1-1面
私の名は永嶋 橙子。
しかし、私を知る人は皆、私を『ナナ』と呼ぶ。
あれは小学生の時。
週末、連れて行ってもらった洋服屋で見つけたのは、一枚のニット。
丸い襟ぐりのニットに付いた大きな襟に、根元から先端にかけ白から薄い桃色のグラデーションがかかっていた。
それを一目見て気に入った私は、母におねだりして買って貰らい、翌週意気揚々と学校に登校した。
自席に着くそうそう、いつも私を苛める少年がやってきた。
「おい、橙子。服に値札が付いてんぞ」
「嘘!」
あたふた自分の洋服を見回そうとすると、ぐっと襟の後ろが引っ張られた。
「ダッセー。どれどれ、700円? じゃあ、お前は今日から700円の『ナナ』だな!」
私の不名誉なあだ名の誕生である。
あっという間に広がったあだ名はいつまでも付き纏い、高校二年になった今でも私は通称『ナナ』だ。
汚名を返上したい私は、新しく出来る友達に名前で呼んでください! とお願いしているが、如何せん小学校からの同級生が多い高校だし、あだ名の理由を知った人は、みんな面白がって『ナナ』と呼ぶ。
そして今日も一人、私の隣の席になった雨川君が、あだ名の理由を知ってにこりと笑った。
食べ損ねてた朝食の替わりに、購入したおにぎりを齧ろうとして、口をあーんと開けた瞬間だった。
「ああ、だからナナちゃんなんだね」
雨川君、今日も麗しいお姿です。
ノンフレームのスクエア型の眼鏡の奥の瞳は優しげに微笑んでいる。
淡い青のシャツから覗く首筋や鎖骨、腕などの肌は羨ましいくらい透き通っている。
首を少し傾げれば、髪がさらりと頬に掛かった。
ミディアムショートの艶々の黒い髪には天使の輪。
僕、実は天使だったんだと言われても、「だよね!」と親指を立てて同意したくなるほどのお姿だ。
「そうなの! コイツをやたら構う奴がいてねっ」
ちなみに、あだ名の経緯をばらした上に、今も興奮しつつ話すのは、隣のクラスの私の友人だ。
雨川君はこの学校のアイドルだ。
私が席替えで雨川君の横になったことを知った友人は、早速やってきた。そして、私の周りで騒いでいたら、雨川君が『ナナ』と呼ばれる理由を聞いてきたのだ。
私は口一杯におにぎりを入れてぐもぐしながら、2人の光景を見ている。
雨川君は相変わらず、にこにこと話を聞いている。
「へぇ、でも永嶋さんが700円だったら、僕迷わず買っちゃうな」
トゥクン……。
えっ!? もしかして、雨川君は私の事……。
「買い物に行ってもらったり、荷物持ちとかしてもらうんだけど」
あ、パシリっすか?
ですよねー。
「コイツ食い意地張ってるから、食べ物で買収できるかもだよ?」
「え、ほんと? じゃあ」
机の横に掛けている鞄をごそごぞ探り、彼が何かを取り出した。
「永嶋さん、あーん」
そういって、雨川君が手にした何かを私に向ける。
友人がなにやら酷いことを言ったが、食べ物に罪はない。
さぁ、雨川君が手に取りし食べ物よ、我が口に降臨せよ!!
目を閉じて大きく口を開けると、舌の上に何か置かれた。
口をとじれば舌の熱で何かが少し溶け、甘い香りが鼻を抜ける。
チョコレートだ!
咀嚼せずとも私の熱だけで溶けていくそれは、程なくして形を無くした。
あまりの美味しさに頬に笑みが浮かび、こくりと飲み込む。
「ご馳走様でした」
キラキラとした目で雨川君を見上げ、お礼を伝える。
「どういたしまして。それ一粒千円なんだよ」
なるほど、お値段通りの味でございました。
「放課後は暇?チャリ通だよね?」
こくりと頷く。
「じゃあ、これから毎日付き合ってね」
ん?
「僕が入ってる『料理研究部』のお手伝いだよ? 良い子にしてたらちゃんと食べ物もあげるから」
食べ物(餌)だって!?
し、しかたないな。
べ、別に食べ物に釣られて、雨川君に買収されるんじゃないんだからね!
こくりと頷き、彼を見上げた。
「この永嶋 橙子。喜んで、雨川君の犬になりましょうっ」
あれ、パシリだっけか?
「よろしくね、永嶋さん」
こうして、雨川君と私の『友達以上パシリ未満』の日々が始まったのです。
【おまけ】ナナとチョコ
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雨川君がくれたチョコ、美味しかったなぁ。
あのチョコが出てきた鞄を見ていれば、また貰えるかも知れないっ。
じぃーーーーーーーーー。
「永嶋さん? あぁ、あのチョコ食べたいの?」
こくこく。
「はい、どうぞ。さっきと同じだけど」
二粒のチョコが机の上に置かれた。
もぞもぞ、パクリ。
あれ? なんか美味しくないような……。
ああ、そっか。
雨川君のシャツの端を二度引っ張った。
貰った残りの一粒を、渡してくれた手に問答無用で戻す。
そして、大きく口を開けた。
私の望みに気づいた雨川君が、チョコを口に運んでくれる。
うん、やっぱり美味しいっ!
私の顔を見て、雨川君が笑った。
チョコの味が更においしくなった気がした。