで彼の元まで行くと、
「あの……」
と言った。
この声。
彼はうつむいて必死に嗚咽を噛み殺した。
……彼女の声だ。
「綾瀬くん……あの、私」
彼女は肩の震えを隠そうともせず、怯えたような目をしていた。
「私、と……」
彼女が最後なんと言ったのかは、あまりに彼女の声が小さすぎて聞こえなかった。
しかし彼はその瞬間に自分を偽り、彼女を振り返った。困ったような笑みを浮かべて言う。
「そういうの、駄目なんだ」
彼はまだ、彼女の名前さえ思い出せなかった。
それでも。彼女を守りたい。泣き出しそうな顔をしている彼女を。
彼女を守るためなら、自分の幸せも、自分の想いも、全てを犠牲にして。
『私は世界の全てのものが怖いの』
『……あなたのことも』
それでもいい。それでもいいんだ。
君さえいてくれれば、ただそれだけで。




