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木曜日 Ⅳ

「大切な人を守れなかったんだ、俺」


  ようやく私が落ち着いた頃、ぽつりと綾瀬くんが言った。


「俺は幼くて、無力で、何もできなかった。あの人と一緒にいるとき……俺はすごく幸せで、それ以上何も求めてなんかいなかった。でも向こうはそうでもなかったかな。俺がひとりで勝手に粋がってた感じ」


  遠い過去を話すような口調だった。私たちは今でも十分子供なのに。ほんの数年生きただけなのに。綾瀬くんはまるで私より遥かに長い時を経験してきたみたいに……。

  せいて大人になる必要なんてない。私はまだ大人になんかなりたくない。


「あの人は人間(・・)を恐れていた。人目を避けて、やがて誰かと会うのを拒むようになった。そのうち皆があの人の存在を忘れた」


  忘れ……た?


「あの人が望んだことだったんだ」


『いなくなりたい、消えてしまいたい。誰の記憶にも残りたくない……』


  ふと声が聞こえた。誰? 頭の奥に悲壮に響くこの声。


  気配を殺すことと、消えることは違う。私にはまだきちんと存在がある。ただそれを目立たないよう隠しているだけ。私には居場所がある。

  でも、消えるというのは。

  存在が抹消されて……最初から存在しなかったことに、なる?


「鮮明だった記憶の中のあの人が、どんどん揺らいでいく。月日が経って、あの人のことを覚えているのは俺ひとりだけになった。でも俺も……あの人の名前さえ思い出せなくて。ぼんやりと残像が頭の中に浮かぶ。今にも消えかかりそうな、わずかな影。救う手立てなんかない。あの人が自分で望んだことだから。俺はただ、必死にあの人の記憶を留めようと……」


  それまで冷静に語っていた彼の声が一瞬、震えた。私が顔を上げようとすると、彼の腕が強く私を抱き締めて放さなかった。

 

「幸せになる資格なんてない。俺には」


  私を締め付ける綾瀬くんの腕に力がこもっていく。まるで逃すまいとしているように。もう2度と、失わない。もう2度と。

  息ができなくなりそうだった。


「綾瀬くん、痛い……」


  ふっと力が緩まった。その隙に、私は喘ぐように呼吸をする。


「君には強くなってほしかった。恐怖を克服して、その先はしたたかに。でも、俺にそんな惨いことができるわけなかったんだ。君を傷つけたくない。君は清純に生きるべきだ。つらいことは何ひとつ知らなくてもいい」


  ささやくような彼の声が、物理的な何かを超えて私を締め付ける。痛い、すごく。心臓を切りつけられているみたいに。


「絶望するような現実からは目を背ければいい。目隠しをして生きていけばいい」

「綾瀬くん!!」


  心臓が悲鳴をあげていた。やめて。聞きたくない。耳をふさぎたいけど、そんなのは駄目。

  綾瀬くんが私を受け止めてくれたように。

  私も綾瀬くんの力になりたい。


  私は身体を綾瀬くんから無理やり引き離し、彼を見上げた。


「どうして綾瀬くんがそんなこと言うの? ずるいよ。綾瀬くんは何もかも見限ってる。どうして諦めちゃうの? 綾瀬くんが幸せになっちゃいけないなんて、そんなわけない。そんなわけないのに……!」


  綾瀬くんはきっともう、私みたいな子供の考え方は捨ててしまったんだ。

  色のない目で私を見つめながら、彼は口を開いた。


「嘘つきは俺だよ」


  突然そんなことを言って、私を混乱させる。


「ずっと、俺は虚構だったんだ。本物じゃなかった」


  本物……じゃ、ない?


「本物のユウキは少なくとも俺よりずっと幼くて……あいつじゃ駄目だ。俺が、やらなきゃ。俺は本物のふりをして必死に演技してた。そうしなきゃいけなかった。俺は俺じゃない俺を演じて、そして……」

「………………」

「でももう、終わりにしよう」


  終わり……。

  終わりってどういうこと? どうして? 今日はまだ……。


  でも私は思い出した。制約の正確な期限なんて決めてなかった。だいたい1週間。たった数日。

  私に彼を引き止める権利なんてないんだ。


「綾瀬……くん」

「そろそろ日が傾いてきたし、帰ろうか。立ち話になっちゃったね」


  ふっと綾瀬くんは表情をやわらかくした。


「続きはまた明日にしよう。今日はもう、この話はおしまい」

「え、それって明日もまだ……?」


  私がそっと言うと、綾瀬くんはやっと笑って、私の額に拳をこつんと当てた。


「1週間って言ったでしょ、深和さん」


  それはいつもの綾瀬くんだった。よく笑って、少しだけ(・・・・)大人ないつもの綾瀬くん。


 

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